第2話 奇妙な首輪の迷い猫
「山猫探偵事務所」の看板を掲げてから二週間。祖父が使っていたアンティークの置き時計が刻む音だけが、やけに大きく店内に響いていた。山根琴子は、依頼人の来ない事務所の机で、古びた探偵小説のページを意味もなくめくっていた。憧れた名探偵の活躍と、閑古鳥が鳴く現実とのギャップに、胸の奥で小さなため息が生まれては消えていく。
その時だった。カラン、と喫茶「山猫亭」のドアベルが、少し掠れた音を立てた。
「いらっしゃいま……」
母・静子の穏やかな声が途中で止まる。琴子が顔を上げると、入り口に小さな影が立っていた。洗いざらしのTシャツに半ズボン、少し大きめのスニーカー。小学高学年くらいの少年が、緊張した面持ちで店内を見回している。
少年は、喫茶店のカウンターには目もくれず、琴子が陣取る事務所スペースの、手書きの看板をじっと見つめていた。そして、意を決したように、こつ、こつ、と小さな足音を立てて近づいてくる。
「あの……ここ、探偵事務所、ですか?」
差し出されたのは、初めての依頼だった。
少年の名前は佐藤健太。彼の依頼は、一見すればどこにでもある「迷い猫探し」だった。
「ミミっていうんです。三日前に、いなくなっちゃって……」
健太はそう言って、俯いた。その小さな背中が、心なしか丸まっているように見える。琴子は、依頼人の話を聞くときの癖で、かけていた眼鏡を少しずらし、彼の目をまっすぐに見つめた。
「そっか、ミミちゃん。心配だね。どんな子なの? 特徴とか、教えてくれる?」
琴子の優しい声に、健太は顔を上げた。その瞳は、不安に揺れている。
「白くて、ふわふわで……。でも、一番の特徴はこれです」
そう言って健太がリュックから取り出し、テーブルの上に置いたのは、一匹の猫が付けていたとされる首輪だった。琴子は思わず息をのんだ。それは、ペットショップで売られているようなありふれたものではなかった。深い青色の革に、銀色の糸で、まるで星座か何かを描いたような、複雑で幾何学的な模様が刺繍されている。中央には、三日月をかたどった小さな鈴が、静かな光を放っていた。
「……素敵な首輪だね。手作り?」
「う、うん。たぶん……。拾った時から、これをつけてて」
健太はそう言うと、また視線を落とし、指先でズボンの裾をいじり始めた。困ったとき、何かを隠しているときの、子どもの無意識の仕草。琴子の心に、微かな警鐘が鳴った。この依頼は、ただの迷い猫探しではない。この奇妙で美しい首輪は、もっと複雑な物語の入り口を示しているように思えた。
「健太くん。君にとって、ミミちゃんはとても大切な存在なんだね。でも、何か、僕に隠していることはないかな。探偵として、君の力になるためには、どんな些細なことでも知っておきたいんだ。君が抱えているものが、ミミちゃんを見つけるための、一番大事なヒントになるかもしれないから」
琴子は、あえて「僕」という、憧れの探偵が使う一人称で語りかけた。それは未熟な自分を鼓舞するための、小さなまじないのようなものだった。彼女の真摯な眼差しに、健太の瞳が大きく揺れる。
「……隠してることなんて、ないよ。ただ……ミミがいなくなると、お母さんとお父さんが……」
言いかけて、健太は唇を固く結んだ。家族の間に何かがある。その何かを、この少年はたった一人で背負い込み、「優しい嘘」で守ろうとしているのだ。その健気さが、琴子の胸を強く打った。
「分かった。無理にとは言わないよ。でも、覚えておいて。君は一人じゃない。僕、山根琴子は、君の味方だ。必ずミミちゃんを見つけ出す。約束する」
誠実さが、彼女の唯一の武器だった。その言葉に嘘はなかった。健太は、こわばっていた表情を少しだけ緩め、こくりと頷いた。彼の小さな肩から、ほんの少しだけ重荷が降りたように見えた。
健太が帰った後、琴子は一人、事務所の机で例の首輪を手に取った。銀糸の刺繍は、光の角度によってキラキラと輝き、まるで夜空の星々が瞬いているようだ。ファンタジー小説に出てくる魔法のアイテムのようでもある。
これは、単なる猫の捜索依頼ではない。「ちょっと厄介な依頼」だ。しかし、だからこそ、琴子の心は燃えていた。健太の瞳の奥にあった深い不安と、その裏に隠されたであろう「思いやり」。それを解き明かすことこそ、自分が目指す探偵の仕事なのではないか。
耳の横の髪を指でくるくると巻きながら、琴子は決意を新たにする。失くした過去の記憶の断片が、この奇妙な首輪と、どこかで繋がっているような、そんな不思議な予感がしていた。
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