1話 はい、こちら「山猫探偵事務所」です!

地方都市の古い商店街から一本脇道に入った、忘れられたような路地裏。そこに、喫茶「山猫亭」はひっそりと息づいていた。磨き込まれた木の扉を開けると、カラン、と涼やかなベルの音が鳴り、客を迎える。店内には、焙煎されたコーヒー豆の香ばしさと、母・静子がカウンターの奥で煮込むハヤシライスの匂いが、穏やかな時間と共に満ちていた。

その店の片隅、窓際の席を一つ潰して設けられたのが、私の仕事場――「山猫探偵事務所」だ。

「はぁ……」

今日、何度目になるか分からない深いため息が、私の口から漏れた。壁に飾った、敬愛する探偵小説の挿絵。パイプを燻らせ、難事件に挑む名探偵の凛々しい横顔が、やけに私を惨めにさせる。憧れだけで看板を掲げたはいいものの、現実は甘くない。開業から一ヶ月、依頼人はおろか、問い合わせの電話一本鳴らなかった。

カチ、コチ、カチ、コチ……。

カウンターに置かれた、祖父の形見だというアンティークの置き時計の秒針だけが、私の焦りを煽るように時を刻んでいる。理想と現実のあまりのギャップに、胸がぎゅうっと締め付けられる。探偵としての自信なんて、とうの昔に豆と一緒に挽かれて、出がらしになってしまった気分だ。

「だめだめ、こんなんじゃ」

私は両手で頬を叩き、気合を入れ直す。不意に依頼が来た時のために、応対の練習だけは欠かせない。

「はい、こちら山猫探偵事務所です! どのようなご依頼でしょうか?」

誰もいない空間に向かって、私は精一杯、快活な声を装う。しかし、返ってくるのは虚しい沈黙と、店の奥で静かにジャズを流すレコードの音だけ。空回りする心と連動するように、無意識に耳の横の髪の毛を指でくるくると巻いてしまう。私の悪い癖だった。

「琴子」

不意に、穏やかな声がした。顔を上げると、母の静子が、湯気の立つマグカップを手に立っていた。白磁のカップには、琴子が幼い頃に描いた、下手くそな猫の絵が描かれている。

「……お母さん」 「少し、休憩なさい。根を詰めすぎても、良い考えは浮かばないわ。それに、あなたが憧れていた探偵さんだって、いつも事件ばかり追いかけていたわけじゃないでしょう?」

静子はそう言うと、私の机にそっとマグカップを置いた。ふわりと漂う、蜂蜜と生姜の甘く優しい香り。それは、私が考え事で行き詰まった時に、母がいつも淹れてくれる特製のホットミルクだった。その変わらない「思いやり」が、ささくれだった私の心をじんわりと溶かしていく。

「……でも、私、このままでいいのかな。探偵なんて、私には向いてなかったのかも。未熟で、不器用で、何の取り柄もないのに」 「取り柄がないですって? それは違うわ、琴子」

静子はカウンターに戻りながら、きっぱりとした声で言った。

「あなたはね、人の痛みがわかる子よ。誰かがついた『優しい嘘』の裏側にある、本当の気持ちを見ようとすることができる。それは、どんなに頭が切れる探偵にも真似できない、あなただけの才能。事件の謎を解くだけが探偵の仕事じゃない。人の心に寄り添い、こんがらがった糸を優しく解いてあげること。あなたが夢中になって読んでいた、あの古い探偵小説の主人公のように。そういう探偵に、あなたはなりたいんじゃないの?」

母の言葉は、まるで魔法のように私の心に染み込んだ。そうだ。私がなりたかったのは、ただ事件を解決するヒーローじゃない。中学生の頃、親友との些細な誤解から生まれた溝を、互いの不器用な「思いやり」を信じることで埋められた、あの時のように。人の心の温かさを信じ、誠実に、一生懸命に向き合う。そんな探偵に。

私はゆっくりとマグカップを両手で包み込んだ。温かさが、指先から全身へと広がっていく。

「ありがとう、お母さん」

空っぽだった心に、再び小さな灯火がともるのを感じた。まだ頼りなく揺れているけれど、決して消えはしない。

私はもう一度、壁の挿絵を見上げた。名探偵が、今度は少しだけ優しく微笑んでくれた気がした。

カラン――。

その時、店のドアベルが、先ほどまでとは違う、確かな来訪を告げる音を立てた。

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