3話 忘却を拒むインク

「もう、関係ない人間だ」

相馬巧は、琥珀色の液体が揺れるグラスの縁を指でなぞりながら、誰にともなく呟いた。安物のウイスキーが、消毒液のように喉を焼く。部屋の明かりはつけず、窓から差し込む街の光だけが、床に散らばる本の背をぼんやりと照らしていた。その中心に、忌まわしい存在感を放つ『La Triangulation silencieuse』が鎮座している。彼は意図的に視線を外し、グラスを重ねた。忘却。それが今、彼が渇望する唯一の救いだった。

だが、アルコールが脳の輪郭を曖昧にするほどに、記憶はかえってその鋭さを増す。脳裏に突き刺さるのは、離婚間際の元妻・美咲の言葉だった。冷え切った冬の夜、二人で築いたはずの部屋の空気は、互いの絶望で凍てついていた。

きっかけは、5年前に社内で自死した若手作家・水上蓮の死の真相。相馬はあくまで言葉の定義と事実の整合性にこだわり、美咲は隠された真実を言葉で暴くべきだと主張した。議論は、やがて互いの存在そのものを否定する刃と化した。

「憶測は暴力だ。根拠のない言葉で誰かを断罪するのは、僕が最も憎むべき行為だ。言葉は事実に基づいて、どこまでも正確に扱われなければならない。君がやろうとしていることは、真実の探求などではない。感情に任せた、ただの私刑(リンチ)だ!」

書棚に並んだ辞書や文献を背に、相馬は自分の正しさを盾にそう叫んだ。彼のプライド、彼の存在意義そのものである「言葉の正確さ」への潔癖なまでの執着が、そう言わせた。

すると美咲は、まるで初めて見る憐れな生き物を見るかのような目で彼を見つめ、静かに、しかし心の芯まで凍らせるような声で言った。

「あなたは……本当に、言葉だけの人間なのね」

「何だと?」

「その『正確さ』って一体何?誰かが決めたルール?安全な場所から石を投げるための理屈?あなたはいつだってそうよ。自分の手の届く範囲の、辞書という安全な檻の中に閉じこもって、現実から目を背けているだけじゃない。水上くんは、その檻の外で、得体の知れない無数の言葉の暴力に嬲り殺されたのよ!なのにあなたは、まだ辞書のページをめくって、言葉の定義がどうだとか、用法の誤りを指摘するつもりなの!?現実から目を背けて、正しい言葉の後ろに隠れているだけの臆病者よ!」

彼女の最後の言葉が、詩集の無言の叫びと重なり、今も彼の鼓膜を苛む。拷問のような反芻。言葉は人を救うのではなかったのか。では、自分が信じてきたものは何だったのか。

相馬はよろめきながら立ち上がり、書棚へと向かう。指先が、積もった埃を払いのける。その奥にしまい込んでいたのは、学生時代に書きつけた拙い詩をまとめた手製の冊子。そして、その隣に横たわる一本の万年筆。滑らかな黒檀の軸に、銀のクリップ。就職祝いだと、美咲が贈ってくれた特注品だった。かつてはこれで、言葉の力を信じて赤字を入れていた。文学賞を受賞した本のゲラも、このペンで校正した。

だが、今はどうだ。彼はキャップを外し、ペン先を白い紙の上で滑らせてみる。しかし、そこにインクの軌跡は現れない。ただ乾いた感触が、虚しく紙を削るだけ。

インクは、とうの昔に切れたまま放置されていた。 それは、言葉への情熱を、そして自分自身を見失った彼の魂のメタファーそのものだった。美咲の死は事故だ。そうに違いない。そうでなければならない。関われば、またあの言葉の迷宮に引きずり込まれる。真実も嘘も、正義も悪も、全てが溶け合った混沌の中へ。

相馬は万年筆を強く握りしめる。冷たい感触だけが、彼がまだ此処にいるという現実を突きつけていた。

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