4話 静かなる問いかけ

無為な時間が、インクの染みのように相馬巧の日常に広がっていた。元妻・美咲の死から数日。世界は何も変わらず、ただ彼の内側だけが、重い湿気を含んだ紙のように波打っている。言の葉社の校閲部。蛍光灯の白い光が、彼のデスクに積まれたゲラの山を無感情に照らし出す。周囲では、締め切り前の焦燥と、時折混じる軽薄な笑い声が飛び交っているが、そのどれもが厚いガラスを隔てた向こう側の出来事のようだった。相馬は、ただペン先のインク残量を気にしながら、機械的に赤字を入れていく。言葉は意味を剥ぎ取られ、記号の羅列と化す。それが彼の信じる、今の世界の真理だった。

「相馬くん」

不意に、静かで張りのある声が鼓膜を揺らした。顔を上げると、そこに榊志乃(さかき しの)が立っていた。言の葉社の重鎮。柔らかい物腰と、全てを見透かすような深い瞳を持つ、この出版社の生き字引のような女性だ。彼女のデスクには、いつも季節の花が活けられている。今は、凛とした紫色の桔梗が、彼女の静謐な佇まいを代弁するかのように咲いていた。そしてその傍らには、古びた原稿用紙の束が、まるで聖遺物のように置かれている。五年前に自ら命を絶った若き作家、水上蓮の直筆原稿だ。美貌を讃えながらも独身を貫く彼女--いつしか社内では、水上と彼女は作家と編集者以上の関係なのではないかという根も歯もない噂が立っていた。

「少し、いいかしら」

榊は有無を言わせぬ穏やかさで相馬を促し、社内の奥まった書庫へと導いた。そこは、古い紙とインクの匂いが濃密に漂う、時の澱が溜まったような空間だった。巨大な書架が壁という壁を埋め尽くし、迷宮のように入り組んでいる。埃をかぶった稀覯書や、過去の文芸誌のバックナンバーが、無数の声なき言葉を発しているかのようだ。榊は窓際の一角、わずかに光が差し込む閲覧スペースで足を止め、相馬に向き合った。

彼女はゆっくりと、まるで儀式のようにコーヒーカップを指先で回しながら、口火を切った。

「あなたの元奥様、美咲さんのこと、お気の毒だったわね。…でも、ただ悼むだけでは、彼女は浮かばれないかもしれない」

「……何が言いたいんですか」

相馬の声には、自分でも意識しないうちに棘が混じっていた。同情も慰めも、今の彼にとっては表層的な言葉の戯れに過ぎない。

榊は、彼の刺を意にも介さず、静かな微笑みをたたえたまま続けた。

「言葉というものは、一度この世に放たれてしまえば、書いた本人がいなくなっても生き続ける。それは時に誰かを救う光となり、時に誰かを苛む呪いともなる。あなたは校閲者として、その真理を誰よりも知っているはずよ。言葉の死体も、言葉の亡霊も、幾度となくその目で見てきたでしょう?」

「死んだ人間の言葉に意味を見出すのは、生きている人間の感傷ですよ。都合のいい解釈を当てはめて、物語を捏造しているに過ぎない。俺は……もう、そういうのはうんざりなんです」

「感傷? いいえ、私はそれを『責任』と呼びたいわ」

榊の瞳が、薄暗い書庫の中で鋭い光を放った。

「言葉を書き、編み、世に送り出す者たちの、ね。美咲さんは、その責任を果たそうとしていたのではないかしら。あなたが見て見ぬふりをしている、その責任を。彼女が遺した『アクロスティック・ラメント』……あの言葉の羅列を、本当に無意味なものにしてしまっていいのかしら。彼女の最後の言葉を、魂の叫びを、あなたが無視していいものなの?」

その問いは、重い鉛となって相馬の胸に沈んだ。榊の言葉は、彼が必死に目を背けてきた核心を、容赦なく抉り出す。美咲との最後の会話、彼女の絶望と怒りが入り混じった瞳、そして「言葉だけの人間」という烙印。

相馬が反論の言葉を探して口ごもっていると、榊は決定的な一撃を放った。

「美咲さん、亡くなる直前まで、ここの資料室で熱心に何かを調べていたわ。それも、五年前に亡くなった水上蓮くんの事件に関する資料を。まるで、何かを確かめるように、あるいは、何かと何かを繋ぎ合わせようとしているかのようにね」

五年前の事件。水上蓮の死。相馬の中で、閉ざされていた記憶の扉が軋みを立てて開く。あの時、曖昧な言葉で塗り固められ、社内の平穏のために封印された「真実」。美咲は、その闇の奥を覗き込もうとしていたのか。だから、死んだのか。

「……なぜ、それを俺に?」

絞り出すような声だった。榊はゆっくりとコーヒーを一口飲むと、静かにカップを置いた。

「さあ、なぜかしら。ただ……あなたなら、彼女が遺した言葉の本当の意味を、見つけ出せるかもしれないと思っただけ。校閲者としてのあなたの目は、嘘や欺瞞を決して見逃さない。その潔癖なまでの執着が、今、必要とされているのかもしれないわ」

榊はそう言うと、静かに立ち上がり、書庫の闇の中へと消えていった。

一人残された相馬は、動けずにいた。古書の匂いが、彼の思考を絡めとる。榊の言葉は、彼の内側で燻っていた疑念の火種に、静かに、しかし確実に油を注いだ。それはもはや、感傷や過去への執着ではない。言葉の番人としての、最後の矜持を賭けた問いだった。美咲が遺した難解な詩集は、単なる言葉の残骸ではない。それは、封印された過去を暴き、偽りの世界に突き立てられた、告発の刃なのだ。

相馬は固く拳を握りしめた。モノクロームだった彼の世界に、再び「赤」という色が、鮮烈な意味を持って浮かび上がろうとしていた。

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