2話 不協和音のラメント

ポケットの中で、スマートフォンがモノトーンの電子音を奏でた。着信を告げるその無機質な響きは、相馬巧の灰色の日常に馴染みすぎている。画面には見慣れぬ番号。詐欺の電話か、仕事の催促か、あるいは間違い電話か。どちらにせよ、彼の世界の色を変えるものではない。気怠くスワイプすると、ノイズ混じりの男の声が鼓膜を打った。

「相馬巧さんの、お電話でよろしいでしょうか」 「……そうですが」 「わたくし、所轄の者ですが。奥様……いえ、元奥様の相馬美咲さんの件で」

元妻、美咲。その名を聞いた瞬間、相馬の思考が数秒間停止した。時間の流れから切り離されたような静寂。電話の向こうで男が言葉を続ける。事務的で、感情の抑揚を意図的に排した、それでいてどこか弛緩した声。

「本日未明、伊集院雅也氏が代表を務める企業の入居するビルから、女性が転落したとの通報がありまして。身元を確認したところ、相馬美咲さんと判明いたしました。大変、申し上げにくいのですが……」

言葉のプロとして、相馬はその声色に含まれる欺瞞を嗅ぎ取っていた。男は「申し上げにくい」と言いながら、その実、何の痛みも感じていない。台本を読み上げる役者のように、ただ役割をこなしているだけだ。

「…死亡が、確認されました。ご遺族として、一度署までお越しいただきたく」 「…事故、ですか」 相馬の声は自分でも驚くほど乾いていた。 「ええ、まあ。今のところ、事件性はないものと見ています。ご本人が何かに悩んでおられたとか、そういった線で…」

『事件性はない』『悩んでおられた』。校閲者の脳が、その定型句の持つ曖昧さと逃げ道を瞬時に解析する。それは真実を固定するための言葉ではなく、思考を停止させるための麻薬だ。相馬は、その言葉が孕む空虚さに吐き気を覚えた。

数日後、彼の殺風景なアパートに、分厚い段ボール箱がひとつ届けられた。美咲の遺品だという。警察署で対面した刑事の顔と言葉を思い出す。「ご愁傷様です。まあ、よくあることなんですよ、こういうのは。仕事のストレスとか、家庭内の不和とか…」。その言葉を、相馬は真っ赤なインクで塗り潰したい衝動に駆られた。

「『よくあること』? あなた方はそれを『事故』という言葉だけで片付けようというのか。彼女がどんな人間で、どんな言葉を大切にし、どんな嘘を憎んでいたか、何も知らないくせに。彼女の死を、ありふれた統計データの一つに流し込むな」

もちろん、そんな言葉は口には出さなかった。ただ無言で、刑事の差し出す書類の誤字を頭の中で指摘するだけだった。感情を言葉にすることを、彼はとうに諦めている。

段ボール箱を開ける。中には彼女が使っていた化粧品や、数冊の文庫本、趣味の悪い置物。相馬の記憶の中の美咲と、目の前の遺品との間には、埋めがたい断絶があった。俺は彼女の何を理解していたのだろう。ウイスキーのグラスを傾けながら、自嘲がこみ上げる。

その時、箱の底で指先が異質な感触を捉えた。他のどの本とも違う、ざらりとした手触りのハードカバー。引き出すと、それは黒一色の装丁が施された、タイトルもない本だった。いや、よく見ると、表紙に銀の箔押しで、かろうじて読める文字が刻まれている。

『La Triangulation silencieuse』—日本語にすると「静かな三角測量』

悲歌、哀歌、慟哭。ページをめくると、脈絡のない言葉が、まるで壊れた自動翻訳のように無秩序に並んでいた。感情のない記号の羅列。彼が最も嫌悪する、意味を剥奪された言葉の死骸だ。

だが、閉じる直前、彼の鋭い観察眼が、その死骸の中に隠された不自然な構造を見抜いた。

一行ごとの文字数が不自然に揃えられている。 特定の助詞だけが意図的に、そして徹底的に排除されている。 そして、各行の頭文字。そこには奇妙な法則性があった。

これは詩ではない。感情の吐露でもない。 これは設計図だ。緻密に計算され、組み立てられた言葉の構造物。解読されることを前提として、誰かに宛てて遺された、無言の告発状だ。

相馬は息を呑んだ。モノクロームだった彼の世界に、その黒い本だけが、不協和音を奏でる異物として、禍々しい存在感を放ち始めていた。

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