第8話 すり替わった名義

鵜飼の家を辞したあと、私たちは団地へ戻る道すがら、ほとんど言葉を交わさなかった。沈黙は気まずさからではなく、互いの中でまだ形になっていない言葉を、無理に押し出さないための沈黙だった。

四号棟の部屋に戻ると、美和さんは迷うそぶりも見せず、コートを脱いでバインダーを机に置いた。

「今夜は、帰りません」

それだけ言って、彼女は台所のテーブルに資料を広げ始めた。私は何も聞かなかった。聞けば、彼女がどれほどの時間をこの件のために割いてきたのかを、数字にして突きつけられる気がしたからだ。

机の上には、二十通の手紙が年代順に並んでいる。その隣に、美和さんが集会所で複写してきた見回り表の写し、鵜飼さんのファイルから借り受けた転居届の控え、郵便受けの改修記録。紙の種類も大きさもばらばらなそれらを、私は紙質ごとに重ねず、発生した場所ごとに分けて並べ直した。手紙、公的書類、私的な控え。三つの列に分けると、机の上に薄い地図が浮かび上がるように見えた。

蛍光灯の下で、紙はどれも同じ白さに見える。けれど目を凝らすと、黄ばみの濃淡、繊維の粗さ、罫線の青みがそれぞれ違う。手紙の便箋は久世慎一の几帳面な几帳面さを宿し、見回り表の紙は団地の湿気を吸って波打ち、転居届の控えだけが、役所の保存庫の乾いた空気を覚えているかのように、角がぱりっと硬かった。

「この名前、見てください」

美和さんが、転居届の控えの一点を指差した。

《久世》という姓のあとに続く名の欄に、インクの色がわずかに違う箇所がある。一画だけ、あとから書き足されたような硬さがあった。

「これだけ、別の筆記具で書かれています。しかも、この名前――控えの原本には存在しているのに、当時の住民の誰からも、聞き取りの証言に出てきていません」

「存在しているのに、誰も覚えていない」

「ええ。普通なら逆です。証言にだけ出てきて、書類に残っていない名前のほうが、よくあるケースです。記入漏れ、聞き違い、忘却。でも、こちらは書類の中にだけ、きちんと存在している」

私は手紙の束に目を移した。亡き妻宛て、息子宛て、失踪した妹宛て。そのどれにも登場しない名前が、便箋の端に一度だけ、小さく書かれている箇所があった。消しかけて、消しきれなかったような、薄い鉛筆の跡だった。

《――ちゃんは、もう》

そこで文字は途切れている。続きはない。だがその名前は、転居届の控えにあった名前と、最初の一文字だけが重なっていた。

息を浅く止めた。

記憶の底で、何かが小さく軋む音がした。顔のない誰かの声。湿った階段を踏む足音。焦げた布の匂い。誰かの指が私の手首を強く握っている感触。けれど、顔は見えない。名前も聞こえない。あるのは、冷たい鉄の手すりと、暗い踊り場の角に落ちていた赤い紙片だけだ。

鉛筆を指の間で回しながら、私は机の端に並べた封筒の列を見つめた。整っているのに、どこか一通だけ、わずかに浮いて見える。角の揃え方が、ほかの封筒よりほんの少しだけ強い。糊を押しつけた指の力が、違う人間のものだったのではないかと思わせるほどに。

「この控え、書き直された跡があります」

美和さんが、別の紙を広げた。火災直後の住民名簿の写しだった。

「普通の訂正なら、二重線を引いて、上に書き直します。でもこれは、まったく別の紙に清書し直されている。筆跡は似せてありますが、よく見ると、払いの角度が違います。名前の最後の一画だけ、わずかに力が強い」

「誰かが、急いで書き換えたということですか」

「いいえ」

美和さんは首を振った。

「急いだ跡ではありません。これは、時間をかけて、何度も練習したあとの筆跡です。急ごしらえの改ざんなら、筆圧も字のバランスも、もっと崩れます。でもこの名前は、まるで最初からそこにあったみたいに、自然に馴染んでいる。誰かが、長い時間をかけて、生活そのものに合わせて整えたんだと思います」

「生活に合わせて」

「ええ。一度きりの嘘ではなく、何年もかけて嘘を育てた、という意味です」

美和さんの声は、相変わらず穏やかだった。だがその穏やかさの底に、これまで聞いたことのない硬さが混じっていた。

「相沢さん。行政の記録というのは、事故のあとで真実を隠すためだけに使われるとは限りません。むしろ、真実がもう二度と表に出ないような、そういう『形』を作るために使われることがあります。隠すのではなく、作り直すんです。誰かが困らないように、誰かが責められないように、現実のほうを書き換えてしまう」

私は頷かなかった。頷けば、その先にあるものを認めることになる気がした。

「それは……正しいことなんでしょうか」

「正しさの問題ではないと思います」

美和さんは、転居届の控えを両手で持ち直した。

「正しいか正しくないかより先に、誰かが決めてしまったという事実があります。その人が何を思って決めたのかは、まだ分かりません。でも、決めた結果だけが、こうして二十年分の紙になって残っている。相沢さんが今向き合っているのは、正しさではなく、誰かが背負った重さなんだと思います」

その言葉は、刃のように静かに私の中へ入ってきた。反論する言葉を探したが、見つからなかった。

机の端に、まだ封を切られていない一通が残っていた。片倉さんが口にした「最後の一通」。宛名のない、クリーム色の封筒。角は何度も指で押さえられたように滑らかで、そこだけが、ほかのどの手紙よりも長く、机の上に置かれていたことを物語っていた。

私はそれを手に取った。

紙の縁に、指の腹が触れる。乾いているのに、どこか湿り気を含んでいるような錯覚がある。封を切る前に、一度、目を閉じた。これまでに切ってきた封の音が、耳の奥で重なって聞こえる気がした。薄い紙が裂ける音。部屋全体が、その音を待っているような静けさ。

爪を入れる。

ぺり、と封が開いた。

便箋を取り出す。久世慎一の筆跡は、ほかの手紙よりもさらに震えていた。老いた指が、最後の力を振り絞って文字を刻んだような跡だった。

《誰に宛てればいいのか、もう分からない。玲子にも、透にも、妹にも。届けるべき相手は、もうずっと前から、ひとりしかいなかったのかもしれない》

そこまで読んで、私は一度、紙から目を離した。胸の奥で、何かが静かに崩れ始めていた。

《あの夜、俺が抱き上げたのは、透ではなかった。名前を呼んでも、あの子は答えなかった。呼べる名前が、もうどこにもなかったからだ。玲子は、あの子を実里と呼ぶことに決めた。死んだことになっている子の名前でも、生きている子の名前でもない、新しい名前を》

実里。

自分の名前が、久世慎一の文字の中にあった。

私は便箋を持つ手を、机の上に落とした。立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。椅子の背もたれに体重を預けたまま、しばらく動けなかった。

胸の中にずっとあった空白――両親から詳しく聞かされたことのない幼少期、雨降り坂団地に対する根拠のない既視感、濡れた階段を見ると足が止まる癖――それらが、紙の上の文字とぴたりと重なっていく感触があった。

少女の身元は、消されたのではなかった。

名前だけが消されて、別の人生の形に合わせて、移し替えられたのだ。

「相沢さん」

美和さんの声が、遠くから聞こえた。

「大丈夫ですか」

「……分かりません」

それだけ答えるのが、やっとだった。

まだ、言葉にはできない。久世慎一が、何を思ってこの名を選んだのか。久世玲子が、何を守ろうとしてこの名を与えたのか。自分がその「あの子」であるという確信にも、まだ届いていない。

けれど、手の中の便箋は、もう元の軽さには戻らなかった。二十年のあいだ、誰にも渡されなかった紙の重さが、ようやく私の手に移ってきていた。

窓の外で、どこかの郵便受けが風に揺れて、小さく鳴った。

かたん。

その音を、私はもう、仕事の音として聞くことができなかった。

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