第9話 透の腕時計

雨の翌朝、私は雨降り坂団地へ向かった。

空は明るかったが、雨が上がったあとの団地には、まだ夜の湿気が残っていた。四号棟へ続く通路の脇にある植え込みは、葉の先に水滴をいくつも溜めている。風が吹くたび、重たそうに揺れ、落ちた雫が土へ吸い込まれていった。

階段のタイルは濡れていた。

私は一段目の前で足を止めた。靴底から伝わる水気を想像しただけで、左手の指が内側へ丸まる。濡れた鉄の手すり。焦げた布の匂い。誰かに握られた手首の細さ。

けれど、今日は手すりに触れなかった。

一段ずつ、足元を確かめて上がる。呼吸を数えようとして、やめた。数えれば、あの夜の階段と今の階段を、数字で繋いでしまう気がした。

三階の廊下には、久世透が立っていた。

濡れたわけでもないのに、彼のコートの肩には外の冷たさが残っているように見えた。昨日より顔色が悪い。髭を剃る時間もなかったのか、顎のあたりに薄い影がある。彼は私を見ると、挨拶の代わりに腕時計へ目を落とした。

古い腕時計だった。革のベルトは使い込まれて黒ずみ、文字盤のガラスには細い傷が走っている。

「早いですね」

「相沢さんもな」

「お父様の部屋へ?」

「見ないつもりだった」

透はそう言いながら、ドアの向こうを見ていた。

「でも、来たんですね」

「来たくて来たわけじゃない。母の裁縫箱が見つかった」

「裁縫箱?」

「親父の机の下にあった。俺が子どもの頃、母が使っていたものだ。持ち帰るつもりはない。ただ、中に鍵が入っていた」

透はポケットから小さな鍵を取り出した。古い真鍮色で、先端に赤い糸が絡んでいる。鍵を置く前に、彼は指先で何度も角度を確かめた。

「どこの鍵かは、まだ分かりません」

「それを調べるために来たんですか」

「それだけじゃない」

透はドアノブへ手を伸ばした。

「昨日、あんたが読んだ手紙の続きがあるなら、聞かせろ」

私は鍵を開けた。

部屋の中は、昨日のままだった。古い紙の匂い。止まった壁掛け時計。誰も座らなくなった食卓。窓辺のラジオには薄く埃が積もり、隣には洗って伏せられた湯飲みが一つだけ残っている。

机の上には、二十通の手紙が並んでいた。

私は封筒の角を揃えた。透はその動きを見ていたが、何も言わなかった。彼もまた、赤い消印の封筒を手に取る前に、机の端を指で二度叩いた。

「この封筒は、母の字か」

「その可能性が高いです。久世さんの筆跡とは、払い方が違います」

「母は、もっと字がきれいだった」

「きれいすぎる、と美和さんは言っていました」

「母の字は、いつもそうだった。帳面でも手紙でも、行が曲がらない。俺が小学校で書いた作文を見て、内容より先に文字の傾きを直したくらいだ」

透は笑いかけた。しかし、その笑いは口元で止まった。

「変な人だったよ。優しいけど、優しさの使い方が怖い。何か困ったことが起きると、俺に聞く前に全部片づけてしまう。先生に怒られたときも、俺が何を言ったか聞かずに学校へ行って、俺の代わりに謝った。友達と喧嘩したときも、相手の家へ菓子を持っていった。俺は悪くないことまで、母の中ではもう終わったことにされていた」

「終わったことにすることで、家族を守ろうとしたのでしょうか」

「たぶん。でも、守られた側には、何から守られたのか分からない。分からないまま、母が決めた結果だけを受け取ることになる」

透は鍵を机へ置いた。

「親父も同じだった。母ほど手際はよくないが、黙っていれば何とかなると思っていた。俺が聞けば、疲れているからと話を切る。母が泣いていても、風呂が沸いているからと台所へ逃げる。二人とも、家族の中で起きたことを、家族に知らせないまま守ろうとした」

「だから、お父様を冷たい人だと思った」

「思ったんじゃない。そう決めた」

透は腕時計を見た。針は、実際の時刻より三分遅れている。

「決めないと、俺はあの家にいられなかった。父親が自分を守るために黙っているのか、家族を守るために黙っているのか、子どもには分からない。分からないものは、いちばん悪い方に考える。期待して、違ったときのほうが痛いからな」

私は、手紙の束から一通を取り出した。宛名は玲子。封はすでに開いている。

「この続きを読んでもいいですか」

「俺に聞くなよ。もう、俺たちは聞かないことで二十年を使い切った」

私は便箋をなでた。紙の中央に、指を置いた跡が残っている。久世慎一は書く前に、いつもここへ手を置いたのだろう。言葉を始める前に、紙の上で何かを押さえつけるように。

《玲子へ。透には、あの子のことを知らせないほうがいいと言ったな。あの子を引き取ったと知られれば、透の身元まで調べられる。あの夜、何を見たのかと、警察に何度も聞かれる。おまえは、透を普通の子どもとして残すためだと言った》

私は読み上げた。

透は、机ではなく窓の外を見ていた。

《俺はおまえに従った。従えば、透の生活は壊れないと思った。あの子も、別の名前を持てば、遠くへ行けると思った。だが、名前を変えたのは、命を守ったことなのか。名前を奪ったことなのか。二十年経っても、俺には分からない》

その先には、何度も書き直された痕があった。インクが濃くなったり薄くなったりし、同じ文が三度、途中まで残っている。

《あの子は、泣かなかった》

《あの子は、泣けなかった》

《泣かせてやれなかった》

私は声を止めた。

透が腕時計の竜頭に触れた。巻き直す必要などないのに、指先で何度も撫でている。

「それは、親父が書いたのか」

「はい」

「母のことを責めているのか」

「分かりません。責めたいのに、責める言葉を途中で消しているように見えます」

「親父は、いつもそうだった」

透は低く言った。

「誰かに怒っているのに、自分の方を責める。俺に対してもそうだった。俺が家を出るとき、どうして止めなかったのかと聞いたら、『おまえの選んだことだから』と言った。あのときは、捨てられたと思った。止める価値もない人間だと思われたんだと。でも、今になって考えると、止めたかったのに止められなかっただけなのかもしれない。あの人は、相手の人生に手を伸ばすことを、最後まで怖がっていた」

「透さんは、止めてほしかったんですか」

問いが口から出たあと、取り消せないことに気づいた。

透はすぐには答えなかった。腕時計を見たまま、秒針が文字盤を進む音を聞いているようだった。

「……あのときはな」

「今は?」

「今は、止められなくてよかったと思ってる」

「本当に?」

透は顔を上げた。怒っているように見えたが、声は荒くならなかった。

「本当だ。親父に止められていたら、俺はあの家に残っていた。母の言うとおりに学校へ行き、母の決めた仕事をして、母の決めた誰かと結婚して、何も知らないまま暮らしていたかもしれない。俺が逃げたことまで、あの人たちは守ると言って止めたかもしれない」

「それでも、知りたかった」

「知りたかったんじゃない。知らされるべきだったんだ」

透の声が、そこで初めて揺れた。

「俺の人生の中で、何を知るかを決める権利まで、あの人たちが持っていたことが許せない。俺を守ったと言うなら、せめて一度くらい、何を恐れているのか教えてほしかった。俺を子ども扱いしたまま、家族の外側へ置き続けた。それでいて、最後には家族だから分かってくれと言う。そんな都合のいい話があるか」

私は便箋を机へ戻した。

「送られなかった手紙は、受け取る側には存在しないと思います」

「昨日、俺も同じことを言った」

「はい」

「でも、読んでしまったら、存在しなかったことにもできない」

透は赤い消印の封筒へ目を向けた。

「その一通だけ、なぜ送ったんだろうな」

「誰かへ届く可能性を残したかったのかもしれません」

「なのに、名義は書き換えられている」

「届けたい相手の名前を、隠したまま投函した」

「それで、届くのか?」

「届かなかったから、ここに戻ってきたのかもしれません」

私は封筒を裏返した。赤い消印の下には、薄い線が残っている。上から書かれた文字の隙間に、元の筆跡がわずかに浮いていた。

透が身を乗り出した。

「その名前、読めるか」

「一部だけです」

「見せてくれ」

私は封筒を光の方へ傾けた。窓から差す朝の光が紙を透かし、消された文字の一画を浮かび上がらせる。

相。

透の肩がこわばった。

「……相沢」

「まだ、私と同じ名前だとは限りません」

「分かってる」

「名字だけでは、何も決められません」

「分かってるって言っただろ」

彼は強く言ったあと、すぐに口を閉じた。鼻の横へ指を当て、視線を落とす。怒りを押し込めるときの仕草だった。

しばらくして、透は小さく息を吐いた。

「母の裁縫箱に、鍵と一緒にこれが入っていた」

彼はポケットから、折り畳まれた紙片を取り出した。

紙は黄ばんでいた。端が何度も折られ、中央に深い筋ができている。私は受け取る前に、角を確かめた。紙の端には、赤い糸の繊維が一本だけ貼りついていた。

《雨の日は、左手を見せないこと》

それだけが書かれている。

差出人も日付もない。

「母の字ですか」

「たぶん。俺は知らない。裁縫箱の底に、糸と針の間へ挟まっていた」

「左手を見せない、というのは」

「俺に聞くなよ」

透は苦笑した。

「母は、説明しない。説明する前に、誰かの手を引いて場所を変える。俺が子どもの頃、左手を怪我したときも、病院へ行く前に布で巻いた。傷を見せるな、人に聞かれたら転んだと言え、と。それが俺のことだったのか、別の子どものことだったのか、今はもう分からない」

私は自分の左手を見た。

指の付け根に薄い傷がある。仕事で紙を扱ううちについたものだ。けれどその手のひらに、昔の紙片の感触が戻ってきた。赤い紙が濡れて、皮膚に貼りついていた。誰かがそれを剥がそうとした。痛みより先に、冷たさがあった。

透が私の左手に視線を落とした。

「相沢さんは、左手を気にするな」

「いつからですか」

「初めて団地へ来た日から。階段で止まったときも、手すりを握ったときも、左手ばかり見ていた」

「覚えていません」

「そう言うと思った」

「何がですか」

「俺も、覚えていることを信じられない。だから、あんたの記憶を疑っているわけじゃない。ただ――」

透は言葉を探した。父のように、言い切る前に飲み込もうとしている。

「ただ、俺の母親が消した名前と、あんたの名前が同じかもしれない。親父が二十年書き続けた手紙を、あんたが見つけた。偶然だと言うには、紙が多すぎる」

私は、彼の言葉を否定できなかった。

「もし、私がその少女だったら」

口にした瞬間、喉が乾いた。

「透さんは、どうしますか」

「分からない」

透は迷いなく言った。

「分からないけど、あんたに何かを決めさせるつもりはない。母が決めたように、俺が決めてしまったら、同じことになる。相沢さんが誰なのかは、相沢さんが自分で知ることだ」

「でも、透さんも当事者です」

「俺は、何も知らされなかった当事者だ。だから、分からない人間のまま、そばにいることしかできない」

その言葉は、慰めにはならなかった。けれど、慰められるよりもずっと確かなものだった。

透は机の上の手紙を見渡した。

「親父を許せるかどうかは、まだ分からない。母のことも、許せないと思う。守ったと言いながら、俺たちの人生を勝手に並べ替えた。あの人たちが何を恐れていたのか、何を失いたくなかったのか、それを知っても、やったことが消えるわけじゃない」

「はい」

「でも、親父の手紙を捨てるなと言ったのは、俺自身が、もう一度同じことをしたくないからだ。見なかったことにして、なかったことにして、あとから自分を守ったと言いたくない」

透は赤い消印の封筒を保護袋へ戻した。

「これは、俺が預かっていいか」

「まだ、正式な手続きが必要です」

「分かってる。あんたは仕事を曖昧にしない」

「透さんも、書類を信用しないわりに、確認は丁寧ですね」

「紙が嫌いなんじゃない。紙に書かれたことだけで人を決めるのが嫌いなんだ」

透はそう言って、封筒の角を揃えた。

その仕草が、久世慎一の手紙を書く姿と重なった。怒りを抱えた息子の手が、父の残した封筒を同じように整えている。血のつながりを証明するものではない。けれど、遠く離れた二人の間に、紙を扱う癖だけが残っていた。

玄関へ向かうと、透は廊下の郵便受けを見た。

古い金属の蓋には、細かな傷が幾筋も走っている。彼は手を伸ばしかけ、触れずに下ろした。

「父が帰ってきたときの音を、まだ覚えている」

「郵便受けの音ですか」

「鍵が回る前に、郵便受けを開ける音がする。あれを聞くと、帰ってきたと思った。けど、手紙だけの日もあった。期待した分だけ、何もない音になった」

透は腕時計を見た。遅れていた針を、指先で三分進める。

「嫌いなものほど、身体の近くに残るんだな」

「腕時計も、捨てられないんですね」

「親父からもらった。高校を出たときに。安物だし、何度も止まった。でも、捨てる理由を探しているうちに、持ち続ける理由のほうが分からなくなった」

彼は時計を手首へ戻した。

「相沢さん。親父の手紙に、俺宛てのものがあるなら、すぐには渡さなくていい」

「どうしてですか」

「読めるときに読む。読めないときは、まだ読まない。そう決める権利くらい、今度は自分で持ちたい」

その言葉に、私は頷いた。

透は廊下へ出た。湿ったタイルに靴音が二つ、三つ続く。階段の前で彼は振り返った。

「何か分かったら、連絡してくれ」

「はい」

「俺も、鍵のことを調べる」

「透さん」

「何だ」

「お父様を許す必要はありません」

透の顔がわずかに歪んだ。

「そんなこと、あんたに言われなくても分かってる」

「でも、知ったことまで捨てなくていいと思います」

彼はしばらく私を見ていた。それから、ほんの少しだけ頷いた。

「それは、考えておく」

透が階段を下りていく。足音が踊り場の奥へ消えても、腕時計の針を動かす小さな音が、まだ耳に残っているようだった。

私は部屋へ戻り、机の上の手紙を一通ずつ確認した。

封筒の角を揃え、便箋の端をなでる。昨日までなら、それは作業のための手順だった。今日は違った。手紙を誰の手へ渡すのか、その人がいつ受け取れるのかまで考えながら、私は列を整えた。

二十通の中に、透のために書かれた封筒がある。

宛名は、久世透。

けれど文面の途中には、何度も「あの子」という言葉が出てくる。透へ宛てた手紙なのに、透だけへ向けられたものではない。父は息子に謝りながら、別の誰かへも許しを乞うていた。

私は便箋の余白に、今日の記録を書いた。

《透は父を許すことを拒みながら、手紙を捨てることも拒んだ。知ることを、自分で選び直そうとしている》

書き終えてから、ペン先が止まった。

窓の外で、植え込みの葉から雫が落ちた。濡れた階段は、まだ光を返している。廊下の郵便受けが風に押され、小さく鳴った。

かたん。

私は左手を見た。

赤い紙片は、どこにもない。けれど、手のひらには遠い体温の記憶が残っている。誰かに握られた手。離された手。届かなかった手紙。

透の腕時計は、三分だけ遅れていた。

それでも彼は、その遅れを自分の指で直した。過去を正確な時刻へ戻せなくても、これから先の時間を、自分で合わせるように。

私は二十通の手紙を、今度は一通も押し入れへ戻さなかった。

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