第7話 保管箱の重さ

鵜飼達夫の家へ向かう朝、空は晴れていた。

雨が続いたあとの冬の空は、雲がなくても濡れて見える。団地から少し離れた住宅地を歩くあいだ、道端の側溝にはまだ水が残り、乾ききらない落ち葉が薄茶色の膜のように張りついていた。吐く息は白かったが、風は強くない。音の少ない朝だった。

私は美和さんの半歩後ろを歩いていた。彼女は黒いバインダーを胸に抱え、交差点へ差しかかるたび、信号の残り時間を確かめるように立ち止まった。急いでいるわけではない。ただ、見落とさないために足を止める。そういう歩き方だった。

「鵜飼さんに会うのは、初めてですか」

美和さんが振り返らずに訊いた。

「名前だけは、片倉さんから聞きました。二十年前の火災を担当した元刑事だと」

「当時の記録を保管しているそうです」

「警察を退職したあとも?」

「本人が持っているのか、預かっているのか、それはまだ分かりません」

美和さんはそこで言葉を切り、歩道の端へ寄った。配送車が脇を通り、乾いた風が私たちの足元を撫でていく。

「ただ、久世さんの手紙に出てくる日付と、行政の記録だけでは、火災の前後をつなげられません。現場を知っている人の記録が必要です」

「鵜飼さんは、話してくれるでしょうか」

「話すかどうかは、会ってみないと分かりません」

美和さんは穏やかに答えた。

「でも、話さない人にも、話さないなりの理由があります。理由を確かめる前に、沈黙を拒否と決めつけないほうがいいと思います」

私は返事をせず、手帳の表紙を親指で押さえた。

中には、これまでに分かったことと、分からないことが分けて書かれている。手紙の日付。郵便受けの改修記録。空欄の転居届。片倉さんが見たという少女。透さんの記憶に残る赤い紙片。

それぞれは薄い紙片にすぎない。けれど、机の上に並べたとき、それらは同じ方向へ少しずつ傾いていた。

鵜飼の家は、団地から歩いて十五分ほどの古い平屋だった。塀の内側に南天の木が一本あり、赤い実が冬の光を受けていた。玄関脇には新聞受けがあったが、新聞は挟まっていない。投函口の奥が暗く、そこだけ家の内部へ通じる穴のように見えた。

美和さんが呼び鈴を押した。

しばらくして、内側で鍵を外す音がした。ひとつ、ふたつ。最後に、鎖が金属の溝を滑る音がした。

「どちらですか」

「佐伯です。先日お電話した件で」

間があった。

「……どうぞ」

扉が開いた。

鵜飼達夫は、灰色のカーディガンの上に薄いベストを着ていた。髪は短く刈られ、顔には深い皺が刻まれている。けれど、目だけは眠っていなかった。私たちの手元と足元を順番に見てから、少しだけ脇へ退いた。

「相沢さんも」

「はい」

「寒いでしょう。たいしたものはありませんが、入ってください」

家の中には、古い新聞と乾いた茶の匂いがあった。暖房はついていたが、部屋の隅には冷気が残っている。鵜飼さんは私たちを居間へ通すと、椅子を二脚引き、向かい側の机に置かれた水差しを数センチずらした。

それから、机の脇に積まれた保管箱へ手を伸ばした。

箱は四つあった。どれも茶色い厚紙でできていて、蓋に黒い字で年月が記されている。鵜飼さんはそれらを一度ばらし、端から順に揃え直した。箱同士の隙間は、指一本分もない。最後に蓋の角を押さえ、ようやくこちらを見た。

「座ってください」

「ありがとうございます」

美和さんが腰を下ろす。私はその隣に座った。

鵜飼さんは、目の前の水を飲まなかった。机の端に置かれた湯呑みを見ながら、少しだけ喉を鳴らす。

「天気がよくて助かりましたな。雨だと、この辺りは道がぬかるむ」

「団地の方は、まだ階段に水が残っています」

私が言うと、鵜飼さんは窓の外へ目を向けた。

「そうですか」

それだけ言って、また沈黙した。

美和さんは急かさなかった。黒いバインダーを開き、今日の日付を書き込む。鉛筆の先が紙の上を滑る音だけが、居間の中に残った。

「久世慎一さんの手紙について、いくつか確認したいことがあります」

美和さんが言った。

「火災事故に関する記録が、行政の控えと団地の記録で一致していません。相沢さんが保管している手紙の中にも、当時の転居や郵便物に関する記述があります」

「手紙は、見ました」

鵜飼さんはすぐには私を見なかった。

「久世さんが亡くなる前に、あれをどうするつもりだったのかは分かりません。捨てるつもりだったのか、誰かに読ませるつもりだったのか。それも、私には分かりません」

「鵜飼さんは、手紙の存在を以前からご存じだったんですか」

「存在だけは」

「なぜですか」

鵜飼さんは、机の上の水差しへ視線を落とした。

「久世さんは、何年かに一度、私のところへ来ました。何かを聞きたいような顔をして、結局、天気の話をして帰る。そういう人でした」

「火災のことを訊ねに?」

「訊ねるというより、確認しに来たのでしょう。記録に何が残っているか。何が残っていないか」

「鵜飼さんは、見せなかったんですか」

「見せられないものもあります」

その言葉のあと、鵜飼さんはようやく私を見た。

「記録は、嘘をつかない。ですが、記録に書かれていないことまで嘘になるわけではない。現場を見た者なら、その程度のことは分かります」

美和さんが手帳の余白へ何かを書いた。

「では、現場と記録に差があることは、ご存じだったんですね」

「差がなければ、久世さんは二十年も手紙を書かなかったでしょう」

「それは、久世さん本人から聞いた言葉ですか」

「いいえ。あの人の顔を見れば分かりました」

鵜飼さんは立ち上がった。

「書類を持ってきます。少し時間がかかります」

「お手伝いしましょうか」

「結構です。置き場所は分かっています」

居間の奥へ消えた彼の背中を見送りながら、私は机の上の水差しを見た。ほんの少しだけ、中央から外れている。鵜飼さんはそれを直した。保管箱も揃えた。乱れを見つけるたびに、手を伸ばさずにはいられない人なのだろう。

けれど、整えられたものの中にこそ、隠しきれない一点のずれが残る。

しばらくして、鵜飼さんは三冊のファイルを抱えて戻ってきた。その後ろに、手のひらほどの薄い封筒を一つ持っている。

ファイルを机に置くと、彼は表紙の角を揃えた。

「火災当夜の現場記録です。正式なものではありません。私が当時、個人的に控えたものも混ざっています」

「個人的な控えを、なぜ保管していたんですか」

鵜飼さんは答えなかった。

美和さんが一冊目を開いた。調書の写し、消防から回ってきた報告、住民への聞き取り。紙は黄ばんでいたが、文字は読めた。

「日付の順番が一つずれています」

美和さんが言った。

「火災当日の記録のあとに、火災の三日前の日付の書類が挟まっています」

「綴じ間違いでしょう」

「そうかもしれません。ただ、署名の位置も違います。こちらは警察署の控えと同じですが、これは別の筆跡です」

鵜飼さんは、ファイルを覗き込んだ。

「その紙は、正規の記録ではありません」

「では、何ですか」

「現場で聞いた話を、私が書き留めたものです」

「なぜ正式な調書にしなかったんですか」

鵜飼さんの指が、ファイルの端で止まった。

「証言した人間が、後から話を変えたからです」

「誰が?」

「団地の住民です」

「片倉さんですか」

沈黙が落ちた。

鵜飼さんは、すぐに否定しなかった。窓の外へ目を向け、冬の光が畳の上に伸びているのを見ていた。

「片倉さんだけではありません。あの場にいた人間の多くが、翌日には別のことを言いました。煙の中で見えたものは、夜が明けると見なかったことになる。誰が何人いたのか、誰がどの部屋にいたのか、話を聞くたびに変わっていった」

「それを、事故の記録にした」

「記録にするしかありませんでした」

鵜飼さんの声は低かった。

「火災の原因は、電気系統の不具合とされた。死者はなく、軽傷者が数名。避難の混乱はあったが、重大な被害はなかった。そういう結論にすれば、団地は再開できる。住民は戻れる。役所も、警察も、自治会も次の仕事へ進める」

「でも、少女がいた」

私は言った。

鵜飼さんの目が、こちらへ戻った。

「片倉さんから聞きました。久世さんが、女の子を抱いて階段を降りてきたと」

「片倉さんは、そう言ったんですか」

「はい」

「その子の名前は?」

「記録にはありません」

鵜飼さんは薄い封筒を机の上へ置いた。

「だから、名前がない」

封筒は、古いクリーム色をしていた。角が潰れている。表面には宛名がなく、裏側に鉛筆で小さな数字だけが書かれていた。

私は息を止めた。

封筒の縁に、見覚えのある毛羽立ちがある。久世慎一の部屋で見つけた手紙と同じように、一度開けられ、再び閉じられた痕だった。

「これは……」

「事故のあと、久世さんから預かりました」

「久世さんが、鵜飼さんに?」

「正確には、預かったというより、置いていった。返してくれと言われることもなかった」

「中身は何ですか」

鵜飼さんは、すぐには答えなかった。

美和さんが封筒の表面を見た。

「差出人の欄がありません」

「最初からですか」

「ええ」

「宛先も?」

「ありません」

「それでは、郵便物にならない」

「だから、届かなかったんです」

その言葉に、胸の奥が冷えた。

鵜飼さんは封筒を裏返した。裏面には、赤いインクの跡がわずかに残っている。文字を消したあとにできた薄い線だった。

「この封筒には、もともと別の名前が書かれていました」

「誰の名前ですか」

「あなたが探している名前かもしれません」

「少女の名前を知っているんですか」

「知っていた、というべきでしょう」

鵜飼さんは一度、深く息を吐いた。

「当時、現場から運ばれた子どもが一人いました。身元を尋ねても答えない。年齢も、住所も、保護者の名前も言えない。火災の煙を吸っていたので、病院で処置を受けたあと、児童相談所へ引き渡す予定になっていました」

「予定になっていた?」

「その前に、久世玲子さんが来た」

玲子の名前が、部屋の中で別の重さを持った。

「彼女は、その子を知っていると言ったんですか」

「知っているとは言わなかった。ただ、子どもには家族がいる、家族には事情がある、騒ぎにすれば全員が壊れる、と繰り返した。丁寧な人でした。声を荒らげない。湯気の立つ茶を出すような調子で、こちらの判断を先回りしてくる」

私は、片倉さんが集会所で湯呑みを置いた手つきを思い出した。

「玲子さんは、何をしたんですか」

「書類を整えた」

「それだけですか」

「書類を整えるというのは、名前と住所と順番を整えることです。あの人は、それが非常にうまかった」

鵜飼さんは薄い封筒に手を置いた。

「少女には、別の名前が与えられた。火災で行方不明になった別の子どもの身内だと説明された。事故の混乱で、確認が遅れていた。そういう筋書きです」

「そんなことが、通るんですか」

「通した人間がいた。通すしかないと思った人間もいた」

「鵜飼さんも、その一人だった」

私の声が、思ったより硬くなった。

美和さんが、隣でわずかに手を動かした。止めるつもりではなく、記録を続けるための動きだった。

鵜飼さんは、私を見たまま黙っていた。やがて、机の端へ視線を落とす。

「私は、署名しませんでした」

「でも、止めなかった」

「はい」

短い返事だった。

「止めれば、あの子はどうなったんですか」

「正規の手続きに戻されていたでしょう。身元不明児として保護され、長い時間をかけて調べられる。家族が名乗り出るか、誰かが別の証言をするか。それで救われる可能性もあった」

「可能性も?」

「逆もありました。火災の責任を問われる者が出る。久世家の息子が、何かを知っていたと疑われる。少女自身が、知らない大人たちの間を移される。玲子さんは、そう言いました」

「だから、名前を変えた」

「彼女は、守るためだと言った」

「鵜飼さんは、信じたんですか」

鵜飼さんは、すぐに返事をしなかった。

窓の外で、風に揺れた南天の枝がガラスを擦った。乾いた音が一度だけ響く。

「信じたかったのでしょう」

やがて、彼は言った。

「正しいと思ったわけではありません。正しいかどうかを考えるより早く、あの子が怯えているのを見てしまった。煙の匂いが染みついた服で、誰にも名前を呼ばれず、ただ一人で椅子に座っていた。玲子さんは、その子の前で、名前を呼ばなかった。代わりに、手を握った。子どもがその手を拒まなかった。それを見て、私は、家族のふりをする人間が必要なのだと思ってしまった」

「家族のふり」

「家族とは、血のつながりだけではない。しかし、血のつながりを隠すために家族を装うことが許されるのか。私はいまでも答えられません」

美和さんが、ゆっくり口を開いた。

「記録上、その少女は誰になったんですか」

鵜飼さんは私を見た。

その視線には、警戒だけではなく、何かを確かめようとする色があった。私の顔ではなく、左手を見ているような気がした。

「その名前は、まだ言えません」

「なぜですか」

「言えば、あなたが自分で確かめる前に、私の言葉があなたの記憶を作ってしまうからです」

胸の奥で、古い金属が軋んだ。

「私と、その少女に関係があると?」

鵜飼さんは、目を逸らさなかった。

「あなたが雨降り坂団地を初めて訪れたとき、階段で足を止めたそうですね」

私は息を呑んだ。

「誰から聞いたんですか」

「片倉さんです。あなたが濡れた手すりを見て、左手を握ったと」

「それだけで、何が分かるんですか」

「何も分かりません。ただ、二十年前の現場で、左手に赤い紙片を貼りつけていた子どもがいた。それだけです」

私は自分の左手を見た。指先には何もない。白い皮膚と、乾燥で薄く割れた爪。けれど、手のひらの中央に、遠い昔の紙の感触が残っているような気がした。

「封筒を見せてください」

私は言った。

鵜飼さんは、薄い封筒を私の方へ押し出した。封筒の縁に触れた瞬間、冷たさが指の腹へ移った。

「中身を読んでもいいですか」

「それは、あなたが決めることです」

「鵜飼さんは読んだんですか」

「一度だけ」

「何が書かれていましたか」

「名前です」

「誰の?」

「赤い消印の封筒に書かれていた、最初の差出人名。それから、久世玲子さんの短いメモ。『この子を、この名前のまま外へ出してはいけない』と」

言葉が、静かに机の上へ落ちた。

その文面は、久世慎一の手紙にあった《あの子を、あの名前のままにはできなかった》という一行と重なった。

同じ意味なのに、書いた人間が違う。だからこそ、そこには一つの判断が何度も繰り返された跡があった。

私は封筒を裏返した。赤い消印は薄く、けれど完全には消えていない。差出人欄には、上から別の文字が書かれている。紙を斜めに光へ向けると、下に隠れた文字の一部が浮かんだ。

「あ……」

声が漏れた。

最初の一文字だけが読める。

相。

私の名字と同じ音だった。

鵜飼さんが、喉を鳴らした。

「まだ、同じだと決めないでください」

「分かっています」

「名前が同じでも、人間が同じとは限らない。記憶が似ていても、出来事が同じとは限らない。あなたが自分を急いで過去へ置いてしまえば、後から何を見ても、その形に合わせてしまう」

「では、何を信じればいいんですか」

問いかけると、鵜飼さんは目を伏せた。

「信じるのではなく、確かめるんです。記録も、記憶も、手紙も。ひとつに寄りかかってはいけない」

美和さんが、私の手元の封筒を見た。

「差出人欄の下に、別の文字が残っています。複写を取れますか」

「できます」

鵜飼さんは立ち上がり、棚の奥から小さなスキャナーを取り出した。古い機械だったが、電源を入れると低い音を立てて動き始める。彼は封筒を扱う手つきを何度も確認し、角を揃えてガラス面へ置いた。

私はその様子を見ていた。

誰かが紙を整えるとき、そこには必ず理由がある。忘れないため。見せないため。あるいは、見せるべき相手に、見せるべき順番で渡すため。

鵜飼さんはスキャンを終えると、封筒を保護袋へ戻した。

「今日は、ここまでにしましょう」

「待ってください。名前を教えてください」

「まだです」

「鵜飼さん」

「あなたは、名前を知りたいのではありません。自分が誰なのかを、今すぐ決めたいだけです」

胸の奥を、薄い刃物でなぞられたような気がした。

私は反論しようとした。けれど、言葉は出なかった。彼の言うことが正しいかどうか、判断できなかった。ただ、手帳に自分の名前を書くとき、いつも一度だけ筆を止めることを思い出した。

相沢実里。

その名前を、私は誰から受け取ったのだろう。

玄関へ向かう途中、鵜飼さんが背後から呼び止めた。

「相沢さん」

振り返る。

「久世さんは、あなたに手紙を書いていました」

「私に?」

「宛名はありませんでした。だから、あなた宛てだとは言えない。ただ、あの人は最後の数年、誰か一人に向けるつもりで書いていた」

「それは、どんな手紙ですか」

「封を切らなかった手紙です」

鵜飼さんの視線が、私の手元へ落ちる。

「久世さんは、最後まで自分で投函できなかった。けれど、あなたが見つけた。そこには、偶然以上のものがあるのかもしれません」

「偶然ではないなら、何ですか」

鵜飼さんは答えなかった。

外へ出ると、冬の光が目に痛かった。家の前の道には、乾いた落ち葉が一枚だけ裏返しになっていた。美和さんが隣に並び、バインダーを閉じる。

「帰る前に、記録します」

「はい」

「鵜飼さんは、少女の名前を明かさなかった。ただし、赤い消印の封筒には書き換え前の差出人名があり、その一文字が相沢さんの名字と一致する。久世玲子さんのメモには、少女を別の名前で外へ出すという意図が示されている」

「それから、鵜飼さんは、久世さんが私に向けて手紙を書いていたと言いました」

「それは、事実ではなく証言です」

「分かっています」

私は手帳を開いた。

冬の光の下では、紙の白さが妙に冷たく見える。私は今日聞いた言葉を、事実と推測に分けて書いた。筆先が紙の上で止まり、消しゴムの粉が小さく落ちる。

そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

画面には、久世透からのメッセージが表示されていた。

《父の机から、母の古い裁縫箱が出てきた。中に小さな鍵がある。赤い紙の話と関係があるかもしれない。今夜、戻る》

私は画面を見つめたまま、返事をしなかった。

美和さんが横から覗き込む。

「透さんですか」

「はい。今夜、戻るそうです」

「では、私も同行します」

「美和さんまで?」

「記録を取る人間が必要です」

その言い方が、少しだけ可笑しかった。けれど笑うことはできなかった。

鵜飼さんの家を離れ、団地へ戻る道を歩く。乾いた冬の光が、濡れた側溝の水面に細く反射していた。行きとは違い、道の先がよく見える。見えるのに、足元だけが暗い。

私の左手は、ずっと握られていた。

何かを持っているわけではない。赤い紙片も、鍵も、封筒もない。それでも、手のひらの中央に、古い紙の角が貼りついているような感触が消えなかった。

団地の四号棟が見えてくる。

壁に並んだ郵便受けの金属が、冬の光を鈍く返している。誰も触れていないのに、ひとつが小さく揺れた。

かたん。

私は足を止めた。

美和さんも、少し遅れて立ち止まる。

「相沢さん」

「大丈夫です」

そう言いながら、私は自分の左手を見た。

指先が冷たい。けれど、以前のように手順を復唱しようとは思わなかった。靴を揃えることも、手袋の左右を確かめることも、いまは必要なかった。

記憶は、まだ戻っていない。

名前も、まだ分からない。

ただ、誰かが二十年ものあいだ、紙の上に残していた重さだけが、少しずつ私の手へ移ってきていた。

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保管箱の重さ - 濡れた記憶 - 誰でも作家life