第6話 片倉澄江の笑顔

団地集会所の戸を開けると、埃っぽい畳の匂いの奥に、古紙の甘い腐臭が沈んでいた。壁の掲示板には色あせた紙が何層にも重なり、その重なり方だけが、ここで流れた年月の厚みを示している。美和さんと私は、昨日見つけた火災当時の見回り表を確認するため、もう一度この場所を訪れていた。
「来ると思ってたわよ」
戸口に、片倉澄江さんが立っていた。両手に古い回覧板の束を抱え、それでいて足取りには少しの危うさもない。腰は曲がっているのに、声だけは団地の廊下の隅々まで届きそうなほど張りがある。
「お忙しいところすみません」
「忙しいも何も、この年になると時間だけは余ってるのよ。さ、座って座って。ちょうどお茶でも淹れようと思ってたところ」
澄江さんは私たちを押しとどめるように手招きし、集会所の奥にある小さな流しへ向かった。湯呑みを三つ並べる音、急須に湯を注ぐ音、茶筒の蓋を閉じる音。その一つひとつが、よどみなく、まるで何十年も繰り返されてきた手順のように滑らかだった。私はその動作の速さに、どこか既視感を覚えた。手順を踏むことで何かを守ろうとする仕草は、私自身がよく知っているものだったからだ。
「どうぞ」
湯呑みが目の前に置かれる。立ちのぼる湯気の向こうで、澄江さんは私たちの顔を順に見た。値踏みというより、相手が何を聞きに来たのかを先回りして測るような速さだった。
「今日は、久世さんの手紙のことで伺いました」
美和さんが切り出すと、澄江さんの口元には笑みが浮かんだままだった。
「ああ、久世さんね。本当に真面目な人だったのよ。工場勤めのころから、朝は誰よりも早く出て、夜は誰よりも遅く帰ってくる。それでいて、挨拶だけは絶対に欠かさない人でねえ」
「手紙の中に、火災の記述があるんです」
私が言うと、澄江さんの湯呑みを持つ手が、ほんのわずかに止まった。だがそれは本当に一瞬で、次の言葉はすでに別の方向へ滑り出していた。
「火災のことねえ。あれはもう二十年も前のことよ。相沢さん、久世さんのお部屋、台所の換気扇はどうだった? あそこの棟は、昔から油煙がこもりやすくてね。私が自治会長をやってたころは、年に一度、業者を呼んで清掃してもらってたのよ」
「換気扇は、特には」
「そう。それならいいけど。ああ、それと、回覧板の回収、まだ続けてるのかしらね。最近は若い人が減って、順番が回ってこないまま止まってしまう班があるのよ。冬になる前に、植え込みも手入れしないといけないしねえ。去年は雪が早くて、枝が折れちゃって大変だったの」
言葉は途切れることなく、次から次へと流れ出した。自治会費の話、夏祭りの屋台の話、隣の棟で飼われている猫の話。どれも悪意のある話ではない。むしろ親切ですらある。けれど、火災という言葉だけが、その流れの中から丁寧に、まるで指先で小骨を取り除くように、抜き取られていた。
美和さんは何も言わず、湯呑みに口をつけていた。その視線は澄江さんの顔ではなく、彼女の背後にある掲示板へ向けられている。私もまた、言葉を挟む代わりに、掲示板の方へ目を移した。
災害時の連絡網の貼り紙。ごみの分別表。住民の転居を知らせる手書きの案内。それらが幾重にも重なった一角に、紙の端が不自然にめくれている部分があった。下に、別の紙が透けて見える。剥がされた跡が白く残り、その輪郭だけが、何かの形をなぞるように浮かび上がっていた。
「片倉さん」
私は湯呑みを置いた。
「あの掲示板の端、見回り表が何枚も重なっていますよね。あれは、いつ頃から貼られているものですか」
澄江さんの視線が、一瞬だけ私の背後へ流れた。掲示板を見たのではない。見ないようにした、という動きだった。
「さあ、古いものだから、私もよく覚えていないのよ。自治会長をしていたころは、いろんな紙が行き交っていたから」
「見回り表の下に、別の紙があるようです。日付の順番が、少し不自然に見えました」
「不自然、というのはどういうことかしら」
澄江さんの声は穏やかなままだった。けれど、その穏やかさの底に、わずかに硬いものが混じっているのを、私は聞き逃さなかった。
「普通なら、古いものの上に新しいものを貼っていくはずです。でも、あの一角だけ、途中で古い日付のものが上に重ねられています」
「相沢さん」
澄江さんは湯呑みを静かに置いた。その音は、驚くほど小さかった。
「あなた、久世さんの遺品整理をしているだけよね。火事のことまで、どうして調べる必要があるのかしら」
「久世さんの手紙に、火災のことが書かれていたからです」
「手紙に何が書いてあったって、それはもう昔のことよ。久世さんも亡くなってしまったんだし、今さら蒸し返したところで、誰が喜ぶというの」
言葉の調子は変わらない。けれど、私はその語尾に、初めてわずかな圧を感じた。穏やかさでねじ伏せるような、そういう種類の強さだった。
「私は、誰かを責めたくて聞いているわけではありません」
「じゃあ、なぜ聞くの」
「久世さんの手紙に、記録にない少女の存在が書かれていたからです。死亡届にもない名前です。片倉さんは、その子のことをご存じないですか」
澄江さんは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、これまでの彼女の話し方とはまるで違う質のものだった。早口でもなく、笑顔の裏に隠すものでもなく、ただ重たく、部屋の空気を押し下げるような沈黙だった。
「相沢さん」
やがて澄江さんが口を開いた。
「あなた、この団地がどうやって保たれてきたか、分かっているの」
「分かりません。だから伺っています」
「人は、誰でも何かを抱えて生きているのよ。それがいい思い出ばかりとは限らない。むしろ、誰にも言えない、言ってはいけないことの方が多いくらい。この団地には、四十年分のそういうものが積もっているの。住民が入れ替わっても、建物だけは残る。残った建物が、古い記憶を全部覚えているのよ」
「だからこそ、記録が必要なんだと思います」
「記録ねえ」
澄江さんは笑った。だが、その笑いにはこれまでのような柔らかさがなかった。
「記録に残せば、本当のことになるとでも思っているの。紙に書いたことが、真実だと信じているの。相沢さん、紙なんてものはね、書いた人間の都合でいくらでも姿を変えるのよ。日付も、名前も、差出人も。紙は嘘をつかないなんて、誰が決めたの」
その言葉は、まるで自分自身に向けて言っているようでもあった。私は、澄江さんの手元を見た。湯呑みを持つ指先は、少しも震えていない。だが、彼女の視線は私の目を避け、ずっと机の木目の上を漂っていた。
「片倉さんは、あの火災のとき、何があったかをご存じなんですね」
「知っていたとして、それをあなたに話す義理が、私にあるのかしら」
「義理はないと思います。でも――」
私は一度言葉を切った。久世慎一の手紙の文面が、頭の中に浮かんでいた。何度も書き直された跡、破られた紙を貼り合わせた便箋、二十年という年月をかけて積み上げられた沈黙の重さ。
「久世さんは、二十年間、誰にも渡せない手紙を書き続けていました。宛先は奥様や息子さんでしたが、途中からその言葉は、別の誰かへ向かっているように読めました。片倉さんが知っていることと、久世さんが書き残したことが、同じ場所を指しているのではないかと思うんです。もしそうなら、片倉さんが黙り続けることは、久世さんがようやく紙の上で始めた告白を、もう一度押し込めることになりませんか」
澄江さんは、しばらく私を見つめていた。目の奥に浮かんだのは、怒りではなかった。むしろ、ひどく疲れたような色だった。
「久世さんが、そんな手紙を」
「はい」
「あの人らしいわね。何も言わずに、紙の上でだけ全部吐き出して、それでも誰にも渡さずに死んでいく。本当に、あの人らしい」
澄江さんはそう言うと、湯呑みを両手で包むように持ち直した。
「もう終わった話なんですよ」
その声は、驚くほど穏やかだった。だが、私はその穏やかさの底に、終わらせたのは時間ではなく、誰かの手だったのだと、言わずに済ませるための力がこめられているのを感じた。言葉を濁すのではなく、言葉そのもので蓋をするような、そういう強さだった。
「終わらせたのは、片倉さんですか」
「さあ、どうでしょうね」
澄江さんは微笑んだ。皺の多い顔に浮かぶその笑みは、人懐こくもあり、同時にどこまでも固く閉ざされてもいた。
「相沢さん。昔のことを今さら掘り返したところで、死んだ人は戻ってこないし、傷ついた人の傷も消えない。それでも、あなたは掘り返すの」
「はい」
私は即答した。自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
「久世さんの手紙は、届かなかったことで二十年間、誰も傷つけずに済みました。でも、届かなかったことで、誰かがずっと名前を持てないままでいたんだとしたら、それは守ったことになるんでしょうか。私には分かりません。でも、分からないまま終わりにすることだけは、したくないんです」
澄江さんは、しばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと立ち上がり、掲示板の方へ歩いていった。重なり合った紙の前に立ち、その指先が一枚の古い見回り表の端に触れる。
「この見回り表、私が貼り直したものよ」
振り返らずに、澄江さんは言った。
「下にあったものを、上から覆うように。当時はそれが、一番丸く収まる方法だと思ったの。住民の誰も傷つけず、誰も責められず、ただ時間が過ぎるのを待てばいいと思った」
「下には、何が貼られていたんですか」
「覚えていないわ」
澄江さんはそう言ったが、その声には、覚えていないという言葉とは裏腹な重みがあった。
「覚えていないことにした、が正しいのかもしれないわね」
私は、彼女の背中を見つめた。回覧板の束を抱えたまま立つその後ろ姿は、団地そのもののように古く、そして頑なだった。けれど、その頑なさの奥に、長年抱え続けてきた何かの重さが、確かに滲んでいた。
美和さんが静かに立ち上がり、掲示板に歩み寄った。指先で紙の端をそっと持ち上げ、糊の色を確かめる。
「この糊、比較的新しいものです。少なくとも、火災の年に貼られたものではありません」
「美和さん」
「相沢さん、記録は嘘をつきませんが、記録を作る人は嘘をつくことがあります。片倉さんが言った通りです。紙そのものは、何も語りません。でも、紙の重なり方は、人の手が動いた順番を教えてくれます」
澄江さんは、こちらに背を向けたまま、小さく笑ったようだった。
「美和さんは、本当に容赦がないのねえ」
「容赦がないのではなく、容赦する相手を間違えないようにしているだけです」
その言葉に、澄江さんはようやく振り返った。先ほどまでの笑顔とは違う、どこか覚悟を決めたような表情だった。
「相沢さん。久世さんの手紙、全部読んだの?」
「まだです。最後の一通が、まだ封を切られないまま残っています」
「その手紙、誰宛てだと思う?」
「分かりません。宛名がないんです」
澄江さんは、湯�ぬるくなった茶を一口すすった。
「私はね、相沢さん。久世さんが何を隠して、何を守ろうとしたのか、半分だけ知っているの。でも、半分しか知らないのよ。残りの半分は、久世さんと、もう一人の人間しか知らない。私が知っている分だけ話しても、それはきっと、あなたが求めている答えにはならないわ」
「それでも、聞かせてください」
澄江さんは、長い沈黙のあと、湯呑みを置いた。回覧板の角を、指先でもう一度揃え直す。その仕草は、彼女がこれまでの人生で何度も繰り返してきた、秩序を保つための儀式のように見えた。
「あの火災の夜、私は現場に一番乗りで駆けつけたの。消防より先にね。四号棟の四階の廊下は煙で真っ白だった。久世さんが、子どもを一人、抱きかかえて階段を降りてくるのが見えたわ」
「その子どもが」
「透くんじゃなかった。もっと小さな、女の子だった」
私の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。濡れた階段、赤い紙片、握られた小さな手首。記憶ではない何かが、また輪郭を持とうとしている。
「その子の身元を、どうされたんですか」
澄江さんは、私の目をまっすぐに見た。
「それは、久世さんの奥さんが決めたことよ。私は、ただ従っただけ」
その言葉を最後に、澄江さんは湯呑みを片づけ始めた。これ以上は話さないという意志が、その背中から静かに伝わってきた。私は、彼女を追い詰めることをしなかった。半分の真実は、まだ半分でしかない。だが、その半分は、確かに次の扉へ続く鍵だった。
集会所を出ると、外はすでに薄暗くなっていた。湿った空気の中に、団地の明かりがぽつぽつと灯り始めている。美和さんが隣を歩きながら、静かに言った。
「相沢さん、今の話、記録しておきましょう」
「はい」
「それから」
美和さんは少し間を置いた。
「片倉さんの沈黙も、記録の一部です。何を言わなかったかも、事実の輪郭を作りますから」
私は頷いた。手帳を取り出し、今聞いた言葉を一つずつ書き写していく。女の子、久世慎一、奥さんが決めたこと。その文字を書きながら、私は自分の手が、いつもよりわずかに震えていることに気づいていた。
団地の廊下を抜けるとき、どこかの部屋の郵便受けが風に揺れて、小さく鳴った。
かたん。
その音に、私は足を止めた。濡れた階段の冷たさが、まだ見ぬ記憶の底から、静かに這い上がってくるようだった。
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