第5話 久世透、雨の匂い

夕方、雨は一度上がった。

それでも団地の階段には水が残っていた。手すりの下側に細い雫が並び、踏み板の隅には、誰かの靴が運んできた泥が薄く伸びている。私は四号棟の三階へ上がりながら、足元を見ていた。

濡れた階段を見ると、足が止まる。

そう身体が覚えてしまってから、階段は単なる通路ではなくなった。どこかへ移動するための場所ではなく、何かを置き去りにした場所のように見える。けれど、今日は止まらなかった。手すりに触れず、一段ずつ踏み上がる。足裏で水気を避け、呼吸の数を数えた。

一、二、三、四。

三階に着くころには、階段の冷たさが靴底から上がってきていた。

久世慎一の部屋の前に、男が立っていた。

濡れたコートを着たまま、壁に背を預けている。顔を上げた彼と目が合った。以前、夜の部屋で会ったときよりも疲れて見えた。都市部で暮らす人間の服装と、古い団地の湿った廊下が、互いに馴染まないまま並んでいる。

「久世透さんですか」

「相沢さんだろ」

声は低く、乾いていた。彼は私の手元を見た。白い作業手袋、手帳、部屋の鍵。視線がそこから動き、ドアの脇に置いた段ボールへ移る。

「まだ整理、終わってないのか」

「手紙の確認に時間がかかっています」

「手紙なんか、捨てればいい」

言い方は早かった。だが、すぐに自分でその言葉を否定するように、目だけが段ボールへ戻った。

私は鍵を開けた。

「中へどうぞ。必要なものがあれば、確認してください」

「いらない」

「そう言われても、遺族の立ち会いなしに処分できないものがあります」

「父の遺品なら、好きにしろよ。俺は父親の後始末をするために戻ってきたんじゃない」

ドアを開けると、部屋の中から古い紙の匂いが流れ出した。雨に濡れたコートの匂いと混じり、玄関で二つの時間が重なったように感じる。

透は靴を脱がずに上がった。

私は何も言わなかった。彼の靴底が玄関の床に小さな泥の跡を残す。いつもなら拭き取るための布を探すところだが、今日はその跡を見たままにした。

机の上には、二十通の手紙が並んでいた。

透の目が、そこへ吸い寄せられる。

「これが全部か」

「いま確認できているものは、二十通です。年代ごとに束ねられていました」

「二十通も書いて、全部送らなかったのか」

「切手も消印もないものがほとんどです。ただ、一通だけ、投函された形跡があります」

私は雨粒文庫で見つけた赤い消印の封筒を、透明な保護袋から取り出した。

透はすぐに手を伸ばさなかった。机の上に置かれた封筒を、少し距離を置いて見つめている。表面の赤い消印は、薄暗い部屋の中でも妙に鮮やかだった。

「赤い消印のやつか」

「はい。差出人の名義が書き換えられています」

「見せろ」

私は封筒を彼の前へ滑らせた。

透は拾い上げる前に、指先で机を二度叩いた。それから両手で封筒を持ち、表と裏を確かめる。郵便物を扱い慣れているというより、疑わしい書類を検分する手つきだった。

「どこが書き換えられてる」

「差出人の欄です。下に別の文字が透けています」

「透けてるだけだろ。古い紙なら、インクが滲んで見えることもある」

「紙質を確認しました。上から書き直された可能性が高いです。糊の跡も二重になっています」

「つまり、誰かが開けて、名前を書き換えて、また閉じた。そう言いたいのか」

「可能性としては」

「可能性、可能性って、便利な言葉だな」

透は封筒を机へ置いた。

「死んだ親父の手紙を見つけた。古い書類に変なところがある。だから家族に秘密がありました、過去に事件がありました、親父は本当は悪くありませんでした。そういう話にしたいのか」

「私は、そういう話にしたいわけではありません」

「でも、あんたはもう読んでるんだろ」

私は答えなかった。

透は口の端だけで笑った。笑いは、すぐに消えた。

「読んだんだな」

「一部だけです。内容を確認しないと、処分できないものかどうか判断できないことがあります」

「仕事だから読んだ。そういうことにしておけばいい」

「仕事だから、ではありません」

言ってから、自分でも驚いた。声が少し硬くなっていた。

「手紙の中に、記録にない少女のことが書かれていました。二十年前の火災に関係する記述です。内容を確認しないまま、ただ処分することはできません」

透は目を伏せた。

「火事の話なら、もう終わってる」

「片倉さんも同じことを言いました」

その名前を出すと、透の肩がわずかに動いた。

「片倉さんに聞いたのか」

「集会所で会いました。火災のことを尋ねたら、換気扇の話をされました」

「そういう人だよ」

「ご存じなんですね」

「この団地で、片倉さんの知らないことなんかない。知らないふりをすることはあるけどな」

透はコートのポケットへ両手を入れた。腕を組まないのは、気まずいときの癖なのだろう。指先がポケットの中で何かを探るように動いている。

「片倉さんは、昔からそうだ。誰かが泣いていたら、泣くなとは言わない。代わりに、布団を干せとか、回覧板を回せとか、余計なことを言う。そうやって人を動かして、考える暇をなくす。母も、あの人と似ていた」

「お母様も?」

「母はもっと静かだった。片倉さんみたいに口で押し切らない。先に全部決めておいて、俺が何か言う前に、もう別の道を用意していた」

透は机の上の手紙を見た。

「親父も母も、俺のためだと言った。俺に心配をかけないため。俺を巻き込まないため。俺を守るため。そういう言葉を、子どもは断れない。守られる側は、何が起きているのか分からないまま、誰かが決めた形の中へ押し込まれる」

私は、手袋の指先を見た。

「透さんは、お父様があなたを守ろうとしたと思いますか」

「思わない」

答えが早すぎた。

「思わない、というより、思いたくない。守ろうとしたんだと言われたら、俺が怒ってきた理由が変わる。親父は何も説明しなかった。母が入院したときも、火事のあとも、俺を別の部屋へ追いやって、聞くな、見なくていいと言った。あの人たちは、俺に何も渡さなかったんだ」

「だから、冷淡な人だったと」

「そうだよ。少なくとも、俺の前ではな」

透は一枚の手紙を指差した。

「これを読んだら、親父が苦しんでいたことは分かるかもしれない。後悔していたことも、母に何か言えなかったことも。でも、それで俺が見てきた親父が消えるわけじゃない。手紙の中でどれだけ優しい言葉を書いていても、俺のところには一通も届かなかった。それが事実だ」

言葉の終わりが、わずかに掠れた。

私は、亡き妻宛ての手紙を一通取り上げた。封筒の角を指で揃え、便箋をなでてから、透の前に置く。

「読んでもいいですか」

「俺に聞くのか」

「聞くべきだと思います」

透はしばらく手紙を見ていた。

「……読めよ。どうせ、もう読んでるんだろ」

「全部ではありません」

私は封を切ったときのことを思い出した。薄い紙が裂ける音。部屋全体が、その音を待っていたような感触。今、透の前で声に出すことには、別の重さがあった。

便箋を開く。

《玲子へ。おまえは、透には何も知らせなくていいと言った。あの子は知らないほうが、ふつうの暮らしに戻れると。俺はその言葉に縋った。父親として何もしなかったことを、守ったという言葉に置き換えた》

私はそこで一度止まった。

透は視線を上げない。

《けれど、あの夜、階段の下で手を握った小さな手の感触を、俺は忘れられない。透の手ではなかった。あの子は泣かなかった。泣けなかったのかもしれない。赤い紙片を左手に貼りつけたまま、俺を見ていた》

透の右手が腕時計へ伸びた。

私は読み続けた。

《おまえは、あの子を別の名前で呼ぶと言った。ここに残せば、透が疑われる。家族の誰かが疑われれば、あの子も戻される。だから、あの子を別人にするしかないと。俺は止めなかった。止めることができなかった。玲子、おまえの言うとおり、あの子が生きることだけを考えた》

ここで文章は途切れていた。次の便箋には、別の日付が記されている。

透は顔を上げた。

「美談にされるのは、もうたくさんだ」

「美談にはしていません」

「同じだよ。親父は苦しんでいた。母は家族を守ろうとした。俺は知らないまま傷つけられた。誰も悪くないように並べ替えれば、きれいな話になる。だけど、俺はそんなきれいな話を聞きに来たんじゃない」

「では、何を知りたいんですか」

「知りたい?」

透は初めて、まっすぐ私を見た。

「俺が何を知らされなかったのかを知りたい。誰が、いつ、俺の人生の順番を変えたのかを知りたい。親父が悪かったのか、母が悪かったのか、片倉さんが何かを隠したのか、それとも全員が自分なりに正しいと思ってやったのか。そんなことを確かめたいんだよ」

「手紙には、あなたを守るためと書かれています」

「守るためなら、本人に何も言わなくていいのか。俺が子どもだったから、何も分からないと思ったのか。子どもは、説明されなくても分かる。家の中で何かが変わったことくらい分かる。母が洗濯物を畳む速度を変えたことも、親父が帰宅しても靴を脱がずに玄関に立っていたことも、俺は覚えている」

「覚えているんですね」

「覚えてる。忘れたことにしてきただけだ」

その言葉が、部屋の中へ静かに落ちた。

透は窓の外へ目を向けた。雨は止んでいる。ベランダの手すりに残った雫が、街灯の光を細く返していた。

「郵便受けの音が嫌いだった」

「郵便受けの音?」

「親父が帰ってくると、玄関より先に分かった。受け口を開ける音がして、封筒を入れる音がして、それからしばらくして鍵が回る。俺は子どもの頃、その順番を聞いていた。音がしても、すぐに父親が帰ってくるとは限らない。郵便物だけ入っていることもある。だから、金属の音がすると期待して、違うと分かる。その繰り返しだった」

透は、言葉を続けるたびに早口になった。

「親父は、手紙を書いていたのかもしれない。でも、郵便受けに入れたことはなかった。俺に届くはずのものを、ずっと手元に置いていた。だったら、俺があの人を冷たいと思ったのは当然だろ。送らなかった愛情なんて、受け取る側には存在しない」

私は返す言葉を探した。

机の上の手紙は、透の言葉を否定しなかった。久世慎一がどれほど後悔していても、投函されなかった手紙は、息子の人生に届いていない。届かないまま書かれた言葉は、書いた人間の救いにはなっても、受け取る側の傷を消すものではない。

「それでも、読んでください」

私は言った。

「読めば、許さなければならないとは思っていません。お父様を理解しなければならないとも。手紙に書かれたことと、透さんが覚えていることを、別々に残す必要があります」

透は、少しだけ眉を寄せた。

「相沢さんは、親父を許したいのか」

「私は、久世さんの家族ではありません」

「じゃあ、なぜそこまでやる」

「手紙を見つけたからです」

「それだけか」

私は、手袋を外した。指先が冷えている。

「それだけではありません。私は、誰かの遺したものを、都合のいい形に片づけることが嫌いです。捨てるなら、捨てると決めた理由が必要です。残すなら、残す理由が必要です。分からないものを、分からないまま捨てることだけはしたくない」

「仕事の信条か」

「たぶん、自分のためでもあります」

そこまで言うと、透は何も言わなかった。

私は、自分のことを話しすぎたと思った。けれど、口に出した言葉は戻せない。封を閉じ直すこともできない。

透は机の上から、赤い消印の封筒を取り上げた。今度は、指先が震えていなかった。

「これ、どこに届いたんだ」

「まだ確認できていません。消印は県内です。宛先の文字も、一度書き換えられています」

「なら、調べろ」

「透さんも手伝ってください」

「俺が?」

「お父様の家族しか分からないことがあります。手紙の宛名、昔の住所、奥様の字。私は紙の状態は見られますが、書かれた名前の意味までは分かりません」

透は封筒を見たまま、鼻で息を吐いた。

「人を巻き込むのがうまいな」

「巻き込んでいるつもりはありません」

「その顔で言われても信用できない」

「では、断ってください」

透は黙った。

窓の外で、団地のどこかの郵便受けが鳴った。風に押された金属の蓋が跳ね、すぐに戻る。かたん、と短い音がした。

透の顔から、わずかに血の気が引いた。

「……今の音だ」

「郵便受けです」

「分かってる」

彼はそう言ったあと、しばらく音のした方を見ていた。

「火事のあと、あの音が一度だけ、変だった」

「変、というのは」

「俺が聞いたんだ。夜中だった。母は寝ているはずだった。親父もいなかった。郵便受けが開いて、何かが入る音がした。でも、しばらく待っても誰も帰ってこなかった」

「郵便物を確認しなかったんですか」

「怖かったんだと思う。子どもだったから、親父のものに触るなと言われていた。次の日、郵便受けを見たら、赤い紙が入っていた」

私は息を止めた。

「赤い紙片ですか」

「紙片かどうかは分からない。小さな、赤い……札みたいなものだった。母が見つけて、すぐに捨てた。俺が何か聞いたら、広告だと言った」

透は一度目を閉じた。

「でも、広告なんかじゃなかった。母はそのあと、ずっと手を洗っていた。何度も。紙を触っただけなのに、手のひらを洗って、布巾を替えて、台所の流しまで磨いた」

「覚えていることは、そこまでですか」

「他にもある。親父が帰ってきて、母と低い声で話していた。俺には聞こえないようにしていたけど、最後に母が言った。『この子は、うちの子じゃないことにする』って」

部屋の空気が、急に薄くなった。

透はすぐに首を振った。

「いや、違う。今のは母の言葉かどうか分からない。誰が言ったのかも、何のことだったのかも、分からない。記憶は勝手に順番を変える。手紙を読んだから、あとから作っただけかもしれない」

「だから、記録と照合します」

「簡単に言うなよ」

透の声が初めて大きくなった。

「照合すれば分かるのか? 俺の記憶が間違っているのか、親父の手紙が本当なのか、母が何をしたのか。紙を並べれば、全部きれいにつながるのかよ」

「きれいには、ならないと思います」

私は自分の声を聞きながら言った。

「紙を並べても、誰かが傷ついたことは消えません。手紙を読んでも、届かなかった二十年は戻りません。ただ、分からないまま誰かの記憶だけを疑うことは、もう終わりにできるかもしれない」

透は私を見た。

怒っているようにも、泣きそうにも見えた。だがどちらとも言えなかった。彼の表情は、何かを決める直前の人間のものだった。

「赤い封筒のこと、調べる」

やがて彼は言った。

「ただし、親父を許すためじゃない。母を悪者にするためでもない。俺が何を知らされずに生きてきたのか、確かめるためだ」

「分かりました」

「それから、手紙を勝手に処分するな」

「保留にしてあります」

「保留じゃない。残せ」

透は机の上の二十通を見渡した。

「送られなかったなら、せめて誰かが読める場所に置け。親父が書いたことを、また押し入れの奥へ戻すな」

その言葉に、私は返事をしなかった。

透は封筒を保護袋へ戻し、手元を確かめるように角を揃えた。私と同じ癖だった。けれど彼は、揃えたあとも封筒を手放さなかった。

玄関へ向かうとき、彼は廊下の郵便受けを見た。古い金属の受け口には、細かな傷が幾筋も走っている。透はそこへ指を伸ばしかけ、触れずに下ろした。

「父が帰ってきたときの音を、まだ覚えてる」

彼は背を向けたまま言った。

「嫌いだったのに、覚えてる。嫌いなものほど、身体の近くに残るんだな」

返す言葉が見つからない。

透は靴を履き、濡れた廊下へ出ていった。足音が階段の方へ遠ざかる。私は玄関に立ったまま、その音を聞いていた。

やがて、階下で郵便受けが鳴った。

かたん。

私は机へ戻り、二十通の手紙を見た。透が触れた赤い消印の封筒だけが、列から少し浮いている。

私はそれを元の位置へ戻そうとした。

けれど、角を揃える指が途中で止まった。

封筒には、透の体温が残っているような気がした。触れられないほど遠くにいた父子の間に、紙一枚だけが残されている。手渡されたわけではない。返事が届いたわけでもない。それでも、透は初めて、自分の手でその封筒を持った。

窓の外で、雨の匂いがまた濃くなった。

私は机の端に、透のための欄を作った。

《久世透の記憶――赤い紙片、夜の郵便受け、母の言葉》

そこまで書いて、鉛筆を置く。

記憶は、事実ではない。

けれど、事実へ向かう途中で誰かが立っていた場所を示している。

私は濡れた廊下に残った透の靴跡を見た。泥の跡は小さく、玄関から階段へ向かって続いている。いつもの私なら、すぐに拭き取っていたはずだった。

その夜は、最後まで残しておいた。

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