第4話 机上の二十通

雨の降りやまない午後、私は久世慎一の部屋で、手紙をもう一度、最初から並べ直していた。

窓の外では、雨がベランダの手すりを細く叩いている。一定の間隔で続く音は、部屋の中にいる人間の呼吸を測っているようだった。蛍光灯は昼間から点けたままだが、明るさは安定しない。紙の白が明滅するたび、封筒の列がわずかに遠くなったり近くなったりする。

私は机の上を空にした。

手紙、封筒、便箋の切れ端、久世慎一の古い万年筆、郵便局の領収書。ひとつずつ、置かれた順番を崩さないように端へ寄せる。封筒は年月の古いものから並べ、便箋は紙質ごとに分けた。書き直しの跡が多いものは、右端を少し浮かせる。そうしないと、頭の中で日付の順番が崩れてしまう。

机の中央に、二十通の手紙が並んだ。

二十年分。

一枚ずつなら、どれも薄い紙にすぎない。けれど二十通が揃うと、それはひとりの人間が長い時間を使って築いた、低い壁のように見えた。誰かへ届くためではなく、届かないことを前提に積み上げられた壁だった。

佐伯美和さんは、台所の小さなテーブルに座っていた。持参した黒いバインダーを開き、転居届の控えを一枚ずつ取り出している。紙の角を揃え、日付の欄を指で押さえ、それから手帳へ書き写す。彼女の動作には、私とは違う種類の几帳面さがあった。私は乱れを直すために紙を揃える。美和さんは、乱れた記録の間にあるものを見つけるために揃えている。

「最初の束は、火災の翌年からですね」

「はい。日付は二〇〇四年三月十二日。次が六月二十七日。その次が十一月四日です」

「久世さんがこの部屋に戻ってきた時期と、合っていますか」

「管理会社の記録では、火災のあと一度だけ別の棟へ移って、その年の春に戻っています」

私は答えながら、古い便箋を持ち上げた。紙の表面に細かな繊維が浮いている。今使われているものより厚く、角が少し黄ばんでいた。日付は二〇〇五年と書かれている。

けれど、その便箋に乗っている文面は、火災直後のことを記していた。

《あの夜、階段の踊り場にいたのは、透だけではなかった》

そこまで書かれたあと、行が大きく空いている。続きは別の紙に書き直されていた。

《あの夜、私は見てはいけないものを見た》

私は便箋を机に戻した。

「日付と内容が合いません」

「書いた時期と、日付を書き入れた時期が別かもしれませんね」

美和さんはそう言いながら、鉛筆の先で紙の端を示した。

「ここ、見えますか」

私は身を乗り出した。

便箋の右下に、薄い跡が残っていた。インクを消したというより、別の紙を上に重ね、強く書いたために下へ移った筆圧の跡だった。目を細めると、数字らしき形が浮かんでいる。二〇〇四という文字の最後の数字だけが、現在の表記と重ならずに残っていた。

「日付を書き直しています」

「はい。しかも、同じ筆記具ではありません。本文は万年筆ですが、日付だけ細いボールペンです」

私はポケットから自分のペンを取り出しかけて、やめた。久世慎一の机の上にあった、端の折れたボールペンを思い出した。彼は手紙を書くとき、日付だけを後から書き足していたのかもしれない。何年も経ってから、その手紙を別の束へ移し、別の意味を持たせるために。

美和さんはバインダーの中から、転居届の控えを一枚抜いた。

「こちらは、久世慎一さんの転居届です。火災の二週間後に、四号棟から一時的に六号棟へ移ったことになっています」

「一時的に、というのは」

「控えには戻った日付がありません。六号棟の部屋番号も空欄です」

「そんなこと、あるんですか」

「珍しくはありません。災害後の仮住まいでは、正式な手続きが後回しになることがあります。ただ、久世さんの場合は、六号棟にいたという住民証言がほとんどない」

美和さんはさらに一枚、別の紙を机へ置いた。郵便受けの改修記録だった。火災後、四号棟の郵便受けを一部交換した記録があり、交換対象の部屋番号が列挙されている。

その中に、久世家の部屋番号はなかった。

私は記録の列を指で追った。四〇一、四〇二、四〇三。四〇五、四〇六。四〇四だけが抜けている。

「久世さんの部屋は四〇四です」

「そうですね」

「火災があったのも、四〇四では?」

「当時の回覧板では、そうなっています」

美和さんは、すぐには続けなかった。雨音が、会話の空白を埋めていく。

「でも、郵便受けは交換されていない」

「部屋が使われていなかったからではありませんか」

「その可能性はあります。ただ、火災後の郵便物の転送記録を見ると、四〇四宛ての郵便だけが、一度、別の住所へまとめて転送されています。転送先は六号棟ではありません」

私は手帳を開き、日付を書いた。

二〇年前の火災。 二週間後の転居届。 空欄の部屋番号。 四〇四だけ交換されなかった郵便受け。 別住所への郵便転送。

書き並べるほど、事実は整うのではなく、互いの隙間を露わにしていった。

「この空白、自治会の名簿だけじゃないですね」

美和さんが言った。

前にも聞いた言葉だった。けれど今回は、その意味が手の届くところまで近づいていた。

「転居届、郵便受け、火災後の回覧。全部に少しずつ違う空白があります。どれか一つなら、記入漏れかもしれません。でも、同じ時期に同じ部屋に関する空白が重なっている」

「誰かが、意図的に消した?」

「私はそう断定しません。記録が作られた事情を知らないからです。ただ、消えたのではなく、最初から記録に入りきらなかった人がいた可能性はあります」

美和さんは、そこで一度、鉛筆を置いた。

「相沢さん。記録にない人を、記録だけで見つけることはできません。でも、記録が不自然に欠けている場所なら、見つける手がかりにはなります」

私は返事をしなかった。

机上の手紙へ目を戻す。

宛名は、玲子、透、妹の名前。それぞれ違う相手に向けられているはずなのに、文面の途中で同じ言葉が繰り返されていた。

《名前を呼べなかった》

《君に渡すには、遅すぎた》

《あの子を、あの名前のままにはできなかった》

私は三通を横に並べた。

紙質は違う。書かれた年も違う。だが、文字の間隔だけが似ている。久世慎一は、書き始める前に便箋の中央を決め、そこから左右へ言葉を配置する癖があった。文面の端が揃っているのではない。言えない言葉を避けるように、行の長さを調整している。

私は一通の封筒を裏返した。糊の跡が二重になっていた。封をしたあと、一度開けている。その上からまた糊を塗り、押しつけたらしい。封筒の端には細い毛羽立ちがあり、剥がされた紙の繊維が白く残っている。

「これ、開けたあとがあります」

「中身は?」

「さっき確認しました。最初の便箋とは違う紙が入っています」

私は便箋を取り出し、裏返した。そこには、書き損じを破った痕跡が残っていた。紙の上半分だけが丁寧に切り取られ、下半分に数行が残されている。

《玲子は、あの子の名を変えると言った。 俺は止めなかった。 止めるべきだった。 しかし、あの子をここに残せば、透の名前まで――》

そこで途切れている。

「透さんの名前まで、何でしょう」

美和さんの声が低くなった。

「分かりません」

「分からないまま、捨てないでください」

その言葉に、私は顔を上げた。

「仕事としては、内容に踏み込まないほうがいいと思っています」

「そうですね。遺族の同意なしに、私たちが勝手に解釈してはいけません」

美和さんは否定しなかった。けれど、バインダーを閉じようとはしなかった。

「ただ、処分することと、見なかったことにすることは別です。そこを一緒にしてしまうと、記録の空白がまた一つ増えます」

「私は、誰かの家族を暴きたいわけではありません」

「分かっています」

「手紙を読めば読むほど、久世さんの家族の中へ勝手に入っていくような気がします。亡くなった人の机に残ったものを、私の疑問のために並べ替えている。そう思うと、仕事の線を越えている気がして」

「相沢さんは、線を越えるのが怖いんですね」

美和さんの声は穏やかだった。責める調子ではない。それなのに、言葉は紙の切り口のように薄く鋭かった。

私は、すぐに答えられなかった。

怖い。

その言葉を口にすること自体が、どこか順番を飛ばすように思えた。私はいつも、怖さを確認する前に作業へ戻る。手袋を嵌め、物を分類し、写真を撮り、処分か保留かを決める。感情を整理するのではなく、感情が出てくる前に手順を置いて蓋をする。

「怖いというより、分からなくなるんです」

私は言った。

「故人のものと、自分のものの境目が。久世さんの手紙を読んでいるはずなのに、濡れた階段の感触が戻ってくる。郵便受けの音を聞くと、知らないはずの場所を思い出しそうになる。手紙の中にあるのが誰かの記憶なのか、私の記憶なのか、分からなくなるんです」

美和さんは黙って私の話を聞いていた。

私は続けた。

「記憶がないことは、ずっと不便でした。でも、ないものとして扱えば生活はできた。知らないものは調べなくていい。覚えていないことは、覚えていないままでいい。そうやって、私は自分の過去を片づけてきたんだと思います。ところが今、久世さんの手紙の中に、私が片づけたはずのものと同じ匂いがある。紙の湿り気も、手すりの冷たさも、赤いものが手に貼りつく感触も、私の記憶ではないのに、私の身体だけが知っている」

そこで、声が止まった。

美和さんは鉛筆を持ち直し、手帳の端を揃えた。

「では、いま分かっていることを書きましょう」

「いま、ですか」

「はい。分からないことを分からないまま並べるのも、整理の一部です」

彼女は白い紙を一枚取り出した。

「まず、相沢さんが雨降り坂団地にいたという事実は、まだ確認できていません。団地火災の被災者名簿にも、相沢という名前はない。これは事実です。一方で、相沢さんが団地に既視感を覚えていること、久世さんの手紙にある濡れた階段や赤い紙片に身体的な反応があることも、事実です。証明はできなくても、記録すべき事実です」

「感覚まで記録するんですか」

「生活歴を扱う仕事では、記録します。本人が何を覚えているかだけではなく、何に反応したかも、その人の現在をつくる材料です」

美和さんは紙の中央に一本の線を引いた。

「こちら側が確認できたこと。こちら側が推測です」

左に、日付と書類の名前が並ぶ。右には、赤い紙片、濡れた階段、少女の存在。

「推測は、証拠になるまで残してはいけないと思っていました」

「推測を事実として扱ってはいけません。でも、推測を捨てる必要もありません。捨てたら、あとで比較できなくなります」

その言葉は、私が仕事で何度も見てきた部屋のことを思い出させた。遺族が迷っている品を、とりあえず保留箱へ入れる。捨てるわけでも、残すと決めるわけでもない。判断を先送りにするためではなく、判断できる状態まで守るための箱だ。

私は、机の上の手紙を見つめた。

「手紙も、保留にできますか」

「できます。少なくとも、捨てずに残すことはできます」

「遺族が不要だと言ったら」

「そのときは、必要な手続きを確認してからです。相沢さんが一人で背負うことではありません」

美和さんの言葉には、事実を正しく扱う冷たさと、人をひとりにしないための温度が同時にあった。

私は二十通の手紙を見渡した。

二十通は、誰にも届かなかった。届かなかったからこそ、久世慎一は書き続けられたのかもしれない。返事がなければ、拒絶もない。封を切られなければ、言葉は傷つける相手を持たずに済む。けれど、書かれた言葉は消えない。紙に残った時点で、いつか誰かの手に渡る可能性を持つ。

「久世さんは、ずっと順番を直していたんですね」

「順番を?」

「誰に何を言うか。何を先に書くか。どこまで書いて、どこで止めるか。手紙の封は閉じても、内容の順番は決めきれなかった。だから、何度も開けて、入れ替えて、書き直した」

私は一通の封筒を取り上げた。

「この人は、何かを隠していた。でも、隠すためだけなら、こんなに残さないと思います」

「残したかったのかもしれません」

「誰に?」

美和さんは答えなかった。

窓の外で雨が強くなった。ベランダの手すりに当たる水滴が細かな音を重ね、部屋の中の静けさを押し広げていく。

私は封筒の角を揃えた。ひとつだけ、どうしても列から浮く封筒がある。古いクリーム色のもの。角が潰れ、糊跡が二重になっている。

その表面には、宛名がない。

差出人の欄に、久世慎一の名前だけが残っている。

美和さんが、その封筒を見た。

「これは、誰宛てですか」

「分かりません」

「中身は?」

「まだです」

「開けるかどうかは、相沢さんが決めてください。ただ、開けるなら、読んだ内容を事実と推測に分けて記録しましょう」

私は封筒を持ったまま、しばらく動かなかった。

紙の縁が指の腹に触れている。乾いているのに、濡れた階段の冷たさがそこから戻ってくる。封を切れば、また何かがこちらへ届く。けれど、届いたものをなかったことにはできない。

私は手紙を机の中央へ置いた。

その横に、まだ名前のない保留箱を置く。

二十通の手紙は、少しだけ形を変えた。乱れていたわけではない。ただ、これまで見えていなかった空白が、並べ直されたことで輪郭を持ったのだ。

美和さんは記録用紙に、今日の日付を書き込んだ。

私はその隣に、ゆっくりと一文を記した。

《久世慎一の手紙には、記録上存在しない少女についての記述がある》

書き終えたあと、鉛筆を置いた。

その一文は、事実なのか、まだ推測なのか、自分でも判別できなかった。

ただ、紙の上に残った文字は、封を切られるのを待つ手紙と同じように、もう消えなかった。

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