第3話 名義のない少女

夜の団地は、昼間とはまるで違う生き物のようだった。
四号棟の階段を上がる間、私の足音だけが踊り場に反響し、やがて頭上の暗がりへ吸い込まれていく。廊下の蛍光灯は三つに一つが切れていて、残りの光も弱々しく明滅していた。空室の前を通るたび、壁の内側で郵便受けが小さく鳴る。風のせいだと分かっていても、その音は決まって一拍だけ早く鳴る気がして、私は毎回、肩のあたりに力を入れずにいられなかった。
久世慎一の部屋の鍵を開けると、昼間よりも濃い紙の匂いが流れ出てきた。古い紙が持つ、あの乾いた甘さ。私はその匂いを吸い込みながら、手袋を左右そろえて嵌め、机の前に腰を下ろした。
今日は、順番を疑うために来た。
封筒を一通ずつ取り出し、年代順に並べ直す。角は、どれも定規でなぞったように揃っている。だが、その揃い方をよく見ていくと、おかしなことに気づく。糊の跡が二重になっている封筒がある。一度閉じたものを、また開けて、別の便箋を差し入れ、改めて閉じ直した痕だ。端が少し波打っているものもあれば、破った形跡を丁寧に貼り合わせた便箋もある。
几帳面な男だった、と誰もが言う。だがこの机の上に並んでいるのは、几帳面さの向こう側にある、何度も手を止め、何度も書き直した人間の形だった。久世慎一は、ただ過去を悔やんでいたのではない。悔やみながら、誰かを守るために、言葉を迂回させ続けていたのだ。
玄関で、金属の軋む音がした。
「……誰だ」
低い声だった。振り向くと、戸口に久世透が立っていた。都市部のコートをまとったまま、濡れた靴底で三和土に立ち尽くしている。彼は部屋の中を一瞥し、それから私の手元の封筒の束に目をやると、露骨に顔をしかめた。
「業者の人か。遺品の整理なら、好きにやってくれて構わない。俺は見る気はない」
「久世透さんですね。お父様の手紙が、何通か出てきています」
「手紙」
彼はその言葉を、何か汚いものでも口にするように繰り返した。
「手紙なんて柄じゃなかったはずだ、あの人は。電話一本寄越さないような男だったんだから」
「宛名のある手紙です。奥様に、あなたに、それから――」
言いかけた私を遮るように、透は靴を脱ぎもせず部屋に踏み込んできた。
「読む気はないと言ったはずだ」
そう言いながら、彼の目は机の上の封筒の列から離れなかった。見る気はないと言う人間の目の動きではない。私は一番上に重ねておいた、亡き妻宛ての一通をそっと机の中央へ滑らせた。
透はしばらく黙っていた。やがて、吐き捨てるように言う。
「親父は、家族を顧みなかった男だ。俺が高校の頃、母が倒れて入院したときも、仕事を休まなかった。見舞いにも、三日に一度来るか来ないか。そういう人間だったんだ。今さらこんな紙切れで、何かが変わるとでも思っているのか」
「変わってほしいとは思っていません。ただ、読んでいただきたいだけです」
「読んでどうなる。死んだ人間の言い訳を、今さら聞いてやる義理が俺にあるか?」
言葉は鋭かった。だが、その語尾だけが、刃の先がわずかに丸くなるように、力を失っていた。私はその一拍の揺らぎを、見逃さなかった。
「透さんは、お父様を冷淡な人だったと思っている。それは、あなたが見てきた事実なんだと思います。でも、ここに積まれた手紙は、誰にも見せなかった言葉です。冷淡な人間が、二十年間、こんなに何度も書き直しながら、誰にも渡せない手紙を書き続けるでしょうか」
透は答えなかった。代わりに、彼の視線は手紙の束の奥、赤い消印の封筒の控えに向いた。先日、雨粒文庫で見つけたものと同じ筆跡の、書き換えられた差出人名。私はそれを、あえて目立つ位置に置いておいた。
「……これは」
透の声が、初めて揺れた。
「この名義、書き換えられています。元々は別の名前が書かれていたようです。久世さん、何か心当たりはありませんか」
「知らない」
即答だった。だが彼の右手は、無意識のうちに腕時計のベルトへ伸びていた。怒りを押し込めるときの癖なのだろう、と私は思った。何か言いたいことがあって、それを言葉にする前に、手の動きが先に出てしまう。
「俺が子どもの頃――」
透はそこで一度言葉を切り、窓の外に目をやった。濡れたベランダの手すりに、街灯の光が細く反射している。
「……団地の火事があった。俺は小さかったから、詳しいことは覚えていない。ただ、しばらくの間、うちの階の雰囲気がおかしかったのは覚えている。母が妙に静かだった。親父は、仕事から帰ると、玄関先で靴を脱ぐ前に、長いこと突っ立っていることがあった」
「その頃、お父様のそばに、お子さんはいましたか。あなた以外に」
「知らない。そんな話、聞いたこともない」
言い切る声は強かったが、その直後に続いた沈黙は、強さに見合わないほど長かった。透は何も言わず、ただ赤い消印の封筒を見つめ続けていた。怒りで父を断ち切りたいはずなのに、断ち切ったはずの過去のほうが、彼の身体に残っている。その黙り方が、何よりもそれを物語っていた。
私は、机に並べた手紙の束にもう一度目を落とした。亡き妻宛て、息子宛て、失踪した妹宛て――そのどれもが、宛先の名を記しながら、文面の途中でふいに別人へ語りかけるように調子を変える箇所がある。まるで、本当に届けたい相手の名前だけを、周到に避けて書かれているかのように。
宛先を失った手紙ではない。宛先を、わざとずらされた手紙なのだ。
久世慎一は、誰かを隠していたのではない。守りながら、隠された側へ、迂回して手紙を書き続けていたのではないか。喉の奥に、言葉にならない塊がせり上がってくる。
透は何も言わないまま、靴を脱がずに踵を返した。玄関先で一度だけ振り返り、
「次来るときは、もう少しましな紙を見つけてくれ」
とだけ言って、廊下へ消えていった。足音が遠ざかるのを聞きながら、私は手紙を一通ずつ、もとの順番へ戻していった。
部屋を出たのは、それから一時間ほど後だった。階段を降りる途中、踏み板の水気が靴底から足裏へ伝わってくる。手すりに触れると、冷たい錆の感触が指先に残った。
その冷たさに、見覚えがあった。
二十年前のものと同じ感触だった気がして、私は思わず手を止めた。暗い踊り場、濡れた鉄、誰かに握られた手首。記憶ではない。記憶のかたちをした、何かの予感だった。
私はまだ知らない。この手の冷えが、久世慎一の手紙の中にではなく、自分自身の過去の中に、ずっと眠っていたものだということを。けれど、もう立ち止まったままではいられないことだけは、はっきりと分かっていた。
封を切る音は、もう仕事の音ではなかった。
← 横にスクロールして読み進められます
