第2話 回覧板の影

雨は夜のうちに上がったはずなのに、午後になってもまだ空は重たい灰色のままだった。地域包括支援センターへ向かう道すがら、私は傘を持たずに出たことを少し悔やんだ。霧雨というには粒が大きく、小雨というには輪郭がぼやけている。そういう中途半端な雨が、私は昔から苦手だった。
センターの建物は、団地の外れに建つ比較的新しい施設で、雨降り坂団地の古びた棟とは対照的に、壁の白さがまだ保たれていた。受付で名乗ると、すぐに佐伯美和さんが出てきてくれた。
「相沢さん、わざわざすみません。中でどうぞ」
案内された小さな面談室には、給湯室から流れてくる薄い紅茶の匂いが届いていた。美和さんは私の向かいに座ると、まず何も言わずに手を差し出した。私はその意味をすぐに理解して、手帳を渡した。
彼女はページをめくるというより、指先で紙の端を撫でるようにして読み進めていった。急かすところがまったくない。一文字ずつ日付を確かめ、ときどき自分のメモ帳に何かを書きつけ、小さな付箋を貼っていく。その手つきを見ているうちに、私は自分の肩から力が抜けていくのを感じた。誰かに手紙を見せたのは、これが初めてだった。
「久世さんの手紙、拝見する限り、日付の並びはかなり几帳面です」
美和さんはそう言ってから、一拍置いた。
「ただ――ひとつだけ、妙なところがあります」
「妙な、というのは」
「便箋の種類です。久世さんはおそらく同じ店で、同じ銘柄の便箋をずっと買い続けていた。紙の目が揃っていますし、罫線の色も同じ。でも、一通だけ違う紙が交じっています。それも、年代で言えば一番古い束の、真ん中あたりに」
私は自分の手帳に目を落とした。昨夜、押し入れの箱の中身を書き写したページだ。年代順に並べたはずの封筒の列に、確かに一箇所だけ、紙質の違う便箋があった。あのときは気に留めなかった。几帳面な男の、ただの気まぐれだと思っていた。
「紙が違うということは」
「断定はできません。ただ、同じ時期に書かれたものではない可能性があります。日付だけを後から書き足した、とか」
美和さんの声は変わらず穏やかだったが、言葉の選び方には迷いがなかった。記録は感情より軽いが、嘘よりはずっと重い――彼女が以前そう言っていたのを思い出す。私はその重さを、今になってようやく実感し始めていた。
「団地の集会所に、古い掲示板が残っているそうです。見に行ってみませんか」
美和さんの提案に、私は頷いた。手帳を閉じる音が、やけに大きく響いた気がした。
団地集会所は、四号棟から歩いて五分ほどの古い平屋だった。中に入ると、埃っぽい畳の匂いと、湿った紙の匂いが同時に鼻を突いた。壁の一面を占める掲示板には、色あせた紙がいくつも重なって貼られている。行事予定、災害時の避難経路、ごみの分別表、そして住民の転居を知らせる手書きの張り紙。
美和さんは掲示板の前に立ち、しばらく黙ったまま目だけを動かしていた。
「ここ、見てください」
彼女が指したのは、災害連絡の貼り紙が重なっている一角だった。紙の端がめくれ、下に別の紙が透けて見える。剥がされた跡が白く残り、その輪郭だけが、まるで何かの形をなぞるように浮かび上がっていた。
「日付の順番が、おかしいんです。普通、古いものの上に新しいものを貼っていきますよね。でもここは、途中で一度、古い日付のものが上に重ねられている」
「わざと、ということですか」
「分かりません。でも――」
彼女が言い終える前に、入口の戸が軋んで開いた。
「あら、センターの佐伯さんじゃないの。珍しいこと」
現れたのは、腰の少し曲がった、しかし声だけは驚くほど張りのある老女だった。片倉澄江さん。久世慎一の部屋を担当すると決まったとき、管理人から真っ先に名前を聞かされた人物だった。団地のことなら澄江さんに聞け、と。
「こちら、しののめ遺品整理の相沢さんです。久世さんのお部屋を」

美和さんが紹介すると、澄江さんは私の全身をさっと見渡すように視線を動かした。値踏みというより、品定めに近い速さだった。
「ああ、久世さんの。あの人も、とうとう逝ってしまったのねえ。真面目な人だったのに」
「片倉さんは、久世さんと長いお付き合いだったんですか」
「そりゃあもう、この団地が建った頃からの顔なじみよ。あの人が奥さんと透くんを連れて越してきたときから知ってる」
澄江さんは懐かしそうに目を細めたが、その目は少しも遠くを見ていなかった。むしろ、私の次の言葉を先回りして待っているような速さがあった。
「あの、二十年ほど前に、こちらの団地で火災があったと聞いたんですが」
言った瞬間、空気が微かに動いた気がした。澄江さんの表情は変わらなかったが、言葉の出てくる間合いだけが、一拍遅れた。
「ああ、昔のことね。もうずいぶん前の話よ。それより相沢さん、久世さんのお部屋、台所の換気扇の調子はどうだった? あそこ、昔から油が溜まりやすくてねえ」
「換気扇は、特に」
「そう。あとね、回覧板の回収、まだこちらで続けてるのかしら。最近は若い人が少なくなって、回すのも一苦労でね。冬になる前に植え込みも手入れしないと――」
言葉が途切れることなく流れていく。火災、という言葉だけが、彼女の話の中から丁寧に抜き取られているようだった。私は一度口を挟もうとしたが、澄江さんの話はすでに次の話題へ移っていて、割り込む隙がなかった。
「片倉さん。久世さんの手紙の中に、お名前の分からない方が出てくるんです。小さな女の子のようなんですが」
今度こそ、澄江さんは湯飲みに手を伸ばす仕草を途中で止めた。ほんのわずかな間だった。けれどその間に、彼女の視線が一度だけ、私の後ろの掲示板へ流れたのを見逃さなかった。
「さあ、どうだったかしらねえ。もう二十年も前のことだし、私もこの歳になると、覚えていることと忘れたことの区別がつかなくなってくるのよ」
澄江さんは笑った。皺の多い顔に、確かに人懐こさはあった。けれどその笑いの下には、何か固く結ばれたものがあるようにも見えた。
「もう終わった話なのよ、相沢さん。昔のことを今さら掘り返したって、誰も幸せにならないでしょう」
その言葉を最後に、澄江さんは軽い世間話を続けながら、私たちを集会所の外まで見送った。玄関先で振り返ったとき、彼女はもう掲示板の方を見てはいなかった。
美和さんと別れたあと、私は一人で雨粒文庫に足を向けた。団地の端にある、古い木製の貸し棚だった。住民が読み終えた本や、不要になった紙類を自由に持ち寄り、持ち帰ることができる、小さな文庫だ。
棚の扉を開けると、紙の匂いが奥から溢れ出すように立ち上がった。古い雑誌、黄ばんだ文庫本、誰かの手書きのレシピ帳。その隙間に、見覚えのある筆跡のメモが挟まっているのに気づいた。
久世慎一の字だった。几帳面に整えられた文字で、何かの下書きらしき断片が記されている。《あの日のことは、玲子が》――そこで文字は途切れていた。
メモの下に、一通の封筒があった。
他の手紙とは違う。表面に、赤い消印がはっきりと押されている。投函され、実際に届けられた証拠だった。差出人の欄に目を近づけると、文字の下にうっすらと別の筆跡が透けて見えた。誰かが、一度書かれた名前の上から、別の名前を書き直している。
指先が、封筒の縁をなぞった。紙はひんやりと湿り気を帯びていて、その冷たさが、なぜか足の裏に伝わるような感覚を呼び起こした。濡れた階段を降りるときの、あの感触に似ている。
思い出したのではない。
思い出しかけた、という手応えだけが、指先に残った。
私は赤い消印をもう一度見つめた。濡れた血のように、赤だけが紙の白の中に沈んで見える。封を切る音は、まだ聞こえていない。けれど、いつかこの封筒を開ける日が来ることを、私はすでに知っているような気がした。
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