第1話 封を切る音

雨が上がったばかりの午後、私は雨降り坂団地の四号棟へ向かった。
団地へ続く坂道には、まだ水が残っていた。アスファルトのくぼみに灰色の空が溜まり、車が通るたび、薄い泥水が歩道の縁へ押し出される。坂の上に並ぶ建物は、どれも同じ高さで、同じようなベランダを持っていた。けれど、空室の多い棟ほど窓の暗さに差があった。カーテンのない部屋、鉢植えだけが残された部屋、外から見ても生活の形が分からない部屋。人がいなくなったあとも、建物は人の気配を抱えたまま、ゆっくり古くなっていく。
四号棟の入口で、私は一度立ち止まった。
雨の残り香が、濡れたコンクリートの匂いに混じっていた。蛍光灯は点いているのか消えかけているのか判然とせず、白い光が廊下の途中で途切れている。空室の前を通るたび、壁の内側で郵便受けが小さく鳴った。風が吹き込んでいるのか、金具が緩んでいるのか、音の理由は見えない。
湿った鉄の匂い。古い紙の甘い腐れ。誰かが使った洗剤の薄い香り。
いくつもの生活が、同じ廊下に層になって残っていた。
私は入口の脇で靴の向きを揃え、それから白い作業手袋を取り出した。右手用と左手用を並べ、指の長さを確かめる。現場に入る前に、必ずすることだった。手順をひとつずつ踏めば、部屋の中で何が見つかっても、必要な場所へ戻せる。そう信じて仕事をしてきた。
スマートフォンが震えた。しののめ遺品整理の事務所からだった。
「着きました」
『久世さんのお部屋、鍵は開いています。管理人さんには話を通してありますから。貴重品と書類を先に見て、処分の判断がつかないものは写真を撮ってください』
「分かりました」
『それから、息子さんが夕方に来るかもしれません。立ち会いを希望されているそうです』
私は手帳を開き、作業開始時刻を書いた。数字を記すと、少しだけ呼吸が戻った。
「確認しておきます」
『無理はしないでくださいね。独居の方の部屋は、物が少なくても時間がかかりますから』
通話が切れたあとも、私はしばらく黒くなった画面を見ていた。
時間がかかる。
その言葉が、廊下の湿気のように残った。
久世慎一の部屋は、四号棟の三階にあった。表札の文字は薄く、名字の下に小さな傷がいくつもついている。鍵を回すと、内側で金属が一度だけ乾いた音を立てた。
ドアを開けた。
玄関には男物の革靴が一足、つま先を外へ向けて置かれていた。靴底に泥はない。脱いだ人が、また出るつもりで揃えたようにも見えた。
「失礼します」
誰もいない部屋に声をかけるのは、仕事を始めるときの習慣だった。返事を期待しているわけではない。ただ、誰かの暮らしの中へ入るとき、無言で踏み込むことに抵抗があった。
居間には、低い食卓と古いラジオがあった。電源は切れている。食卓の上には湯飲みがひとつ置かれていた。底に茶の跡はあるが、飲み残しはない。流しには洗って伏せられた茶碗が二枚、箸が一膳。冷蔵庫の中身はほとんどなく、壁際の時計だけが、止まった時刻を示していた。
部屋は整っていた。
整っているというより、誰かが整えることをやめたあと、時間だけが静かに形を保っているようだった。
私は手帳に家具の位置を簡単に書き写した。処分、保留、貴重品。三つの欄を作り、見つけたものを分類していく。仕事の輪郭が、いつものように目の前へ現れる。
寝室の押し入れを開けたとき、布団の間から乾いた埃が落ちた。上段には衣類と古い毛布、下段には段ボール箱が二つ。片方は空だった。もう片方は、奥の壁に押しつけるように置かれている。
箱の蓋には、油性ペンで「紙」とだけ書かれていた。
私はしゃがみ込み、箱を手前へ引いた。底が畳を擦り、低い音がした。蓋を持ち上げた瞬間、紙同士が擦れる乾いた音が立った。
指が止まった。
中には封筒の束が入っていた。茶色く変色したもの、薄い灰色のもの、郵便番号の枠が印刷されたもの。封筒は年代ごとに分けられ、細い紐で束ねられている。紐の結び目まで、妙に整っていた。
私は一番上の束を取り出した。
宛名はない。差出人の欄には、すべて久世慎一の名前が書かれていた。住所も同じだ。けれど、投函された形跡は一通もなかった。切手が貼られていない。消印もない。封筒の角は揃い、糊の端は指で何度も押さえたように滑らかだった。
封筒を並べる。
古いものから新しいものへ。手帳に日付を書き、便箋の枚数を記録する。そうしているうち、胸の内側に細い線が引かれていくのを感じた。仕事の線だった。これは故人の私物で、私は整理する側にいる。勝手に読んではいけない。宛先がある手紙は、原則として遺族へ渡す。内容に踏み込まず、存在を記録する。
その線を守るために、私は何度も現場へ入ってきた。
誰かの遺した日記も、財布の中の写真も、枕の下の封書も、持ち主がいなくなったからといって、私のものにはならない。読まないことは冷たさではなく、境界を守るための手順だった。
けれど、箱の底にあった一通だけは、ほかの封筒と揃っていなかった。
薄いクリーム色の封筒。角が少し潰れている。紐から外れ、束の横に滑り込むように置かれていた。宛名の代わりに、表面の中央へ「玲子へ」と書かれている。
久世玲子。死亡届に記載された、久世慎一の妻の名前だった。
私は封筒の角を指で揃えた。潰れた部分は、完全には戻らなかった。
裏返すと、封は閉じられていた。切手はない。紙は古く、端がわずかに波打っている。私はそれを箱に戻そうとした。
そのとき、廊下の郵便受けが鳴った。
金属の蓋が跳ね、すぐに戻る音。
かたん。
誰かが、外から投函したような音だった。
私は顔を上げた。開いた玄関の向こうには、薄暗い廊下しかない。雨粒が手すりから落ち、階下の庇に当たっている。人の足音はしなかった。
手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
やがて私は、封筒の角をもう一度なぞった。何かを確かめたかったのだと思う。紙の厚み、糊の乾き、指先に残る古い埃。触れれば、置かれた順番や、手放されなかった理由が分かるような気がした。
封を切る。
そう決めたわけではない。ただ、封筒の端に爪を入れていた。
薄い紙が裂ける音は、驚くほど小さかった。それなのに、部屋全体がその音を待っていたように感じた。
ぺり、と封が開く。
私は便箋を取り出した。紙は二つ折りにされ、折り目の脇に何度も指を置いた跡があった。最初の行を読む。
《玲子へ。あの日のことを、まだ事故と呼んでいるなら、俺は何度でも書き直す》
私は視線を止めた。
事故。
手帳の端に、二十年前の団地火災という言葉が浮かんだ。まだ誰からも聞いていない言葉だった。久世慎一の死亡記事にも、管理人から受け取った部屋の概要にも、火災の記載はなかった。
便箋の下半分には、書き直された跡が残っていた。
《あの子は、死んだことになっていない。けれど、生きている名前も持っていない》
息を吸ったつもりが、胸の途中で止まった。
私は文字を追った。
《誰がどこへ行ったのか、俺は見ていた。見ていたのに、玲子の言うとおりにした。おまえを守るためだと、透を守るためだと、自分に言い聞かせた。だが、守るという言葉は、手を離した側があとから使うには都合がよすぎる》
そこまで読んだところで、私は便箋を机に置いた。
部屋の中は静かだった。壁掛け時計は動かず、ラジオも黙っている。雨の雫がベランダの手すりを叩き、一定の間隔で音を立てていた。
私は白い手袋を外した。指先に紙の乾いた感触が残っている。
手紙には、知らない少女のことが書かれていた。死亡届にない名前。生きているのに、生きている名前を持たない誰か。そこまでなら、故人が抱えた過去として整理できたかもしれない。
けれど、便箋の最後の一文が、私の手を止めた。
《あの子の左手には、あの夜、赤い紙片が貼りついていた。濡れた階段で、俺が一度だけ手を握った》
濡れた階段。
赤い紙片。
左手。
その三つの言葉が、記憶ではない場所から浮かび上がった。暗い踊り場。冷たい手すり。誰かの指が私の手首を強く包んでいる。焦げた布の匂い。遠くで鳴る、金属の蓋の音。
私は立ち上がりかけ、膝に力が入らず、押し入れの縁へ手をついた。
「……違う」
誰に向けた言葉か分からなかった。
私は雨降り坂団地に来たことがない。そう思っていた。少なくとも、ここで暮らした記憶はない。両親からも、幼い頃の話を詳しく聞いたことはなかったが、私の過去は別の場所にあると、疑わずに生きてきた。
それなのに、この部屋の湿った空気も、階段の冷たさも、郵便受けの音も、身体のどこかが知っている。
手紙を読む前から、知っていたように。
私は便箋を裏返した。続きはなかった。最後の行の下には、書きかけの線が一つだけ残っていた。久世慎一は、次の言葉を書き始めて、そこで止めたらしい。破り捨てた紙片が箱の底にないか探したが、指に触れたのは古い封筒と、乾いた糊の粉だけだった。
部屋の入口で、靴底が鳴った。
誰かが廊下を歩いている。
私は反射的に便箋を封筒へ戻した。だが、封を閉じることはできなかった。封筒の角を揃え、便箋を箱の上へ置く。手順表を開き、貴重品と書類の欄を確認する。処分、保留、遺族へ返却。いつもの分類を目で追っても、文字が意味を結ばなかった。
玄関の向こうで、足音が止まる。
私は息を浅くした。
訪ねてきたのが誰なのか、まだ分からない。けれど、故人の部屋へ入ったときのように「失礼します」と声をかけることはできなかった。
机の上には、封の開いた手紙がある。
その紙に残された文字は、もう久世慎一だけのものではなかった。私の知らない過去が、紙の上からこちらを見返している。
私は手順表を閉じた。今度は、迷わなかった。
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