第9話 蒼が残した呼吸

七回表、空の色が変わり始めていた。

白かった雲が、縁のほうから鈍い灰色を帯びている。夕立の気配が、まだ遠くはあるが確かに近づいていた。河川敷を渡る風が、さっきより湿り気を増し、土の匂いを一段と濃くしている。

怜の額には、これまでにない量の汗が浮いていた。

先頭打者に粘られ、ファウルを五球続けられたあと、ようやく打ち取った打球はセンター前へ抜けた。続く打者には初球を叩かれ、二塁打。無死二塁。ベンチの奥で、誰かが小さく声を漏らすのが聞こえた。

「怜、今日、球数多くないか」

西尾がつぶやいた声に、俺は何も答えなかった。答える代わりに、マウンドを見た。

怜は捕手からボールを受け取り、プレートに戻るまでの間、いつもよりわずかに長く止まっていた。肩の上下が速い。投球のたびに、呼吸が整う前に次のサインへ入っている。普段の怜なら、絶対にしない間の詰め方だった。

小野寺先生はベンチの奥で、腕を組んだまま動かなかった。

声をかけるでもなく、ただ見ている。先生が動かないということは、まだ投手交代を考えていないということだ。それは信頼かもしれないし、あるいは、怜自身にこの場を越えさせようとしているのかもしれない。どちらにしても、先生の沈黙は、俺たちに判断を預けたままだった。

三塁から見る怜の背中は、やけに狭く見えた。

次の打者が打席に入る。送りバントの構え。一死、二塁三塁の可能性が頭をよぎる。俺は守備位置を半歩前へ詰めた。土を踏む音が、やけにはっきりと耳の奥に響いた。

打者がバットを引いた。セーフティの動き。だが怜の初球は、わずかに高く外れた。ボール。二球目も同じように外れる。怜が苛立っているのが、遠目にも分かった。マウンド上で小さく肩を回し、グラブの中でボールを握り直す仕草が、いつもより一拍長い。

焦っている。

怜が焦る場面を、俺はこれまでほとんど見たことがなかった。

ふいに、蒼の声が耳の奥で蘇った。

——焦ってるやつに、焦れって言っても余計に焦るだけだぞ。

春の大会、似たような場面があった。相手打線に粘られ、怜の制球が乱れ始めたとき、蒼はベンチからではなく、遊撃の位置から、わざとゆっくりとした動作で靴紐を結び直していた。急かされるこちらの呼吸を、あえて緩める。

——怜、お前が速く投げたがってるとき、周りまで速くなる。だから誰かが遅くする係をやらなきゃいけない。

あの時、蒼はそう言って笑っていた。笑いながらも、目だけは真剣にマウンドを見ていた。俺はその意味を、当時はちゃんと分かっていなかった気がする。

今、分かる。

怜が苦しいとき、必要なのは励ましの言葉ではない。間を作ることだ。呼吸をひとつ、外から差し込むことだ。

俺は守備位置で、一度だけ深く息を吸った。

打球が来る気配のない、わずかな静止の瞬間を選ぶ。怜がセットポジションに入る直前、俺は低く、短く声を出した。

「怜」

それだけだった。

怜はちらとこちらを見た。何を言われたわけでもないのに、眉がわずかに寄る。だが、その一瞬の間に、肩の力がほんの少しだけ抜けたのが分かった。グラブの中でボールを握り直す動作が、さっきより一拍遅くなる。

怜は小さく息を吐いた。

それから、プレートを踏み直し、投球に入った。

三球目は、外角低めへ鋭く沈んだ。バントの構えを崩さなかった打者が、泳ぐようにバットを出す。ボールはファウルゾーンへ力なく転がった。

ワンストライク。

俺は三塁から、もう一度短く声を出した。

「落ち着いていけ」

蒼ならもっと軽く、冗談めかして言っただろう。だが俺の声は、そんなふうには出てこない。固い。不器用な響きのまま、グラウンドの空気に溶けていく。

それでも、怜は一度だけ頷いた。

次の送りバントは、ピッチャー前に転がった。怜が素早く反応し、三塁へ送球する。走者はアウト。一死一塁二塁。流れが、わずかに戻った。

続く打者への初球、怜は内角へ鋭く食い込む直球を投げた。打者が仰け反る。二球目、外のスライダー。三球目、再び内角。詰まった打球が、俺の正面へ転がってくる。

迷わなかった。

土を蹴る。グラブを差し出す。確実に捕る。二塁への送球、そこから一塁へ。ダブルプレー。

試合が動いた。

ベンチから声が上がる。だが俺は、安堵よりも先に、別のものを感じていた。

怜と俺の間に、今、確かに何かが通った。それは蒼がいた頃にしかなかった、呼吸を合わせるための短い合図の形だった。長い言葉はいらない。ただ、相手が必要としている一拍を、外から差し出す。蒼はそれを、いつも誰かのために、当たり前のようにやっていた。

蒼がいなくなっても、その型は消えていなかった。

消えていないのに、本人はここにいない。

その矛盾が、胸の奥で小さく疼いた。

マウンドに戻る怜の背中を見ながら、俺は三塁の土を二度ならした。

蒼の残響を借りただけでは、きっとこの夏は走り切れない。蒼の声を真似ても、蒼の間合いをなぞっても、俺はいつか、俺自身の声で怜に届けなければならない瞬間が来る。

それでも今は、借りた一拍で十分だった。

怜が次の打者に向き合う。俺はグラブを握り直し、三塁線の先を見据えた。

灰色の雲が、河川敷の向こうでゆっくりと厚みを増していく。夕立はまだ降らない。だが、風の匂いは確かに変わり始めていた。

試合は、まだ終わっていない。

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蒼が残した呼吸 - 背番号の残響 - 誰でも作家life