第8話 三塁線の重さ

プレーボールの声が、川面を渡る風にほどけて消えた。
観客席はまだ半分も埋まっていない。平日の午前、県大会の一回戦にしては地味な組み合わせだった。それでも、青葉台のベンチ前には、三年間この日のために積み重ねてきた者だけが持つ、張りつめた静けさがあった。
マウンドに立った桐山怜は、いつも通りだった。汗の量も、肩の上げ下げも、投球練習での球筋も、俺が知っている怜のまま変わらない。ただ、その変わらなさが、今日だけは妙に頼もしく見えた。
怜の一球目は、内角低めへ食い込む直球だった。
打者が仰け反る。審判の声が遅れて響く。ストライク。
二球目は外へ逃げるスライダー。三球目は、打者の目線を外すために、わざと間合いを長く取った。構えてから投げるまでの一拍が、普段より心持ち長い。打者が焦れて、バットを早く動かした。詰まった打球が、三塁線へ低く転がってくる。
俺はその瞬間、確かに蒼の視線を探していた。
二歩深く守る遊撃の位置。打球が来る前に、互いの重心が自然とずれる、あの呼吸。だが、そこにいるのは蒼ではない。今年から二遊間に入った一年生の背中が、遠く、頼りなく見えた。
一拍、身体が遅れる。
夜明けの練習で嫌というほど味わった、あの重さが足の裏にまとわりつく。だが、迷いごと土を蹴った。今朝の湿りを吸った土は重く、スパイクの裏から押し返してくる。身体を低く沈め、グラブを差し出す。打球はグラブの芯からわずかに外れ、指先でかろうじて止まった。
立ち上がりながら、送球までの形を選ぶ間もなかった。身体を開いたまま、無理に腕を振る。ボールは一塁線へわずかに逸れながらも、一塁手の伸ばしたグラブへ滑り込んだ。
アウトのコール。
乾いた音が、湿った空気の中で短く響いて消える。
怜は何も言わずマウンドに戻った。振り返りもしない。だが、グラブを構え直す指先の動きに、わずかな安堵が滲んでいる気がした。俺たちの間には、言葉にする必要のない、確認だけがあった。
二つ目の打球は、もっと容赦がなかった。
二番打者が引っ張った打球は、三塁ベースの手前で不規則に跳ねた。土を噛んだ回転が、生き物のように暴れる。俺は低い姿勢のまま、グラブを地面へ這わせた。指先に伝わる衝撃は、朝のノックで何度も浴びたものより鋭い。少年らしい軽さを失った、ただ固い手つきで捕り、すぐに怜へ送球する。
怜が受ける。
その捕球の指先は、いつもと変わらず無駄がない。ただ、横顔だけが、ほんの少し硬く見えた。
俺はそれを見て、去年の春の大会を思い出した。あの日も、怜はこんな顔をしていた。失点が続き、ベンチの声が途切れ、誰も何も言えなくなった回。蒼だけが、マウンドへ駆け寄って、何でもない顔で言った。
——怜、今の球、俺なら絶対打てない。
意味のない慰めだった。怜はそのとき「お前の目は節穴か」とだけ返し、それでも次の打者を三振に取った。蒼の軽口は、言葉の中身より、言ったという事実のほうが、場の温度を変えていた。
今日、その軽口を言える者はいない。
俺は代わりに、低く短く声を出した。
「怜、ナイスボール」
自分の声が、思ったより固く聞こえた。蒼のように肩の力を抜いた響きにはならない。それでも、声を出さずにいることより、ましだった。
怜は一度だけこちらを見た。何かを言いかけ、結局、黙ったままグラブを構え直す。だが投球の間合いが、わずかに整えられたのが分かった。言葉にならない連携が、確かにそこにあった。
三回の攻撃が終わり、ベンチへ戻る途中、西尾が隣に並んだ。
「さっきの送球、危なかったな」
「分かってる」
「怒ってんのか」
「怒ってない」
西尾はそれ以上言わず、ヘルメットを脱いでベンチへ座った。俺もその隣に腰を下ろす。視線の先、ベンチの端には何も置かれていない。背番号十八は、今朝のうちに自分の鞄へしまい直していた。ベンチの選手たちの邪魔にならないようにと、小野寺先生に言われたわけでもないのに、自分でそう決めた。
見ないふりで埋めるのではなく、見える場所から、見えすぎない場所へ移す。それが今の俺にできる、もうひとつの選び方だった。
中盤、相手打線に流れが傾きかけた。
四回表、先頭打者に対する怜の球が、珍しく高めに浮いた。ボール先行のカウントから粘られ、フルカウントの末に四球を出す。続く打者にも初球を弾き返され、無死一二塁。ベンチの空気が、音もなく重くなった。
マウンド上の怜は、顔色を変えない。けれど、グラブを握り直す指先が、いつもよりわずかに強い。
俺は三塁から、短く声を出した。
「一球ずつでいい」
長い言葉にはならなかった。蒼のように、場の空気を軽くする冗談も浮かばない。それでも、できないなりに声を出す。怜はそれを一度だけ聞き、小さく頷いた。投球間隔が、わずかに整え直される。
次の打者の打球は、三塁線へ強く引っ張られた。
俺は今度、迷わなかった。打球を見る。今いる走者を見る。今いる一塁手の構えを見る。蒼ならどうするか、という問いは、もう浮かばなかった。
土を蹴る。グラブを差し出す。捕球の衝撃が、手首から肩へ抜ける。身体を半回転させながら、三塁ベースを踏む。フォースアウト。続けて一塁へ送球し、ダブルプレーが決まった。
ベンチから声が上がる。西尾が両手を叩き、二年生たちが立ち上がる。怜はマウンドで小さく息を吐いた。表情は変わらない。だが、その呼吸のひとつに、張りつめていたものがわずかにほどける気配があった。
勝利のための合理性と、失ったものを抱えたまま動く責任。そのふたつが、今、同じ一本の線の上に並んでいる気がした。
ベンチに戻る途中、怜と肩が並んだ。
「さっきの、迷わなかったな」
「迷った。でも、動いた」
「それでいい」
それだけだった。長い言葉を交わしたわけではない。けれど、怜の声には、昨日までの刃物のような鋭さとは違う、何か別のものが混じっていた。
河川敷の向こうで、灰色の雲がゆっくりと厚みを増していく。夕立にはまだ早い。だが、湿った風の匂いが、確かに変わり始めていた。
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