第7話 ベンチに置く

大会当日の朝、河川敷球場にはまだ薄い霧が残っていた。
夜半に降った雨が土の中へ沈みきらず、グラウンドの表面を黒く湿らせている。スパイクを踏み入れるたび、乾いた音ではなく、低く重たい音が返ってきた。靴底にまとわりついた砂が、歩くたびにわずかに剥がれる。
川の向こうから風が吹いていた。
冷たくはない。夏の朝にしてはぬるく、湿り気を含んでいる。頬を撫でるというより、眠っている身体の奥へ入り込んでくるような風だった。
俺は誰もいないベンチの端に、真壁蒼のユニフォームを置いた。
背番号十八が見えるように、白い布を広げる。けれど、畳み方はひどく雑になった。蒼がよくやっていた、片方の袖だけを外へ出した折り方を真似しようとして、途中で止めた。俺がやると、ただの乱れにしか見えない。
ポケットから、春の大会のメモを取り出す。
何度も折られた紙は、指先の汗を吸って柔らかくなっていた。蒼の字で、短く書かれている。
守備は最後まで目を切るな。
昨夜、家で作ったメッセージは、結局送れなかった。
画面を開いて、何度も読み返した。言葉が足りない気がして、足すたびに余計なものが混ざった。謝罪なのか、言い訳なのか、自分でも分からなくなったところで、送信画面を閉じた。
逃げたわけではない、と自分に言い聞かせた。
ただ、今日の朝まで持ってきた。
それだけだった。
ベンチの木は、夜の湿りをまだ抱えていた。腰を下ろすと、ズボン越しに冷たさが伝わってくる。俺は三塁用のグラブを膝に置き、紐を一度だけ結び直した。
一度だけ。
何度やっても、落ち着くわけではない。結び目が固くても、明日の打球を防げるわけではない。指先を動かしている間だけ、胸の奥から別のものへ意識を逃がせるだけだと、もう分かっていた。
それでも、結び目を確かめる。
固い。
外れない。
俺は十八番へ目を戻した。
このユニフォームを、蒼は何度着ただろう。洗って、汗を吸わせ、土をつけて、また洗った。背中の数字は擦れているのに、布にはまだ身体の形のようなものが残っている気がする。
もちろん、そんなものが残るはずはない。
残っているのは、俺の記憶だ。
蒼が守備練習のあと、ユニフォームの裾を引っ張って風を入れていたこと。冷えたスポーツドリンクを喉を鳴らして飲み、「今の音、勝利」と勝手に決めていたこと。俺が笑わないと、わざと大げさに肩を落としてみせたこと。
くだらないことばかりだった。
けれど、俺の中に残っている蒼は、そういうくだらない時間の中で一番鮮明だった。
グラウンドの向こうで、ボールケースの蓋が閉じる音がした。
桐山怜が、いつもの順番で道具を並べている。ボール、タオル、グラブ。どれも決めた位置から動かさない。指先の状態を確かめ、肩を回し、マウンドへ向かう。
「早いな」
俺が声をかけるまでに、一拍遅れた。
怜は振り向かなかった。
「お前が遅い」
「集合には間に合ってる」
「来た時間じゃない」
怜はボールを一個拾い上げ、指先で縫い目をなぞった。
「決める時間が遅い」
十八番へ向けていた視線を、俺は怜へ戻した。
「決めた」
「何を」
「これを置くこと」
「置くだけか」
「それ以上は、まだ決めてない」
怜はボールを握り込んだ。白い革が、指の間でわずかに軋む。
「それを置いて、真壁の代わりにするつもりなら、外せ」
「代わりにはしない」
「なら、何のために置く」
俺はすぐに答えられなかった。
ユニフォームを置けば、蒼が戻ってくるわけではない。背番号十八がベンチにあっても、内野の声がひとつ増えるわけではない。蒼が守っていた遊撃の位置は、今は別の選手が守る。明日の試合ではなく、今日の試合でも、打球は俺の前へ来る。
それでも、ロッカーの奥へ戻すことはできなかった。
「預かったまま、終わらせたくない」
ようやく言うと、怜は俺を見た。
「何を」
「ユニフォームも。約束も。あの日、言えなかったことも」
「置けば終わるのか」
「終わらない」
「なら、置く意味はない」
怜の言葉は冷たかった。けれど、昨日までのように腹は立たなかった。怜は何かを壊したいのではなく、俺が形だけの答えを選ばないようにしている。そう思えた。
「意味を作るために置くんじゃない」
俺は十八の数字へ目を向けた。
「俺が見たままにしておくためだ。蒼がいないことを、なかったことにしない。いないのにいるふりもしない。空いている場所は、空いたまま置く」
怜は黙った。
風がベンチの下を通り抜け、ユニフォームの袖を揺らした。背番号十八の輪郭が、朝の霧の中でぼやける。
「それで、動けるのか」
「分からない」
「分からないまま立つのか」
「それしかない」
怜は、わずかに顎を引いた。
「なら、打球が来たときに迷うな」
「迷わないなんて無理だ」
「迷ってもいい。遅れるな」
俺は怜の顔を見た。
相変わらず、感情の読めない顔だった。けれど、その目の奥には、昨日よりわずかに深いものがある気がした。怜もまた、感情を捨てたわけではない。捨てたふりをして、投球の形に押し込んでいるだけなのかもしれない。
「怜」
「何だ」
「俺が今日、変な守備をしたら」
「いつも変だ」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
「……見ていてくれ」
言ってから、何を頼んでいるのか分からなくなった。
怜は少しだけ間を置いた。
「見る」
「最後まで?」
「守備は最後まで目を切るな、だろ」
怜の口からその言葉が出たことに、胸が詰まった。
蒼の字を、怜が知っている。蒼の残した一行を、怜もまた見てきた。俺だけの記憶ではなかった。部室の壁に貼られた紙は、蒼がいなくなったあとも、誰かの視界に入り続けていた。
「笑わないんだな」
俺が言うと、怜は眉を寄せた。
「何が」
「蒼なら、今の言い方を聞いて絶対笑う」
「いない奴の真似はしない」
「でも、知ってるだろ。あいつなら、もっと軽く言う」
「軽く言う必要があるのか」
「蒼は必要だと思ってた」
「俺は思わない」
怜はそう言ってから、マウンドへ向かいかけた。数歩進んだところで足を止め、こちらを見ずに続ける。
「ただ、重く言えば伝わるとも思ってない」
その言葉に、蒼の姿が一瞬だけ浮かんだ。
大事なことほど、冗談めかして言う。笑って誤魔化しながら、相手の顔だけは見ている。俺が怒っているときも、寂しがっているときも、蒼は先に笑っていた。
俺はその笑いを、軽さだと思っていた。
今なら少しだけ分かる。蒼は、重さを知らなかったのではない。重さをそのまま相手へ渡さないようにしていたのだ。
怜がマウンドへ歩いていく。
俺はベンチの背番号十八に触れた。布は乾いている。けれど、指先に土のざらつきが残った。ポケットの奥のメモを、ユニフォームへ戻す。
紙は、背番号の裏側へ滑り込んだ。
見えない場所に戻すのではない。ここにあると分かる場所へしまう。
その違いを、俺はようやく覚え始めていた。
小野寺先生が、球場の入り口から歩いてきた。
選手たちの足元を順番に見ている。誰が浮ついているか、誰が身体を固めているか、歩幅とスパイクの音だけで確かめているようだった。
先生は俺の前を通り過ぎた。
ユニフォームにも、俺にも、何も言わない。
ただ、ベンチの端に置かれていた俺のヘルメットを手に取り、十八番の隣へ移した。背番号を隠さない位置だった。
それから、霧の残るグラウンドへ視線を向けた。
「今日の風は、昼に変わる」
「はい」
「三塁線の打球も変わる」
「はい」
「気持ちで位置を決めるな」
「分かっています」
先生は俺を見た。
「分かっている顔ではない」
返す言葉がなかった。
先生は、十八番を見た。長くは見なかった。けれど、その一瞬の視線に、ユニフォームをここへ置いたことも、置かれたままにすることも、全部含まれているようだった。
「邪魔なら片づけろ」
「邪魔ではありません」
「なら、試合中は見るな」
胸がわずかに揺れた。
「見てはいけないんですか」
「見るのは構わん。打球を見失わないならな」
先生はそれだけ言って、グラウンドへ向かった。
答えは、やはり渡されなかった。
見るなと言われたわけではない。見ろと言われたわけでもない。どちらを選ぶかは、俺の足と目に任されている。
ベンチの木へ手をつく。湿った冷たさが掌へ移る。
俺は立ち上がった。
朝の霧は、少しずつ薄くなっていた。河川敷の向こうにある山の輪郭が見え始め、空の白さに淡い青が混じっている。まだ太陽は低いのに、グラウンドの土だけは先に光を受けていた。
選手たちが集まり始める。
西尾がバットを抱えて走ってきた。俺の隣で足を止め、ベンチの十八番を見る。何か言おうとして、いつものように一拍遅れた。
「……置くんだな」
「うん」
「試合中、踏まれるぞ」
「踏ませない」
「蒼なら、たぶん自分で踏む」
「それは、あいつが雑だっただけだ」
「そういうことにしておくか」
西尾は笑った。笑い声は短かったが、部室で聞いたものより自然だった。
「なあ、朝倉」
「何」
「真壁に、連絡したのか」
「まだ」
「そうか」
「送るかもしれない」
「返事が来たら?」
俺は十八番へ目を落とした。
「読む」
「来なかったら?」
「それも、読む」
「来なかった返事を?」
「……分からない」
西尾はそれ以上、聞かなかった。蒼なら、そこで何かくだらないことを言っただろう。けれど西尾は蒼ではない。西尾なりに、言葉を置く場所を選んでいる。
「じゃあ、俺は先にアップ行く」
「うん」
「蓮」
「何」
「今日、三塁線に打球が来たら」
西尾はそこで言葉を止めた。俺の顔を見て、少しだけ笑う。
「ちゃんと捕れよ」
「当たり前だ」
「真壁みたいに?」
胸の奥が、ひどく狭くなった。
西尾はすぐに首を振った。
「悪い。そういう意味じゃない」
「分かってる」
「俺も、うまく言えない」
「俺も」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
以前なら、俺はそこで黙って終わらせていた。けれど今日は、その沈黙を残したままにしたくなかった。
「蒼みたいには捕れない」
「うん」
「でも、俺の捕り方で捕る」
西尾は頷いた。
「それでいいだろ」
西尾がグラウンドへ走っていく。
俺はその背中を見送った。風に乗って、部員たちの声が重なっていく。名前を呼ぶ声、靴紐を締める音、ボールがグラブへ収まる音。まだ試合は始まっていない。けれど、時間はもう動き出していた。
ベンチの背番号十八へ、最後に一度だけ目を向ける。
白い布の上で、赤い数字が霧の向こうから浮かび上がっていた。擦れた輪郭も、糸のほつれも、土の匂いも、全部そのままだ。
空席は空席のままだった。
蒼の場所を埋める選手はいない。俺がそこへ自分を押し込む必要もない。いないものを無理にいることにすれば、きっとまた、目の前の一球を失う。
俺はグラブを左手にはめた。
土へ向かって歩く。
スパイクの先で、守備位置を二度ならす。一度目は足場を作るため。二度目は、ここに立つ自分を確かめるため。
胸の奥に、蒼の名前が浮かんだ。
蒼。
返事はない。
それでも、俺は名前を呼んだあとで、動作を止めなかった。
ベンチの背番号を置いていく。
置き去りにするのではない。
見える場所に残して、自分はグラウンドへ出る。
遠くで、照明塔の試験点灯が始まった。朝の光に混じって、白い照明が一本、霧の中へ伸びる。まだ必要のない明かりだった。けれど、光を受けた霧の粒が細かく浮かび上がり、球場全体が薄い銀色に縁取られていく。
ナイターの白い光の下で、背番号十八が浮かんでいた。
夏の終わりは、まだ来ていない。
けれど、俺たちの時間は、もう終わりへ向かって走り始めている。
俺はグラブを握った。
何を守るために、ここに立つのか。
蒼の代わりではない。
勝つためだけでもない。
失ったものを抱えたまま、それでも今いる仲間と、今来る打球を見失わないためだ。
空席を見ないふりで埋めるのではなく、空席ごと連れていく。
その重さを、今日の足で運ぶ。
ベンチの端に残した背番号十八を、もう一度だけ振り返った。
そして俺は、グラウンドへ出た。
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