第6話 半歩の修正

午後の練習が始まるころには、雲がさらに低くなっていた。

河川敷の向こうに見える山の稜線が、白い空へ溶けている。風は朝より湿り、グラウンドの端に残った水たまりを細かく震わせていた。照明塔の足元では、昨夜の雨を吸った土がまだ黒い。スパイクで踏むと、乾いた表面の下から柔らかい土が押し返してくる。

午前のノックでついた膝の汚れを、俺は払わないまま守備位置へ入った。

ベンチの上には、蒼のユニフォームがある。

背番号十八を見ないようにしようとすると、かえってそこへ視線が戻った。布は朝から同じ場所に置かれている。風が吹くたび、片方の袖だけがわずかに動く。そのたびに、誰かが座ったまま足を揺らしているように見えた。

小野寺先生は、ノックバットを持って三塁側のファウルラインに立っていた。

俺が守備位置につくと、先生は打席の方を見たまま言った。

「朝倉。残れ」

他の部員たちが一斉に振り返った。

「またかよ」と言いかけた二年の倉田が、口を閉じる。西尾はボールケースを持ったまま、何か言う代わりに肩をすくめた。誰も笑わない。先生に呼び止められた選手が、すぐに戻れるとは限らないことを、皆知っている。

俺はグラブを握り直した。

「はい」

「他は外野ノック。怜はブルペン」

「俺だけですか」

「お前だけだ」

先生はそれ以上説明しなかった。

部員たちが散っていく。スパイクが土を削り、掛け声が少しずつ遠ざかる。怜はブルペンへ向かう途中でこちらを見たが、何も言わなかった。午前の言葉がまだ身体のどこかに残っている。持ったまま動け。残したものを理由に判断を遅らせるな。

先生が三塁線の手前へボールを置いた。

「打球の起点を変える」

「起点?」

「同じ位置からしか見ていない。打者の立ち位置、バットの出方、音。そこから読む」

先生は俺の正面へ歩いてきた。足元を見ている。いつものように、まず足を見る。

「送るまでを考えろ」

言葉の意味を考えているうちに、先生のバットが鳴った。

ボールが三塁線へ転がる。

俺は前へ出た。捕球し、右足を踏み替え、一塁へ送る。動作は乱れていなかった。送球も一塁手の胸へ収まる。

「次」

先生はすぐに二球目を打った。

今度は三塁ベースの手前で跳ね、打球がわずかに右へ逃げる。俺はグラブを伸ばして止め、立ち上がる。送球の角度が悪い。身体を開きすぎたまま投げると、ボールが一塁線の外へ抜ける。送るより、まず踏み直す。

一瞬、迷った。

そのわずかな間に、先生が言った。

「遅い」

俺は送球した。ボールは一塁手の左肩へ外れた。西尾が走って拾いに行く。

「もう一度」

先生は、怒鳴らなかった。

怒鳴られた方が楽だった。理由を声の大きさに預けられる。俺が悪い、先生が厳しい、それで話を終わらせることができる。だが先生はいつも、そういう逃げ道を作らない。

「打球が跳ねる前に、もう送球の形を決めていた」

「決めていたら、何が悪いんですか」

「打球を見ていない」

「見ました」

「見た後に、自分の決めた形へ戻そうとした」

先生の言葉が、土に打ち込まれた杭のように残った。

「俺は、捕ってから考えています」

「違う。捕る前から、蒼ならどう送るかを考えている」

胸の奥が固くなった。

先生が蒼の名前を口にしたのは、転校以来、初めてだった。

風が河川敷から吹き上がり、ユニフォームの袖を揺らした。ベンチの上の背番号十八が、視界の隅で白く動く。

「……蒼なら、どうするかなんて考えてません」

「嘘はいい」

「考えてない」

「なら、なぜ遊撃の位置を見る」

言葉が止まった。

三塁線への打球を待つとき、俺は無意識に二遊間を見る。蒼がいた頃、そこには必ず蒼がいた。打者の構えを見て、二歩だけ深くなる。俺が前へ出る気配を感じると、蒼は半歩だけ三遊間へ寄る。互いに声を出さなくても、次の打球を予測していた。

今は、そこに誰かがいる。

だが蒼ではない。

それでも俺は、返ってくるはずの視線を探してしまう。

「遊撃を見るのは、連携の確認です」

「誰と連携する」

「今の遊撃手と」

「なら、今いる選手を見ろ」

俺は言い返せなかった。

先生はバットを肩へ載せたまま、俺を見ていた。目つきは厳しい。けれど責めているわけではない。自分がどこを見ているのか、俺自身に見せようとしている。

「お前は打球の先に、いない選手を置いている。だから一歩目が遅れる。見えないものに合わせている間に、来ている球を逃す」

「蒼を忘れろってことですか」

「忘れろとは言っていない」

「怜にも同じことを言われました。忘れなくていい、でも持ったまま動けって。そんな簡単にできるなら、最初から困ってません」

「簡単だとは言っていない」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

先生はすぐに答えなかった。

遠くで、外野ノックの打球音がした。カン、と乾いた音が一度響き、風にほどけていく。湿った空気の中では、音だけが妙に鮮明だった。

「三塁に立つ」

「立っています」

「立って、打球を待つ」

「待っています」

「蒼を待つな」

その一言が、身体の奥へ沈んだ。

「……俺は、蒼を待ってるんですか」

「待っていないなら、何を探している」

答えが出なかった。

蒼が戻るとは思っていない。転校先の学校で野球を続けていることも、もう知っている。俺の前に突然現れて、去年の続きを始めるはずがないことくらい分かっている。

それでも、守備位置へ入るたび、俺は蒼がいた頃の呼吸を探した。右隣から聞こえる声。打球の速さに合わせて変わる足音。ミスをした直後、背中を二度叩かれる感触。

それらが戻らないことを確かめるために、俺は毎日、同じ場所を見ていた。

「俺は、蒼がいないことを確認してるんだと思います」

口にすると、ひどく妙な言い方だった。

「いないって分かってるのに、毎回見る。いないことを見て、それから動こうとしてる。だから遅れる」

先生は頷かなかった。否定もしなかった。

「なら、見る場所を変えろ」

「どこへ」

「打球の起点。走者の足。風。味方の位置。今いるものを見ろ」

先生はボールを一個、指先で転がした。

「いないものを見ないのは、忘れることじゃない。今いるものを見落とさないことだ」

それは、蒼のメモに書かれた言葉とよく似ていた。

守備は最後まで目を切るな。

俺はこれまで、その言葉を「過去から目を逸らすな」という意味に変えていた。だが、最後まで目を切らないというのは、目の前の一球を見続けることでもある。過去を見ているうちに、現在の打球を失えば、蒼が残した言葉さえ裏切る。

「次」

先生がバットを構えた。

俺は足で土を二度ならした。スパイクの裏から湿った砂が押し返してくる。ベンチの十八番を見ないようにした。見ないことにしたのではない。今は、打席に立つ倉田の足元を見る。

右足が少し開いている。

バットの握りが浅い。

ノックの打球が低くなる。

先生が打った。

打球は三塁線ではなく、三塁ベースの後ろへ大きく跳ねた。回転が外へ逃げる。前へ出るべきか、待つべきか。走者はいない。打球を身体の正面へ入れれば、送球の角度は作れる。

俺は一歩、前へ出た。

半歩。

それからもう半歩。

グラブの先で打球を押さえ、身体を起こす。右足を土へ置いた瞬間、遠くの遊撃手が動いた。今いる選手が、二塁方向へカバーに入っている。俺はその動きを見てから、一塁へ送った。

今度は、迷わなかった。

ボールが一塁手の胸へ収まる。

「もう一度」

先生の声は変わらない。

褒められないことに、少しだけ腹が立った。けれど、その腹立ちは、午前までのものとは違った。自分の動きを認めてほしいという甘えではなく、次の打球も捕りたいという焦りだった。

「先生」

「何だ」

「今のは、合ってましたか」

「何が」

「判断」

「結果は捕った」

「結果じゃなくて」

先生はバットを下ろした。

「お前は、結果だけで自分を決めるなと言っていたな」

怜の言葉を思い出した。先生はそれを知っているはずがないのに、同じ場所へ触れてくる。

「捕ったから正しい、捕れなかったから間違い。それだけで守備を考えるな。見るべきものを見て、決めて、動いたか。そこを自分で確かめろ」

「それで、間違っていたら」

「次に直す」

「また同じことを言うんですね」

「同じことしか言っていない」

先生は淡々としていた。

「野球は、一度の正解で終わらない。打者が変われば起点も変わる。風が変われば打球も変わる。味方の足が遅れれば、送球の選択も変わる。昨日の正解を今日へ持ってきて、そのまま使えると思うな」

蒼と守っていた頃、俺たちはそうしていた。

蒼は毎打者ごとに守備位置を変えた。俺が「そこまで動く必要あるか」と言うと、蒼はボールを指先で回しながら答えた。

「同じ打者でも、同じ気分で打つとは限らないだろ。昨日の蒼と今日の蒼が違うなら、打者だって違う」

「お前の気分の話にするな」

「気分は大事だよ。重い日に重い打球を打つやつもいる」

「野球を占いにするな」

「占いじゃない。観察」

蒼はそう言って、俺の肩を軽く叩いた。

「蓮は見えてるのに、見たものを信じるまでが遅いんだよ」

今なら分かる。

俺は打球を見ていないわけではない。見たものを、過去の基準に照らし合わせすぎていた。蒼がいた頃の打球。蒼なら選ぶ送球。蒼と組んだときの間合い。目の前に来たものを、すべて過去の形へ戻そうとしていた。

だから、一歩目が遅れた。

「続けます」

俺が言うと、先生は短く頷いた。

ノックが続いた。

浅い打球。三塁線へ切れる打球。バントのように力なく転がる打球。ベース際で跳ね、二塁方向へ逃げる打球。先生は同じ場所から、同じ強さで打たなかった。俺の足が止まりかけるたび、打球は少しだけ違う顔を見せた。

一球捕る。

送る。

戻る。

次の一球で遅れる。

また捕る。

自分の足音と、ボールがグラブへ収まる音だけが、午後のグラウンドに残った。身体は汗で重くなり、ユニフォームが肌へ貼りつく。土が膝から脛へ広がり、汗と混ざって冷たい筋になった。

それでも、足は少しずつ動いた。

うまくいかない時、俺はいつも身体を固めた。失敗しないように、捕球の形を崩さないように、送球の角度を間違えないように。けれど、守備は形を守ることではなく、形を変え続けることだった。

蒼がいた頃、あいつはそれを知っていた。

だから守備の途中でも笑えた。次の打球がどこへ来るか分からないからこそ、決めつけずにいられた。

俺は、決めつけないことを、責任を放棄することだと思っていた。

違った。

目の前のものを見て、そのたびに選び直す。それが責任だった。

最後の打球が、三塁線へ鋭く転がった。

俺は反応した。身体が先に出た。グラブを伸ばし、土へ倒れ込む。打球は芯に収まらず、薬指の付け根へ当たって跳ねた。

痛みが走る。

それでも右手で拾い、体勢を崩したまま一塁へ送った。

ボールは低く伸び、一塁手の前で一度弾んだ。彼が身体を落として捕る。

アウト。

遠くから誰かの声が上がった。

俺は土の上に片膝をついたまま、息を吐いた。肺の中に湿った空気が入り、喉の奥が焼ける。手のひらを開くと、薬指の付け根が赤くなっていた。

先生は近づいてこなかった。

「立てるか」

「立てます」

「なら戻れ」

「はい」

俺は立ち上がった。

ベンチの上で、蒼のユニフォームの袖が風に揺れていた。背番号十八は、午後の白い光の中で薄く滲んでいる。俺はそこへ一度だけ目を向けた。

蒼なら、今の捕球をどう言うだろう。

たぶん、「痛そう。今のは俺なら華麗に捕ってた」と言う。俺が「じゃあ今ここでやれ」と返すと、蒼は「いない選手に無茶を言うなよ」と笑う。

その声は、記憶の中で少し遠かった。

遠いままでも、消えてはいなかった。

俺はグラブの中でボールを握った。革の匂いと、濡れた土の匂いが混ざる。指先に残った痛みを確かめるように、縫い目をなぞった。

小野寺先生がノックバットを片づけている。

「先生」

「何だ」

「さっきの最後の打球」

「捕った」

「はい」

「送った」

「はい」

「なら終わりだ」

「でも、痛かったです」

「そうか」

先生はバットをケースへ入れた。

「痛みは、次の球まで持っていけ」

「持っていくんですか」

「置いていく場所がない」

その言葉に、俺は少しだけ息を止めた。

蒼のユニフォームも、言えなかった謝罪も、痛みも、置いていく場所がない。だから持ったまま動くしかない。けれど、持つことと、足を止めることは同じではない。

「蒼のことも?」

聞くと、先生はすぐには答えなかった。

「それは、お前が決めろ」

「またですか」

「自分で決めることは、何度でもある」

先生はケースの蓋を閉めた。金具が乾いた音を立てる。

「ただし、決めたことを毎球、疑うな。疑うなら、次の打球が来る前に済ませろ」

俺は頷いた。

グラウンドの向こうでは、怜の投球練習が続いていた。捕手のミットが鳴る。白球が湿った空気を切り、短い音を残して消える。

俺は守備位置へ戻った。

朝と同じ場所だ。三塁線の先に、河川敷の夏草が見える。白い雲がさらに重くなり、照明塔の上部が霞んでいる。夕立はまだ来ていない。けれど、風の匂いが変わった。雨の前の、土が息をひそめるような匂いだった。

スパイクの先で、土を二度ならす。

一度目は、足場を作るため。

二度目は、そこに立つ自分を確かめるため。

ベンチの背番号十八から、俺は目を切った。

見ないためではない。

今、来る打球を見失わないために。

先生が最後の一球を打った。

打球は三塁線の内側、ベースの手前で大きく跳ねた。俺は前へ出る。半歩。さらに半歩。身体が勝手に止まりそうになる前に、足を出し切る。

グラブへ収まったボールの重みが、手のひらを押した。

俺は一塁へ送った。

送球が届くまでのわずかな時間、蒼の名前が胸の奥に浮かんだ。

蒼。

それでも、俺はその名前を追いかけなかった。

打球を捕ったのは、俺の手だ。

足を出したのも、俺だ。

蒼の不在を抱えたまま、それでも今の一球を選んだのは、俺の判断だった。

ボールが一塁手のミットへ収まる。

乾いた音がした。

夕立前の風が、グラウンドを横切っていく。汗で肌に貼りついたユニフォームが冷え、土の粉が首筋へまとわりつく。痛みは消えていない。胸の奥の空白も、埋まってはいない。

けれど、その空白へ自分を詰め込まなくても、俺は立っていられた。

半歩だけ前へ出る。

その半歩が、今の俺にできる全部だった。

← 横にスクロールして読み進められます