第5話 合理性の刃

午前の練習が終わるころ、空は白く厚く曇っていた。

練習前は薄い水色だった空が、いつの間にか灰色がかった雲で埋め尽くされている。河川敷の向こうから、湿った風が吹いてくる。堤防の斜面に茂った夏草が、その風を受けて一斉にざわめいた。音は低く、長く、まるで遠くで何かが呼吸しているようだった。

蒸し暑い空気のなかで、俺はグラブを両手に持ったまま、ベンチの端に腰を下ろしていた。

蒼のユニフォームは、昨夜からそこにある。朝の光が薄く差し込んでいたときより、今は曇り空の下で、背番号十八の赤い縁がくすんで見えた。それでも、消えていない。俺は何度も目をやり、そのたびに視線を戻した。

グラウンドでは、二年生たちがまだ声を出している。倉田がバットを片付けながら、誰かと笑い合っていた。その笑い声は、こちらまで届くには少し遠すぎた。

汗が額から流れ、顎の先で止まり、やがて落ちた。ユニフォームの背中が肌に貼りつき、湿った布の重さが肩にのしかかる。それは不快であると同時に、どこか懐かしい感触でもあった。蒼もこうして、練習が終わるたびに、肩を回しながら布を引っ張って風を通していた。

足音が近づいてきた。

振り返らなくても分かる。歩幅が一定で、無駄がない。桐山怜だった。

怜はタオルを首にかけたまま、俺の前に立った。汗で前髪が額に張りつき、目だけがいつも通り冷えている。マウンドで投げているときと同じ目だった。試合中も、練習中も、怜の目の温度は変わらない。

「思い出で勝てるなら苦労しない」

短い言葉だった。

けれど、その短さがかえって、刃物のように鋭く、逃げ場のない角度から胸に入ってきた。俺は何か返そうとした。言葉を探した。だが、喉の奥で止まったまま、結局、息を飲み込んだだけだった。

怜は続けない。

続けないからこそ、その一言がそのまま、俺の中に残った。勝つために要らないものは切る。怜は本気でそう思っている。感傷を持ち込めば、試合は鈍る。甘さは守備を崩し、投球の間隔を乱す。俺の迷いを、怜は「余計なもの」として扱う。その冷たさは痛いのに、完全には否定できなかった。

否定できないことが、何より悔しかった。

「……それだけか」

やっと出た言葉は、情けないくらい弱かった。

怜はタオルの端を指で摘んだまま、俺を見た。

「それだけで足りないなら、お前はまだ何か言ってほしいのか」

「そうじゃない」

「じゃあ何だ」

俺は口を閉じた。何だと聞かれて、答えられる言葉を持っていなかった。

怜は小さく息を吐いた。怒っているわけではない。呆れているわけでもない。ただ、事実を確認するような、淡々とした仕草だった。

「お前は、俺に反論してほしいんだろう。思い出を軽く扱うなとか、人の気持ちが分からないのかとか、そういう言葉を待ってる。そうすれば、お前は自分の迷いを、俺の冷たさのせいにできる」

図星だった。

図星を突かれて、何も言えなくなった。

怜の横顔は、汗で濡れても揺れなかった。感情の起伏というものが、そもそも存在しないみたいに見える。けれど、俺にはわかる気がした。あの短い言葉は、ただ俺を切り捨てたいからではない。勝つための現実を、言い逃れなしで渡そうとしている。そうでなければ、怜はもっと無言で済ませたはずだ。何も言わず、ただ背を向けて、マウンドへ戻ればよかった。

それをしなかったということは。

「お前、わざわざ俺に言いに来たのか」

俺が聞くと、怜は一瞬だけ視線を逸らした。ほんの一瞬だった。見逃していたら気づかなかったくらいの、わずかな動きだった。

「言わなきゃ、お前はこのまま三塁に立つ」

「立つだけじゃだめなのか」

「立つだけで試合に勝てるなら、俺は何も言わない」

怜はそこで言葉を切った。

河川敷の向こうで、鳥が低く鳴いて飛び立った。湿った風が、二人の間を通り抜けていく。

「お前の一歩目が遅れるたび、俺は投げにくくなる。内角を突く球を投げるとき、三塁線を抜かれるかもしれないと思ったら、腕が振り切れない。お前の迷いは、お前だけのものじゃない。グラウンドに出た瞬間、それは全員のものになる」

その言葉には、怒りではなく、もっと冷静な恐れのようなものが滲んでいた。

怜が本当に恐れているのは、俺の迷いそのものではない。迷いが生む、取り返しのつかない一瞬だ。打球が抜ける一瞬、送球が逸れる一瞬、声が遅れる一瞬。野球というのは、そういう一瞬の積み重ねでできている。怜はそれを、誰よりも知っている。

「俺だって、埋めたくて埋めてるわけじゃない」

言葉が、絞り出すように出た。

「蒼がいなくなって、内野の声が減った。二遊間の確認も遅れた。お前だって、投げにくくなっただろ」

「なった」

怜は即答した。

「だったら、俺が埋めるしかないだろ」

「埋まらない」

短く、迷いのない否定だった。

「分かってるよ、そんなこと」

「分かってない」

怜の声が、わずかに低くなった。

「空いた場所は、空いたままだ。誰かが同じ形で立てるわけじゃない。お前が三塁で声を出しても、真壁の遊撃にはならない。俺が完璧に投げても、去年の内野には戻らない。それでも試合は来る。明日も、来年も、来る。真壁が戻ってこない限り、その事実は変わらない」

俺は唇を噛んだ。

「じゃあ、どうしろって言うんだよ」

「どうもしなくていい」

「意味が分からない」

「埋めようとするな、と言ってる」

怜はそこで初めて、タオルを首から外した。畳みもせず、無造作にベンチへ置く。いつもきっちりと道具を扱う怜にしては、珍しい仕草だった。

「お前は、真壁がいなくなった穴を、自分の失敗で証明したくないだけだ。ミスをしないことで、あいつがいなくなっても何も変わらなかったと、自分に言い聞かせたいだけだ」

「違う」

反射的に否定した。けれど、声に力がなかった。

「違わない」

怜は俺を見据えたまま、続けた。

「お前のその完璧主義は、チームのためじゃない。自分のためだ。ミスをすれば、真壁がいなくなったせいにされる。ミスをしなければ、真壁がいなくても大丈夫だったことになる。お前は、どっちの結果が怖いんだ」

答えられなかった。

どちらも怖い。どちらも、正しくない気がした。

ミスをすれば、やっぱり蒼がいないせいだと言われる。それは蒼を、欠けたものとして扱うことになる。ミスをしなければ、蒼がいなくても変わらなかったことになる。それは、蒼がいたことそのものを、軽く扱うことになる。

どちらを選んでも、俺は蒼を裏切る気がしていた。

「お前は、何も考えずに投げられるのか」

やっと、俺はそれだけを聞いた。

怜の指が、畳んでいないタオルの端をつまんだ。

「考えている」

「蒼のことを切り捨てて?」

「切り捨てたつもりはない」

「でも、そういう顔をしてる」

「顔で投げてない」

「じゃあ何で投げてる」

「球で」

怜は即答した。けれど、すぐには視線を外さなかった。曇り空の白さが、怜の頬の汗を鈍く光らせている。

「感情を消してるわけじゃない。試合中に使える形へ変えてるだけだ。怒りでも、怖さでも、悔しさでもいい。握った球に乗せられるなら使う。乗せられないなら捨てる。お前は何でも抱えたまま、足元へ置いている。だから一歩目が遅れる」

俺は返す言葉を探した。見つからなかった。

怜はさらに続けた。

「思い出を持っていることが悪いんじゃない。持ったまま動けないことが悪い。明日、俺が投げる。お前が守る。真壁がいようがいまいが、打球は来る。そこで遅れたら、俺たちは負ける」

「蒼を忘れて勝てってことか」

「忘れろとは言ってない」

「同じだろ」

「違う」

怜の声が、わずかに強くなった。曇天の下で、その声だけが妙にはっきりと響いた。

「忘れる必要がないものまで捨てろとは言ってない。だが、残したものを理由に判断を遅らせるな。真壁がいたらどうするかじゃない。お前ならどうするかを決めろ」

その言葉に、小野寺先生の声が重なった。

——打球が来たときに動くのは、お前の足だ。

二人は違う言葉を使っている。けれど、指しているものは同じだった。

怜はタオルを拾い上げ、今度こそきちんと畳んだ。畳んだタオルを肩にかけ直し、マウンドの方へ向きを変える。数歩進んでから、背中を向けたまま言った。

「次、同じ打球を捕れ」

「命令か」

「確認だ」

「捕れなかったら」

「もう一度やる」

怜は振り返らない。

「試合は、一回失敗したら終わりじゃない。次の球が来る。だから次の球までに立て」

その背中は冷たく見えた。だが、冷たいだけなら、わざわざここまで来て言葉を重ねる必要はなかったはずだ。怜はマウンドから離れることなく、俺の迷いを黙って見ていることもできた。見て見ぬふりをして、自分の投球だけを磨いていくこともできた。それなのに、怜はわざわざ歩いてきて、タオルを外し、俺の前に立った。

その不器用さに、俺はようやく気づいた。

怜が本当に恐れているのは、俺の一歩目の遅れではなく、チーム全体が、蒼の不在を言い訳にして、試合そのものから目を逸らすことだったのかもしれない。

ブルペン脇に戻った怜が、次の瞬間だけ、こちらへ視線を上げた。俺の立ち姿を、確かめるように見ている。見られた、と気づいた途端、足裏の砂がもう一度重くなった気がした。

「わかってる」

言えたのは、それだけだった。

怜は答えず、グラブを鳴らして次の球を受けに向かった。その動作には、迷いというものが一切なかった。無駄のない動き、整えられた呼吸、曇り空の下でも揺るがない姿勢。

蓮はそこに、自分とは違う種類の痛みを見た気がした。

怜は、感情を持たない人間ではない。ただ、感情を握ったまま投げれば、球が割れることを知っている。だから握る前に、形を変える。怒りも、不安も、羨望も、全部、投球という一つの動作に変換して放ってしまう。

それができない俺は、迷いをそのまま足元に置き続け、動くたびにそれを引きずっていた。

ベンチの上の背番号十八に、もう一度目をやる。

畳んだ布の縁が、曇り空の弱い光を受けて白く浮かんでいる。蒼なら、今の怜とのやり取りを見て、何と言っただろう。

——二人とも、言い方が怖いんだよ。

そう言って、間に割って入り、肩を叩きながら空気を軽くしただろうか。それとも、意外と真面目な顔で、「怜の言うこと、半分は当たってるぞ」とだけ言って、あとは何も言わずに守備位置へ戻っただろうか。

どちらの蒼も、今はいない。

想像することしかできない。想像の中の蒼の声は、記憶の底から拾い上げるたびに、少しずつ輪郭がぼやけていく気がした。それが怖かった。忘れることよりも、思い出せなくなることの方が、ずっと怖かった。

遠くで雷が低く鳴った。音は重く、湿った空気の奥から響いてくる。夕立が近い。練習中にも何度か感じた、あの重たい気配が、また胸の奥に下りてくる。

俺はグラブの紐を結び直した。固い結び目を、指先で二度確かめる。

怜の言葉は正しい。正しすぎて、逃げ場がなかった。だが、正しさだけで、俺は立てるようになるわけではない。怜のように、感情を一つの動作に変換する器用さを、俺はまだ持っていない。

それでも、怜は「捨てろ」とは言わなかった。

——残したものを理由に判断を遅らせるな。

持ったまま、動けばいい。捨てる必要はない。ただ、それを言い訳にして、足を止めてはいけない。

分かっているつもりで、まだ何も分かっていなかったことに、俺は気づき始めていた。

マウンドでは、怜が次の投球練習に入っている。白いボールが、曇り空の下で小さく弧を描き、捕手のミットに収まった。乾いた音が、湿った空気の中に短く響いて消える。

俺は立ち上がった。ベンチの背番号十八から目を離さないまま、守備位置へ向かって歩き出す。足の裏に、まだ湿った土の重さが残っている。だが、その重さを言い訳にする気は、もうなかった。

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合理性の刃 - 背番号の残響 - 誰でも作家life