第4話 一拍遅れた朝

夜明けの河川敷球場は、前日の熱をまだ土の底に残していた。
空は薄い灰色だった。雲が川向こうの山際にたまり、朝の光を押し返している。湿った風が堤防を越え、グラウンドの端に置かれた防球ネットをゆっくり膨らませていた。ネットの結び目が、金属の支柱に当たって、かすかな音を立てている。
俺は三塁の守備位置に立ち、スパイクの先で土を二度ならした。
昨夜、眠りは浅かった。
布団に入ってからも、頭の中には部室のベンチが浮かんでいた。暗がりの中で白く残った背番号十八。濡れた雨粒を照明が拾い、数字の縁だけを浮かび上がらせていた。眠りかけるたびに、あの赤い縁取りがまぶたの裏へ戻ってきた。
蒼のユニフォームは、今朝もベンチの上に置いたままだった。
持って帰ることはできなかった。かといって、ロッカーの奥へ戻すこともできなかった。自分で決めると言ったくせに、決められないまま朝になった。
「三塁、前」
小野寺先生の声が飛んだ。
俺は半歩、前へ出た。
打撃ケージの中で、二年の倉田がバットを構えている。まだ身体が起きていないのか、肩を回しながら何度も足元を見ていた。マウンドの前では、怜が投球用のタオルを首にかけ、指先を一本ずつ確かめている。いつも通りの朝だった。
いつも通りのはずなのに、俺の身体だけが、どこか昨日の夜に置き去りになっていた。
「いくぞ」
ノックバットが鳴った。
倉田の打球が、三塁線寄りへ低く転がってくる。
反応は遅くなかった。打球の角度も、回転も見えていた。左足を出せば間に合う。そう判断した瞬間、肩口に見えない手が触れた。
一拍。
ほんの一拍だけ、身体が遅れた。
打球は俺の前でわずかに跳ね、グラブの先をかすめてファウルゾーンへ抜けた。
「もう一回」
小野寺先生は怒鳴らなかった。
俺はボールを拾いに走った。濡れた砂がスパイクの裏で沈み、靴底の縁にまとわりつく。拾い上げたボールは冷たく、縫い目の間に細かな土が詰まっていた。
ベンチの上の十八番が、視界の端に入る。
畳んだ布の上に朝の光が薄くかかり、背番号の擦れた赤い縁が、傷口みたいに浮かんでいた。
俺はボールを先生へ返した。
「三塁、半歩遅い」
「はい」
「理由は聞かない」
「……はい」
「聞かれたくない顔をしている」
先生はそれだけ言って、次のボールを手に取った。
俺はグラブの紐を結び直した。結び目は固い。昨日も、何度も確かめた。ほどけるはずがないのに、指を離すとまた不安になる。
次の打球は三遊間へ飛んだ。
俺は前へ出た。今度は捕れた。低く身を沈め、右膝を土につけ、グラブの芯で打球を止める。立ち上がる。送球の相手は一塁だ。腕を振ると、ボールは一塁手の胸へ吸い込まれた。
送球は悪くない。
けれど、一歩目に残った重さは消えなかった。
小野寺先生は何も言わず、また打球を上げた。
捕る。送る。戻る。
捕る。送る。戻る。
動作を繰り返しているうちに、身体の表面には汗が浮かび始めた。ユニフォームが背中に貼りつき、脇の下に湿った布がまとわりつく。汗と土の匂いが鼻の奥に入り、部室で触れた蒼のユニフォームを思い出させた。
あの布も、蒼の身体に貼りついていた。
守備練習のあと、蒼はいつもベンチに座り、ユニフォームの裾を引っ張って空気を入れていた。
「暑いな。今日の俺、布に食われてる」
「自分で着てるだけだろ」
「違うって。ユニフォームが俺を着てる」
「意味が分からない」
「分からないなら、まだ余裕があるってこと。暑さに負けてない」
そう言って、蒼は冷えたスポーツドリンクを一気に飲んだ。喉が鳴り、飲み終えるとわざとらしく息を吐いた。
「いまの、勝利の音」
「ただ飲んだだけだろ」
「蓮は夢がないなあ」
思い出の中の蒼は、いつも動いていた。小石を蹴り、ボールを回し、誰かの肩を叩き、空気が固まる前に笑った。
俺は、その軽さを守ろうとして、いつの間にか自分だけが重くなっていた。
「朝倉」
今度は怜の声だった。
投球練習を終えた怜が、マウンド脇からこちらを見ている。汗を乾いたタオルで拭い、使ったボールを決めた順番でケースへ戻していた。
「何」
「戻りが遅い」
「分かってる」
「分かってるなら直せ」
「直してる」
「直ってない」
怜はボールケースの蓋を閉めた。金具が冷たい音を立てる。
「お前、昨日からずっと、三塁じゃなくて別の場所を見てる」
「どこを見てるって言うんだよ」
「知らない。だから邪魔だ」
「邪魔?」
「守備の邪魔だ。打球を見る前に、何かを確認してる。誰かがいる前提で動いて、いないから遅れる」
怜の声には温度がなかった。怒っているようにも、心配しているようにも聞こえない。ただ、見えたものをそのまま言葉にしていた。
「蒼のことなら、もう分かってる」
「分かってないから遅い」
胸の奥が狭くなった。
「お前に何が分かる」
「分かる。去年から見てきた」
「見てただけだろ」
「見ていたから言ってる」
怜は一拍置いた。会話の前に必ず間を置く癖がある。その間に、余計な言葉を捨てているのだと思う。
「真壁がいなくなってから、お前は失敗しなくなった」
「それが悪いのか」
「失敗しない守備はない」
「俺はチームを崩したくないんだよ」
「違う」
怜の目が、まっすぐ俺を捉えた。
「お前はチームを守りたいんじゃない。真壁がいなくなった穴を、自分の失敗で証明したくないだけだ」
言い返そうとして、言葉が出なかった。
打撃ケージの中で、バットがボールを叩いた。
カン。
乾いた音が河川敷へ抜けていく。
俺はグラブを握り直した。
「蒼がいなくなって、内野の声が減った。二遊間の確認も遅れた。怜だって、投げにくくなっただろ」
「なった」
「だったら、俺が埋めるしかない」
「埋まらない」
「分かってるよ」
「分かってない」
怜は低い声で続けた。
「空いた場所は、空いたままだ。誰かが同じ形で立てるわけじゃない。お前が三塁で声を出しても、真壁の遊撃にはならない。俺が完璧に投げても、去年の内野には戻らない。それでも試合は来る」
「だから、俺は――」
「お前は、来た試合より、来なかった時間を守ろうとしてる」
怜の言葉は、投げ損なった球より鋭かった。
俺は目を逸らした。足元の土に、小さな石がひとつ埋まっている。スパイクの先で触れると、石は簡単に転がった。
「お前は、何も考えずに投げられるのか」
俺が言うと、怜の指がタオルの端をつまんだ。
「考えている」
「蒼のことを切り捨てて?」
「切り捨てたつもりはない」
「でも、そういう顔をしてる」
「顔で投げてない」
「じゃあ何で投げてる」
「球で」
怜は即答した。けれど、すぐには視線を外さなかった。
「感情を消してるわけじゃない。試合中に使える形へ変えてるだけだ。怒りでも、怖さでも、悔しさでもいい。握った球に乗せられるなら使う。乗せられないなら捨てる。お前は何でも抱えたまま、足元へ置いている。だから一歩目が遅れる」
俺は返す言葉を探した。
怜は続ける。
「思い出を持っていることが悪いんじゃない。持ったまま動けないことが悪い。明日、俺が投げる。お前が守る。真壁がいようがいまいが、打球は来る。そこで遅れたら、俺たちは負ける」
「蒼を忘れて勝てってことか」
「忘れろとは言ってない」
「同じだろ」
「違う」
怜の声が、わずかに強くなった。
「忘れる必要がないものまで捨てろとは言ってない。だが、残したものを理由に判断を遅らせるな。真壁がいたらどうするかじゃない。お前ならどうするかを決めろ」
言葉が途切れた。
怜はタオルを首へ戻し、マウンドへ歩いていく。数歩進んでから、背中を向けたまま言った。
「次、同じ打球を捕れ」
「命令か」
「確認だ」
「捕れなかったら」
「もう一度やる」
怜は振り返らない。
「試合は、一回失敗したら終わりじゃない。次の球が来る。だから次の球までに立て」
その言葉に、蒼の声が重なった。
——笑っていられるうちは、まだ折れてない。
蒼なら、怜の言葉を聞いたあとで、「お前ら二人とも、言い方が怖いんだよ」と笑っただろう。怜は眉をひそめ、俺はたぶん何も言わず、蒼だけが一人で笑っていた。
もう、その笑い声はない。
でも、次の打球は来る。
小野寺先生がノックバットを構えた。
「続ける」
「はい」
「今度は、打球を見る前に動くな」
「はい」
「だが、見てから考えるな」
俺は先生を見る。
「どういう意味ですか」
「見て、決めて、動け」
「そんな簡単に――」
「簡単ではない」
先生はバットを肩へ乗せた。
「だから繰り返す」
次の打球が飛んだ。
今度は三塁線ではなかった。打者の芯を外れた打球が、三塁ベースの手前で不規則に跳ねた。回転が乱れ、土を噛んだボールが左へ逃げる。
俺は一瞬、迷った。
三塁へ走者がいる。前へ出れば、捕球後の送球が難しくなる。待てば、打球はファウルゾーンへ抜ける。
蒼ならどうする。
その考えが浮かんだ。
浮かんだまま、俺はそれを追いかけなかった。
打球の高さを見る。走者の位置を見る。怜の一塁へのカバーを確認する。
俺の足を前へ出す。
土を蹴った。
ボールはグラブの先で弾んだ。完全には捕れなかったが、身体を滑らせて止める。右手で拾い上げ、体勢を崩したまま一塁へ送った。
送球は高かった。
一塁手が伸びて捕った。アウトの声が上がる。
立ち上がると、膝に土が貼りついていた。息が荒い。肩に食い込んだユニフォームが汗で重く、首筋を流れた汗が背番号の下へ落ちていく。
小野寺先生は何も言わなかった。
怜も、マウンドからこちらを見ているだけだった。
俺はベンチの上の十八番へ視線を向けた。
背番号は、朝の光の中でまだ消えずに残っている。
蒼がいたら、今の送球をどう言っただろう。
たぶん、「芸術点は低いけど、執念点は高い」と笑う。俺が「採点するな」と返し、蒼は「じゃあ次は満点狙え」と言う。
その声を思い出すと、胸の奥が痛んだ。
痛んだまま、俺は守備位置へ戻った。
忘れたわけではない。軽くなったわけでもない。足の裏にはまだ、昨夜から続く重さがまとわりついている。
それでも、さっきより一歩だけ、自分の足で動けた。
ノックが再び上がる。
白いボールが朝の空気を切り、俺の前へ落ちてくる。
俺は打球から目を切らなかった。
その向こうにある空席からも、目を逸らさなかった。
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