第3話 食卓の端

家に着いたとき、雨はもう止んでいた。
玄関の軒先から落ちる雫が、一定の間隔でコンクリートを叩いている。空はまだ低く、雲の切れ間から見える夕暮れが、濡れた道路の上で薄く伸びていた。
靴を脱ぎ、鞄を置く。
いつもなら、そのまま洗面所へ行って顔を洗う。汗と土を落とし、冷蔵庫から麦茶を出して、練習の続きを頭の中で確認する。明日の集合は六時半。朝食は抜かない。三塁の守備位置は、相手の一番打者の足と風で決める。
今日は、その順番がひとつずつ遅れた。
「おかえり」
台所から美咲の声がした。
「ただいま」
返事をしてから、俺は一拍遅れて靴を揃えた。脱いだスニーカーの爪先が少しずれている。直そうとしゃがんだところで、手が止まった。
部室で見た、蒼のユニフォームが浮かんだ。
ベンチの中央に置いた背番号十八。片方の袖が床へ垂れ、暗い部室の中で、数字だけが白く残っていた。
俺は靴を揃え直した。左右の間隔を合わせ、玄関の端へ押し込む。そんなことをしても、胸の奥に残ったものは整わなかった。
「ご飯、できてる」
「うん」
「風呂、先に入る?」
「あとでいい」
「そう」
美咲はそれ以上言わなかった。
食卓には、味噌汁と焼いた鯖、それから冷奴が並んでいた。湯気が天井へ細く上っている。台所の蛍光灯は白く、雨上がりの窓に反射して、外の暗さを押し返していた。
俺は椅子に座り、箸を取った。
鯖の皮を少しだけ剥がす。骨を避ける。味噌汁をひと口飲む。出汁の味は分かったが、何を食べているのかは、口の中からすぐに消えた。
向かいに座った美咲は、食事の前にいつも進路案内を読む。今日も封筒から何枚かの書類を出し、テーブルの右端へ並べていた。県内の大学、専門学校、奨学金の説明。紙の端がきれいに揃っている。
「担任の先生から、進路希望の紙をもらったでしょ」
「もらった」
「提出、来週の金曜だって」
「分かってる」
「分かってる人の机に、まだ封筒が開いてないことがあるんだ」
俺は箸を止めた。
「開けるよ」
「いつ」
「そのうち」
美咲は書類の一枚を裏返した。何かを言いかけて、やめる。その沈黙が、食卓の上に置かれた味噌汁の湯気より長く残った。
「野球、終わってから考える」
俺が言うと、美咲は顔を上げた。
「終わってからって、いつ?」
「大会が終わってから」
「それは青葉台がどこまで勝つかで変わる」
「だから」
「だから、決めない?」
声は穏やかだった。怒っているわけではない。ただ、逃げ道の形をひとつずつ確かめているような話し方だった。
「明日、試合だから」
「知ってる。最後の夏なんでしょ」
美咲はそう言って、冷奴の器を少し奥へ寄せた。
「でも、明日の試合が終わっても、朝は来る。勝っても来るし、負けても来る。学校も始まるし、紙の締切も来る。蓮が野球を大事にしてるのは分かるけど、野球の外の時間まで止まるわけじゃないよ」
その言葉に、俺は味噌汁の椀を見た。
野球の外。
部室でも、小野寺先生に似たことを言われた気がした。先生は直接そう言わなかったが、明日の集合時間や朝食の話をした。試合は特別な日でも、身体はいつも通りに扱わなければならない。食べて、眠って、朝になれば立つ。
蒼がいなくなっても、時間だけは止まらなかった。
「分かってる」
「分かってない顔をしてる」
「どんな顔だよ」
「自分が今どこにいるのか、分かってない顔」
箸の先が、茶碗の縁に当たった。
小さな音がした。
「……部室に、蒼のユニフォームがあった」
言ってから、食卓の空気が少し変わった。
美咲は驚かなかった。書類を揃える手も止めない。ただ、紙の角を合わせていた指が、一度だけ静止した。
「まだあったんだ」
「知ってたのか」
「知ってたわけじゃない。残ってるかもしれないとは思ってた」
「なんで」
「あなたが、あのロッカーを一度も片づけなかったから」
俺は返事をしなかった。
転校してから一年近く経っている。ロッカーの上には名字が残り、扉の内側には蒼が貼った小さなシールの跡も残っていた。それでも俺は、片づけようとしなかった。誰かに言われれば、まだ使うからと答えた。実際には、使っていなかった。
「背番号、十八」
「そう」
「土の匂いがした」
「洗ってあった?」
「たぶん」
「じゃあ、土の匂いは蓮の記憶じゃないの」
俺は顔を上げた。
美咲は冗談を言ったわけではなかった。けれど、蒼がいたら、たぶん同じような言い方をした。深刻なところへ正面から入らず、少しだけ角度をずらして、こちらが息をできる場所を作る。
「……蒼も、そういうこと言いそう」
「会ったことはないけど、話は聞いてるから」
「どんな話」
「練習から帰ってきた蓮が、あいつの話をする時だけ、食べるのが速くなったこと」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
美咲は普段、野球の話をほとんど聞かなかった。試合の結果を聞くことはあっても、誰が何番を打ったとか、どの球を投げたとか、細かいことには踏み込まない。だから俺も、蒼の話をしていたことを覚えていなかった。
「俺、そんなに話してた?」
「話してた。本人のことは、あまり話さなかったけど」
「じゃあ何を」
「部室で誰かが転んだとか、蒼が変な声を出したとか、怜がまた怒ってたとか。どうでもいいことばかり」
「どうでもよくない」
思わず言うと、美咲は少しだけ笑った。
「そうね。どうでもよくないんだろうね」
その笑みは、蒼のように空気を軽くするものではなかった。もっと静かで、こちらが自分で言葉を探すまで待つためのものだった。
俺は箸を置いた。
鯖の身が、皿の上で冷えていく。
「蒼が転校するって聞いた日、俺、あいつに怒ってた」
「うん」
「なんで知ってる」
「知ってるわけじゃない。今の顔を見て、そうだと思っただけ」
「勝手に決めるなって思った。最後の夏まで一緒にやるって言ってたのに、先にいなくなるなって。向こうの学校のほうが強いとか、グラウンドが広いとか、あいつはくだらないことばかり話してた」
言葉が出始めると、止めるのが難しかった。
「俺は、何も聞かなかった。どうして転校するのかも、向こうで大丈夫なのかも、戻ってくる気があるのかも。聞けばよかったのに、聞かなかった。怒ってたから。聞いたら、本当に別れることになる気がしたから」
美咲は黙っている。
冷蔵庫の低い唸りが、部屋の隅で続いていた。壁の時計の秒針が、一定の速さで夜を進めていく。
「最後に、俺はひどいことを言った」
「何を?」
「俺は、お前の代わりじゃないって」
美咲の目が、ほんの少し細くなった。
「蒼が、俺が三塁で穴を埋めればいいって言ったんだ。たぶん、あいつは冗談だった。いつもの軽口で、俺が怒ってるのも分かってた。なのに俺は、言い方を選べなかった」
あの日の蒼の顔が浮かぶ。
笑いが途中で止まり、鼻先を指でこすっていた。いつものように返してくれると思っていたのに、蒼はすぐには笑わなかった。
「蒼は、知ってるって言った」
「何を?」
「俺がすぐ埋めようとすること。空いてるところを見ると、そこに自分を詰めるって」
声が掠れた。
「俺は、そんなつもりじゃなかった。でも、蒼がいなくなってから、ずっとそうしてた。三塁でミスをしないようにして、内野に声を出して、あいつがいた頃と同じように動こうとした。勝てば、いなくなったことを考えなくて済むと思った」
「勝てた?」
「……少しは」
「考えなくなった?」
俺は答えられなかった。
美咲は書類を一枚、封筒へ戻した。
「それ、蒼に謝ったの?」
「連絡してない」
「じゃあ、まだ謝ってない」
「今さら送っても、何を言えばいいか分からない」
「分からないから送れないの?」
「送ったら、返事が来るかもしれない。来ないかもしれない。どっちも嫌なんだ」
「返事が来るのが?」
「……来ないのが」
「来たら?」
「もっと嫌だ」
「どうして」
美咲の問いは、急かすものではなかった。それでも、逃げたまま話を終わらせることは許さない響きがあった。
「蒼が普通に返してきたら、俺だけが一年間、勝手に引きずってたみたいになる。元気だよ、とか、明日試合なんだろ、頑張れ、とか。そういう軽い返事が来たら、俺はたぶん腹が立つ。こっちはずっと……」
そこまで言って、喉が詰まった。
こっちはずっと、何をしていたのか。
怒っていた。寂しがっていた。代わりになろうとしていた。蒼がいなくなった理由を知らないまま、知らないことに腹を立て、それでも聞けなかった自分を責めていた。
美咲は湯呑みに麦茶を注いだ。氷がひとつ、底で音を立てる。
「蓮」
「何」
「謝るって、相手から許してもらうためだけにするものじゃないよ」
俺は黙っていた。
「相手がどう返すかを決めるために謝るんじゃない。返事がなくても、怒られても、もう遅いと言われても、自分が言わなかった事実を、自分のところへ戻すために言うの。相手の反応まで引き受けようとするから、あなたは何も言えなくなる」
「でも、俺が謝って、蒼が許さなかったら」
「それは蒼のもの」
「勝手だろ」
「勝手でいいんじゃない。人の気持ちまで、自分の責任にしないで」
美咲はそこで言葉を切った。
「あなたは、蒼がいなくなったことまで、自分の守備範囲に入れてる」
その言葉は、小野寺先生の「打球が来たときに動くのは、お前の足だ」という言葉と、どこかで重なった。
自分の守備範囲。
三塁線の打球。バント。怜の球。走者の間合い。そこまでは、俺が判断して動くものだ。
けれど、蒼が転校した理由も、蒼が今どこで何を考えているかも、俺のグラブには入らない。どれだけ手を伸ばしても、捕れない打球がある。
「蒼がいなくなったのは、俺のせいじゃない」
口にしてみると、言葉が妙に軽かった。
「そうだね」
「でも、あの日、ちゃんと話さなかったのは俺のせいだ」
「それも、あなた一人のせいではないと思うけど」
「それでも、俺は謝りたい」
美咲はすぐに頷かなかった。
「今?」
「今は……まだ、送れない」
「じゃあ、書けば」
「手紙?」
「短いメッセージでいいんじゃない。送らなくてもいい。まず、自分が何を謝るのか、文章にしてみたら」
俺はスマートフォンを取り出した。
画面を点けると、メッセージアプリの一覧に、蒼の名前が残っていた。最後に送ったのは、去年の春だった。練習試合の集合時間を伝えただけの短い連絡。その下に、未送信の文章が残っている。
元気か。
消した。
明日、試合だ。
消した。
ユニフォームが見つかった。
そこまで打って、指が止まった。
「見つかったって言えばいい」
「何を?」
「ユニフォーム」
「それだけ?」
「……分からない」
美咲は麦茶を飲み、窓の外へ目を向けた。雨上がりの夜気が、少し開いた窓から入ってくる。湿った風がカーテンを膨らませ、台所の蛍光灯を揺らすように影を落とした。
「蓮は、蒼に何を返したいの」
「ユニフォーム」
「物の話じゃなくて」
俺はスマートフォンを握ったまま、画面を見ていた。
「最後まで一緒に戦うって言ったのに、俺は先に終わったことにした」
文字を打つ。
蒼が転校するとき、俺は怒ってた。
その文章を見て、指が止まる。
「それから?」
「……謝りたい」
「何に?」
美咲の声は低かった。
俺はしばらく考えた。謝ることはひとつだと思っていた。あの日、きつい言い方をしたこと。けれど、それだけではない。
「寂しいのに、怒ってるふりをしたこと。蒼がいなくなったあと、あいつの代わりになろうとしたこと。勝手に約束を終わらせたこと」
言葉にすると、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ輪郭を持った。
「それから、蒼が何も言わなかったことを、全部あいつのせいにしてた」
美咲は何も言わなかった。
「俺も聞かなかったのに。あいつが言わなかったから、俺は何もできなかったって思ってた。違う。俺は、聞くのが怖くて、聞かなかったんだ」
スマートフォンの画面に、文章が増えていく。
あの日、ちゃんと聞けなくてごめん。 怒ってることも、寂しいことも、言えなくてごめん。 約束を守れなかったみたいに思ってたけど、たぶん、俺が勝手に終わらせてた。
ここで、俺は入力を止めた。
「それ、送るの?」
「分からない」
「明日は試合でしょ」
「うん」
「なら今日は寝たら。送るかどうかは、明日の朝に決めればいい」
「先延ばしじゃないか」
「先延ばしと、急いで決めないことは違う」
美咲はそう言いながら、冷めかけた味噌汁を指で示した。
「まず食べて。謝る文章を書いても、倒れたら誰にも届かない」
俺は椀を持った。
味噌汁はもうぬるくなっていた。それでも、今度は少し味がした。出汁の甘さと、味噌の塩気。喉を通ると、身体の奥へ熱が落ちていく。
「明日、勝てるかな」
自分でも驚くほど素直な声が出た。
美咲はすぐには答えなかった。窓の外で、どこか遠くの車が濡れた道路を走り抜ける音がした。
「勝てるかどうかは、私には分からない」
「姉ちゃんらしいな」
「でも、勝てないかもしれないからって、食べない理由にはならない」
「それはそうだけど」
「負けるかもしれないからって、謝らない理由にもならない」
箸を持つ手が止まった。
「試合が終わったら、何もかも終わると思ってる?」
「……少し」
「野球部は終わるかもしれない。でも、蓮の時間まで終わるわけじゃない。蒼との関係も、明日の試合だけで決まらない。続くかどうかは蒼が決めることだけど、終わらせるかどうかを、蓮が先に決める必要はない」
美咲の言葉は、派手ではなかった。背中を押すこともしない。ただ、濡れた床に足場をひとつ置くように、現実を差し出してくる。
俺は再びスマートフォンを見た。
未送信の文章の最後に、短く打ち足す。
明日、三塁に立つ。 お前がいないことを、なかったことにはしない。 でも、お前の代わりにもならない。 俺は俺の足で守る。
送信ボタンの上に指を置く。
押せなかった。
美咲は何も言わなかった。見ないふりをしているわけではない。俺が押せるまで、待っているのだと思う。
画面を伏せる。
「今日は送らない」
「うん」
「逃げたわけじゃない」
「そう思うなら、それでいい」
「明日の朝、もう一度読む」
「朝食の前に?」
「前に」
「食べてからにして」
俺は少しだけ笑った。
笑ったというより、口の端が動いただけだった。それでも、美咲は何も言わなかった。
食卓の上には、まだ進路案内の封筒がある。県内の大学。専門学校。願書の締切。明日になれば、試合と関係なく、また一日が始まる。
俺は鯖の最後の身を箸でほぐした。骨を避け、口へ運ぶ。味は薄くなっていたが、確かに食べたという感覚が残った。
食器を片づけるために立ち上がる。
「置いて」
「いい」
「明日、朝早いから」
「だから置いて」
「食器洗いくらいできる」
「できるかどうかじゃなくて、私がやるって言ってるの」
美咲は俺の手から皿を取った。重ねた皿が、乾いた音を立てる。
「蓮は、明日三塁でしょ」
「うん」
「だったら、今日は寝る準備をして」
「守備位置の確認をもう一回だけしたい」
「一回だけで終わる?」
俺は答えられなかった。
「終わらないなら、なおさら寝て」
美咲は蛇口をひねった。水が流れ、食器に当たる音が台所を満たす。部室の雨音とは違う、生活の音だった。誰かが明日のために皿を洗い、冷蔵庫が唸り、時計が時間を進めている。
俺はテーブルの端に残った進路案内を封筒へ戻した。
その上に、スマートフォンを置く。
蒼に送る文章は、まだ未送信のままだ。けれど、もう消さなかった。
階段へ向かう前に、窓を少しだけ開ける。夜の風が入ってきた。雨上がりの湿り気と、遠くの川の匂い。その中に、ほんのわずかに土の匂いが混ざっている気がした。
蒼が好きだった、夕立前の匂い。
俺は目を閉じた。
蒼。
心の中で名前を呼ぶ。
いつものように、返事はない。
それでも今度は、返事がないことに向かって、もう一度だけ言葉を置いた。
明日、行く。
お前の代わりじゃない。
俺の足で、三塁に立つ。
台所で皿の触れ合う音がした。美咲は何も聞こえなかったふりをしている。俺も、それ以上は口にしなかった。
階段を上がる。足の裏に、昼間の土の感触がまだ残っているようだった。部室のベンチに置いた背番号十八が、暗がりの中でどんなふうに夜を過ごしているのか、考えようとしてやめる。
明日の朝、迎えに行く。
返すのか、持っていくのか、その時に決める。
決めることから逃げずにいられるように、まず眠らなければならない。最後の夏は、感情だけでは始まらない。食べて、眠って、靴紐を結び、濡れた土の上へ出ていく。
その当たり前の手順のどこかに、蒼との約束がまだ残っている。
俺は部屋の灯りを消した。
窓の外で、雲の切れ間から月が現れた。濡れた屋根と電線が、白い光を受けて細く光っている。夏の夜はまだ終わらない。けれど、明日の朝になれば、俺たち三年の時間はまたひとつ削られる。
それでも朝は来る。
勝つか、負けるか。
言えるか、言えないか。
俺は布団の脇にスマートフォンを置き、目を閉じた。画面の中には、送られていない言葉が残っている。
返事のないまま終わった別れを、今度は自分から終わらせないための言葉だった。
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