第2話 顧問の沈黙

雨脚が少し強くなった。
部室の窓を叩く音が、グラウンドから聞こえる声をひとつずつ薄めていく。誰かが走っている。スパイクが濡れた土を踏み、フェンス際で止まる。小野寺先生の低い声がしたあと、部員たちの返事が重なった。
俺はベンチの上に置いたユニフォームを見ていた。
背番号十八は、雨の向こうから差し込む白い光を受けて、輪郭だけを浮かべている。赤い糸の縁が少し擦れ、数字の内側には細かな土が入り込んでいた。指で払えば取れるはずなのに、触ることができなかった。
部室の扉が開いた。
小野寺先生が入ってきた。濡れた古いノックバットを片手に持ち、肩や髪に細かな雨粒を残している。いつもなら最初に道具の置き場所を見る。乱れたスパイク、開きっぱなしのボールケース、壁際に寄せきれていないバット。今日もそうするのかと思ったが、先生は入り口に立ったまま動かなかった。
視線が、俺の手元へ落ちる。
それから、足元へ移る。
俺の右足は、いつの間にか三塁の守備位置を探すように床を擦っていた。二度、土をならすときの癖だ。部室の床に土はないのに、靴底が薄く鳴った。
先生は何も言わなかった。
雨が窓を打つ。濡れた木の匂いが強くなり、壁に貼られたメモの端が、湿気でわずかに浮いている。
守備は最後まで目を切るな。
蒼の字が、白い紙の上で太く残っていた。
「……見つけました」
自分から言った。声が思ったより低く、部室の奥で一度跳ね返った。
先生は答えなかった。
「ロッカーの奥に。去年から、たぶんずっと」
それでも先生は何も言わない。ノックバットを持つ手の位置だけが少し下がった。
俺はユニフォームを持ち上げた。乾いた布のはずなのに、掌に触れる部分だけが湿っているように感じた。汗を吸い、洗われ、また誰かの身体に貼りつくはずだった布。蒼が何度も袖をまくり、守備のたびに肩を土へ擦りつけていた布。
「返したほうがいいですよね」
先生の顔を見ることができず、背番号へ向かって話した。
「真壁に。住所は知っています。転校先も、たぶん。送ろうと思えば送れるし、連絡も……できなくはないです」
言葉が喉の奥でつかえた。
「でも、今さら何を言えばいいのか分からない。ユニフォームを返すだけなら、箱に入れて送れば済むのに。俺は、それだけじゃないと思ってる。返すって言ったら、あの日のことも一緒に返さなきゃいけない気がして」
先生は腕を組んだ。
沈黙が長くなる。
叱られると思った。野球部の部室で、試合前日に何をしている、と言われても仕方がない。明日は最後の夏の初戦だ。三年の俺たちにとって、勝てば次へ行ける。負ければ、練習着を着る理由さえなくなる。背番号十八の扱いに時間を使うより、守備の確認をして、睡眠を取るほうが正しい。
正しいことは、いつもすぐに言える。
だから先生が黙っていることが、怖かった。
「朝倉」
やがて、先生が俺の名字を呼んだ。
その呼び方には、普段の練習中とは違う重さがあった。名前を呼んだだけなのに、肩の力が抜けるのではなく、逆に背筋が伸びた。
「はい」
「明日のベンチをどうするかは、自分で決めろ」
それだけだった。
俺は顔を上げた。
先生はもう、ユニフォームを見ていなかった。窓の外へ視線を向け、雨で黒くなったグラウンドを見ている。まるで、俺の迷いよりも、外の水たまりのほうが先に片づけるべき問題だと言うように。
「先生は、置くなとも、置けとも言わないんですか」
「言わない」
「明日は大会です。ベンチに私物を置くのは、普通じゃないでしょう」
「私物かどうかも、自分で決めろ」
「ユニフォームです。真壁のです」
「お前がそう思うなら、それでいい」
先生はそこで一度、言葉を切った。
「だが、置いたからといって、誰かの代わりになるわけじゃない。置かなかったからといって、忘れたことにもならない」
雨の音が、一瞬だけ遠くなった気がした。
俺は背番号十八を見下ろした。
代わり。
蒼がいなくなってから、俺は何度もその言葉を自分の中で使っていた。三塁の守備範囲を広げる。内野全体に声を出す。蒼がやっていたことを、できるだけ多く自分に詰め込む。そうすれば、空いた場所は見えなくなると思っていた。
でも、代わりになろうとするほど、蒼のいない場所だけが鮮やかになった。
「俺は、ずっと……」
言いかけて、口を閉じた。
先生は待っているようにも見えた。だが、急かしているわけではない。答えを引き出すために沈黙しているのではなく、言えないものを言えないまま置いておくために、そこにいるようだった。
「蒼の分まで、守らないといけないと思ってました」
声にすると、ひどく幼い考えに聞こえた。
「三塁に立って、ミスをしないで、勝って。蒼がいたらできたことを、俺ができるようになればいいって。そうすれば、あいつがいなくなったことで、チームが崩れたって思わなくて済むから」
先生は何も返さない。
「でも、できませんでした。守備の一歩目が遅れる。打球を見る前に、蒼ならどう動くかを考えてしまう。あいつの代わりをやろうとして、俺の判断が遅れてる。分かってるのに、やめられない」
先生はノックバットを壁へ立てかけた。
「やめる必要はない」
思いがけない言葉だった。
「え」
「考えることをやめる必要はない。忘れる必要もない。だが、打球が来たときに動くのは、お前の足だ」
先生は壁のメモへ目を向けた。
「真壁が書いた言葉を、真壁の答えとして使うな。お前がどう受け取るかを決めろ」
「そんなの、今すぐには……」
「今すぐ決めろとは言っていない」
「でも明日は試合です」
「だから、自分で決めろと言った」
先生の声は厳しかった。慰める余地を残さない厳しさだった。それなのに、突き放された感じはしなかった。自分の足で立てない者を、抱えて運ぶのではなく、立つ場所だけ示している。
先生が部室の奥へ歩いた。
俺はその背中を追うように振り返った。蒼のロッカーの扉が、わずかに開いている。中には何もない。誰かが掃除したのか、底に小さな砂が残っているだけだった。
先生はそこへ手を伸ばし、扉を閉めた。
金属が鳴った。
乾いた音だった。
雨の音に囲まれているのに、その音だけが異様にはっきりしていた。閉じ込められたものを外へ出さないための音ではない。開いたままにしていた時間へ、いったん区切りをつける音だった。
「蒼のロッカー、先生が閉めるんですね」
俺が言うと、先生は扉に触れたまま答えた。
「開いていたから閉めただけだ」
「俺が閉めるべきでした」
「そう思うなら、次から自分で閉めろ」
振り返った先生の顔は、いつも通りだった。厳しく、疲れていて、何人もの選手の足元を見てきた顔。けれど、その目が一瞬だけ俺の手の中のユニフォームへ戻った。
「ただし、隠すために閉めるな」
俺は返事をしなかった。
返せば、何かを約束することになる気がした。
先生は壁際のスコアブックを手に取り、濡れた指先で表紙を拭った。表紙の角は擦れて丸くなり、紙の間には何年分もの土埃が入り込んでいる。
「最後の確認をする」
「はい」
「明日の集合は六時半。朝食を抜くな。怜は五回を目安に状態を見る。守備位置は相手の一番打者の足と、風で変える。気持ちで位置を決めるな」
「はい」
「それから」
先生がスコアブックを閉じた。
「三塁に立ったら、最初の一球だけ、余計なものを考えるな」
胸の奥がざらついた。
「最初の一球だけですか」
「最初の一球は、どんな選手でも緊張する。考えるなというのは、忘れろという意味じゃない。今来る球を、今の自分で受けろということだ」
先生はそれ以上説明しなかった。
説明されれば、もっと楽だったと思う。蒼の不在をどう扱えばいいのか、背番号十八を持っていくべきか、返すべきか。全部を野球の言葉に置き換えてくれれば、俺はその通りにできた。
だが先生は、野球の正解を渡さなかった。
俺はユニフォームを畳み直した。数字が内側へ隠れるように折ろうとして、途中で手を止める。蒼なら、背番号を表にして置いたはずだ。自分の番号を見せびらかすみたいに、ベンチの端へ雑に置いて、誰かに「そこ邪魔」と言われて笑う。
その想像に、喉の奥が痛んだ。
「先生」
「何だ」
「蒼は、あの日……何か言ってましたか」
聞いてから、しまったと思った。
先生はすぐには答えなかった。窓の外を見たまま、雨の筋を追っている。
「何を」
「転校する前です。先生に、何か」
「練習に遅れないようにすると言っていた」
「それだけですか」
「それ以上は聞いていない」
「先生は、理由を知っていたんじゃないですか」
声が少し強くなった。
「転校する理由も、蒼が何を考えていたのかも。俺たちには、急に決まったみたいにしか見えなかった。先生なら、何か聞いていたんじゃないですか」
小野寺先生は、俺を見た。
その視線は冷たくなかった。ただ、俺がいま尋ねていることの形を、正確に測っているようだった。
「本人が話さないことを、俺が代わりに話すつもりはない」
「でも、俺は何も聞けないまま……」
「聞けなかったのか」
言葉が止まった。
先生はそれ以上、追い詰めなかった。けれど、その一言は、雨に濡れた布のように重く、胸へまとわりついた。
聞けなかった。
蒼が転校することを知った日、俺は何も聞かなかった。聞かなかったというより、聞けなかった。怒っていたから。寂しかったから。理由を聞いてしまえば、蒼を送り出さなければならなくなる気がしたから。
先生は蒼のことを隠したのではなく、俺が見ようとしなかった場所へ、勝手に踏み込まなかっただけなのかもしれない。
「……すみません」
口に出た。
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。
先生は首を横に振らない。許すこともしない。
「謝る相手を間違えるな」
その言葉に、息が詰まった。
先生は扉へ向かった。ノックバットを手に取り、濡れた床に残った水滴を避けながら歩いていく。俺はその背中を見ていた。呼び止めようとしたが、声を出す前に一拍遅れた。
扉の前で、先生が振り返った。
「朝倉」
「はい」
「明日のベンチをどうするかは、自分で決めろ」
同じ言葉だった。
今度は、最初よりも深く響いた。
「置くなら、置いたものの重さから目を切るな。置かないなら、置かなかった理由から目を切るな」
それだけを言って、先生は部室を出ていった。
扉が閉まる。
雨音が戻ってくる。
俺はひとりになった。
さっきまで狭かった部室が、今度は広すぎるように感じた。壁に貼られたメモも、閉じたロッカーも、ベンチの上のユニフォームも、全部が離れた場所にある。手を伸ばせば届く距離なのに、どれも簡単には触れられない。
グラウンドから、最後のノックの音が聞こえた。
カン。
しばらくして、もう一度。
カン。
蒼がいた頃なら、ノックが終わったあとに誰かがふざけた声を上げていた。今日も部員たちはきっと、雨を避けながら道具を片づけている。明日の集合時間を確認し、帰り道の話をし、勝てば次も練習があると考えている。
その普通の中に、蒼だけがいない。
俺はユニフォームの背中を撫でた。布は乾いている。汗で肌に貼りつく感触も、土に滑り込んだときのざらつきも、もうない。それなのに、指先は蒼がまだここにいるような錯覚を拾い続ける。
ロッカーへ戻す。
ベンチへ置く。
持って帰る。
どれを選んでも、蒼が戻るわけではない。分かっている。分かっているからこそ、選ぶことが怖かった。選んだ瞬間に、去年から先送りにしてきた時間が、ひとつの形になってしまう気がした。
俺は立ち上がり、ユニフォームを抱えたままロッカーの前へ歩いた。
雨の匂いが、開け放した窓から流れ込む。部室の床には、誰かが運んできた細かな土が点々と落ちていた。俺はそれを一つずつ靴先で寄せ、手のひらで拾った。濡れた土は指の間で小さく崩れた。
ロッカーの扉に手をかける。
金属は冷たかった。
開ければ、奥には何もない。ユニフォームを戻せば、明日の朝にはまた見えなくなる。見えなくなれば、先生の言葉も、蒼の名前も、今日のところは収まるかもしれない。
俺は扉を開けなかった。
代わりに、ユニフォームをベンチの中央へ置いた。背番号十八が見えるように広げる。折り目が歪み、片方の袖が床へ垂れた。蒼なら、こんな置き方をしたまま「芸術点は高い」と笑うだろう。
俺は笑えなかった。
けれど、すぐに片づけることもしなかった。
壁のメモを見る。
守備は最後まで目を切るな。
打球だけではない。蒼の不在からも、あの日の自分からも、目を切るな。
そう思っても、まだ自分の言葉にはならなかった。蒼の書いた一行を借りて、かろうじて立っているだけだった。
部室の照明を消す。
暗がりの中で、窓の外の照明塔が白く滲んだ。雨の粒が光を受け、空中に細い線を作っている。河川敷球場は、試合のない夜でも明日のために立っていた。白い光だけが、濡れた土とフェンスを照らしている。
俺は鞄を肩にかけた。
ユニフォームを持って帰ることは、まだ決められなかった。けれど、ロッカーの奥へ戻すこともできなかった。
ベンチに残したまま、部室の扉へ向かう。
最後に一度だけ振り返る。
背番号十八は、暗い部室の中で、消えずに残っていた。
俺は扉を閉めた。指先に金属の冷たさが移る。小野寺先生が閉めた蒼のロッカーと同じ音が、今度は自分の手の中で鳴った。
外へ出ると、雨は細くなっていた。
校舎裏の坂を下りる。河川敷から吹き上げる風が、汗の乾ききらない首筋を撫でた。シャツが肌に貼りつき、歩くたびに冷たさが増していく。土と雨と、遠くの川の匂いが混ざっていた。
俺は何度も三塁方向を振り返った。
そこに蒼はいない。
けれど、いないことを確かめるために見るのではなく、いないまま残っているものを見失わないために、俺は振り返った。
明日のベンチをどうするかは、まだ決めていない。
ただ、決める責任だけは、もう誰にも渡せなかった。
← 横にスクロールして読み進められます
