第1話 湿ったロッカー

最後の夏季大会を明日に控えた放課後、部室の空気は、古い水槽の底みたいに重かった。

窓は開いている。校舎裏の斜面を越えて、河川敷球場から風が上がってくる。けれど風は涼しくなかった。夕立前の湿り気を含み、汗と土と、長く閉め切られていた木の匂いを、部室の中へ押し込んでくる。

グラウンドでは、まだ打撃練習が続いていた。木製バットがボールを叩く、乾いた音がする。

カン。

間を置いて、またカン。

その音が壁を薄く震わせるたび、部室の中に残ったものまで、どこかへ急かされている気がした。

俺は三塁用のグラブを膝に置き、紐を結び直していた。ほどけているわけではない。結び目は十分に固い。それでも、指が勝手に動く。親指で革の縫い目をなぞり、紐を引き、余った先を揃える。少しでもずれていると、そこだけが気になった。

明日、三塁に立つ。

そのことを考えると、肩がわずかに上がる。三塁線を抜かせない。バントの打球を前へ出て止める。怜が投げる球の軌道を、最後まで見ている。そんな当たり前の確認を、頭の中で何度も繰り返していた。

最後の夏だ。

勝てば次がある。負ければ、三年の俺たちはそこで終わる。県大会常連でもない青葉台にとって、夏の大会は、毎年そういうものだった。勝った試合だけが時間を延ばし、負けた試合は、その日のうちに過去になる。

俺はロッカーの中に残ったタオルやテーピングの袋を取り出し、ベンチの上へ並べた。必要なものと、もう使わないものを分ける。明日の朝、慌てないためだ。道具の位置が決まっていれば、身体も決まる。少なくとも、そう思っていた。

右隣のロッカーには、もう誰の荷物も入っていない。

扉の上に、薄く消えかけた字が残っていた。

真壁。

マジックで書かれた名字の下に、誰かが小さく「転校済」と書き足している。俺が書いたものではない。消そうとした跡だけが、黒い筋になって残っていた。

目を逸らして、俺は自分のロッカーの奥へ手を伸ばした。

指先が、布に触れた。

タオルではない。ビニール袋でもない。乾いた布の感触だった。引き出そうとしたが、何かに引っかかっている。ロッカーの壁と、奥に押し込まれた荷物の間へ指を入れ、少し力を込める。

ずるり、と布が動いた。

畳まれた白いユニフォームが、暗がりから現れた。

最初に見えたのは、背中の数字だった。

擦れた赤い縁取り。ところどころ糸が浮き、汗と土の跡が薄く黄ばんでいる。

十八。

真壁蒼の背番号だった。

手が止まった。

グラブの紐が指から滑り、床に落ちた。乾いた音がしたのに、グラウンドのバットの音より遠く聞こえた。

俺はユニフォームを持ち上げた。洗ってある。少なくとも、目立つ汚れは落ちている。それなのに、土の匂いがした。河川敷の、少し湿った黒い土。夕立の前に蒼が好きだと言っていた、あの匂いだった。

鼻を近づけたわけではない。布を掴んだ手のひらから、匂いが立ち上がってくる。

「……なんで」

声にした途端、自分のものではないように聞こえた。

去年、蒼が転校したあとも、俺は何度かこのロッカーを使っていた。練習着を押し込み、スパイクの袋を突っ込み、試合前には何度も扉を開け閉めした。それなのに、今日まで気づかなかった。

いや、気づかないようにしていたのかもしれない。

ユニフォームを広げる。胸元に青葉台の校章。背中に十八。肩のあたりに、蒼が守備練習で何度も土に滑り込んだ跡が残っていた。

「それ、まだあったのか」

背後から声がして、俺は振り向いた。

同じ三年の西尾が、部室の入り口に立っていた。手には空になったスポーツドリンクのボトルを持っている。いつもなら何かくだらないことを言う男なのに、今日はユニフォームを見たまま、口を閉じた。

「……今、見つけた」

「返すんだろ」

「誰に」

西尾は答えなかった。

窓の外で、風がフェンスを鳴らした。金属の細い音が、部室の湿った空気に長く残る。

「真壁、向こうでも野球やってるらしいぞ」

「知ってる」

「そうか」

「連絡、取ってるのか」

西尾はボトルの蓋を指で回した。何度も回して、結局、開けもしない。

「いや。去年の冬に一回、共通の知り合いから聞いた。向こうの学校でも遊撃らしい。お前と同じで、三塁線が好きだって」

「俺は三塁線が好きなわけじゃない」

「そういうところだよな」

「何が」

「真壁なら、そこで一回笑う」

西尾はそう言って、自分で笑った。けれど笑い声はすぐに消えた。

俺は背番号十八を見た。数字の間に、細い糸くずが挟まっている。蒼はこういうところを妙に気にした。ユニフォームの糸が出ていると、試合前でも爪で切ろうとする。俺が「そんなのプレーに関係ない」と言うと、蒼は決まって肩をすくめた。

「関係あるって。気になるものを残したまま守備に入ると、打球がそこへ飛んでくるから」

そう言って、わざとらしく笑う。

あれは蒼なりの迷信だったのかもしれない。けれど、俺はその言葉を信じていた。信じていたから、蒼がいなくなってから、グラブの紐も、スパイクの泥も、必要以上に整えるようになった。

気になるものを残したまま、守備に入らないために。

「朝倉」

西尾が呼んだ。

「何」

「それ、明日のベンチに置くのか」

俺は返事をしなかった。

ベンチ。明日の試合。背番号十八。そこまで考えたとき、喉の奥が狭くなった。

「置かない」

「じゃあ、どうする」

「返す」

「誰に」

また同じことを聞かれた。

答えられない。蒼の住所は知っている。転校先も聞いている。けれど、連絡先を開いたことは一度もなかった。メッセージを送ろうとしたことはある。文章を打ち、消して、また打った。

元気か。

そっちはどうだ。

明日、試合だ。

どれも違った。言いたいことが、どの言葉にも収まらなかった。

「……わからない」

俺が言うと、西尾はそれ以上聞かなかった。ボトルを持ったまま、入り口から離れる。

「戸締まり、頼むな」

「お前は」

「先に行く。母ちゃんが迎えに来る」

西尾は一度だけ、ユニフォームへ視線を落とした。

「それ、臭うだろ」

「土の匂いがする」

「同じだよ」

「違う」

思わず言い返していた。

西尾は少し驚いた顔をした。それから、困ったように笑った。

「そういうところも、真壁なら笑う」

扉が閉まり、部室に俺一人が残った。

グラウンドの音が、窓の向こうで続いている。選手たちの声が上がり、誰かがミスをして、別の誰かが怒鳴る。いつもの練習だ。蒼がいた頃から、何も変わっていないように聞こえる。

けれど、ひとつだけ、声がない。

蒼は、誰かのミスに怒鳴る前に、必ず一度笑った。

「今の打球、俺の守備範囲にしていい? 広げすぎ?」

そんなふうに言って、ミスをした部員の肩を軽く叩く。責めていないわけではない。ただ、責めるだけで終わらせなかった。

俺には、それができなかった。

蒼が転校すると決まった日も、俺は何もできなかった。

あの日の夕方、部室の窓から、雨の匂いが入ってきていた。蒼はロッカーの前で、荷物をまとめながら、いつもより余計に喋っていた。

「向こうの学校、グラウンド広いらしいぞ。たぶん俺、初日で迷子になるな」

「野球部はあるのか」

「ある。俺が入れば、たぶん一人くらいは喜ぶ」

「自分で言うな」

「じゃあ蓮が言って。蒼がいなくなると困ります、って」

笑いながら言った蒼の顔を、俺は見なかった。

怒っていた。勝手だと思っていた。最後の夏まで一緒にやると言ったのに、どうして先にいなくなるのかと思っていた。

けれど、怒っていると認めるのも嫌だった。寂しいと口にすれば、蒼を困らせる気がした。だから俺は、荷物をまとめる音を聞きながら、グラブの紐を結び直していた。

「蓮」

「何」

「最後の夏、間に合わなかったな」

「……そうだな」

「でもまあ、試合は一人で九人いるわけじゃないし。お前が三塁で穴を埋めれば――」

「穴じゃない」

俺は初めて顔を上げた。

蒼の笑いが、途中で止まった。

「俺は、お前の代わりじゃない」

言ってしまってから、自分でも何を怒っているのか分からなくなった。

蒼はしばらく黙っていた。それから、いつものように鼻先を指でこすり、少しだけ笑った。

「知ってるよ」

その笑い方が、妙に寂しかった。

「でも、蓮はすぐ埋めようとするからさ。空いてるところを見ると、そこに自分を詰めるだろ」

「何の話だよ」

「何でもない。ほら、最後まで目を切るなってやつ」

蒼は壁に貼ってあったメモを指で叩いた。春の大会の前、蒼が書いたものだった。乱れた字で、短くこうある。

守備は最後まで目を切るな。

「打球から目を切るなって意味だろ」

「それだけじゃない」

「じゃあ何だよ」

「知らない。書いた本人に聞いて」

蒼はまた笑った。

「俺、明日にはいないけどさ。約束は残るから。最後の夏まで一緒にやるってやつ、いちおう保留にしといて」

「保留って何だ」

「続きがあるかもしれないだろ」

俺はその時、何か言わなければならなかった。

転校するな、と言うのか。寂しい、と言うのか。勝手に決めるな、と怒鳴るのか。それとも、今までありがとう、と言うのか。

結局、どれも言えなかった。

蒼は荷物を持ち上げ、出口へ向かった。扉のところで振り返り、いつもの調子で言った。

「ユニフォーム、置いてく。取りに戻るの面倒だから」

「持っていけよ」

「十八番、似合わなくなったし」

「何それ」

「蓮が着たら、たぶん背中が重くなる」

俺が笑わなかったから、蒼も笑わなかった。

あのときの沈黙が、今も部室のどこかに残っている。

俺は手の中のユニフォームを裏返した。背中の十八が、白い蛍光灯の下で浮かび上がる。擦れた赤い数字は、消えかけているのではなく、何度も洗われ、何度も土にまみれ、それでも残っているように見えた。

ポケットに何かが入っている。

指を入れると、紙の端に触れた。引き出した紙は、何度も折られていた。湿気を吸って柔らかくなり、角は丸く擦れている。

広げる。

蒼の字だった。

守備は最後まで目を切るな。

それだけが、太い文字で書かれている。

俺はその紙を、しばらく見つめた。

「蒼」

呼んでから、息を止めた。

返事はない。

分かっているのに、部室の奥や、閉じたロッカーの向こうから、何か聞こえてくる気がした。蒼なら、こんなところに紙を入れた理由を、くだらない冗談にして話すだろう。

大事な言葉ほど、冗談にする。

それが蒼の癖だった。

だから俺も、冗談にして返せばよかった。あの日、置いていかれる寂しさを、怒りの形にしてぶつけるのではなく、蒼が笑える言葉にして渡せばよかった。

でも、俺はできなかった。

言えなかったことは、時間が経てば薄くなると思っていた。練習をして、試合に勝って、三塁で結果を出せば、蒼がいないことも、そのうち普通になると思っていた。

普通にはならなかった。

ただ、見ないふりが上手くなっただけだ。

窓の外が急に暗くなった。雲が河川敷の向こうから押し寄せている。風が強まり、部室の窓枠ががたついた。グラウンドから、撤収を知らせる小野寺先生の声が聞こえる。

俺はユニフォームを畳み直した。

返すのか。持っていくのか。

手の中の布は、思っていたより重かった。濡れているわけではない。乾いている。けれど、蒼がいなくなった一年分の時間が、その繊維の間に入り込んでいるようだった。

ロッカーへ戻そうとして、手が止まる。

奥へ押し込めば、また見えなくなる。見えなくなれば、明日の試合に集中できるかもしれない。三塁線の打球だけを見て、余計なことを考えず、チームを勝たせることができるかもしれない。

けれど、それは蒼を忘れることではなく、また先送りにすることだった。

俺はユニフォームを抱えたまま、部室の中央に立った。

夕立の匂いが濃くなる。窓の外で、最初の雨粒が鉄製の手すりを叩いた。

カン、と乾いた音がする。

打球の音に似ていた。

俺は紙のメモを、ユニフォームのポケットへ戻した。十八の数字を表にして、ベンチの上へ置く。明日のベンチに置くかどうかは、まだ決められない。ただ、ロッカーの奥へ戻すことだけはできなかった。

グラブを拾い上げる。

紐はほどけていない。結び直す必要もない。

それでも俺は、一度だけ指先で結び目を確かめた。

固い。

固いまま、外れない。

部室の照明を消す前に、壁のメモを見た。

守備は最後まで目を切るな。

その言葉は、今まで打球のためにあった。けれど、今夜だけは違って見えた。

蒼がいなくなったことからも、言えなかったことからも、目を切るな。

そう言われている気がした。

俺はロッカーの扉を閉めた。金属の冷たさが指先に残る。背番号十八のユニフォームは、ベンチの上に置いたままだ。

外へ出ると、河川敷球場の照明が試験点灯を始めていた。白い光が雨の粒を浮かび上がらせ、濡れた土の上に細かな銀色の道を作っている。

明日は、ここで試合をする。

蒼はいない。

それでも、俺は三塁に立つ。

その事実だけが、雨の降り始めた空の下で、初めて逃げずに残った。

← 横にスクロールして読み進められます

湿ったロッカー - 背番号の残響 - 誰でも作家life