第10話 第10話「目を切らない夏」

七回裏の攻撃は、三者凡退で終わった。

相手投手の球数は増えていたが、俺たちの打線も同じように疲れていた。バットの芯を外された打球が、内野の土を小さく跳ねる。ベンチへ戻ってくる足音に、さっきまでの勢いはない。

スコアボードには、青葉台の二、相手校の一。

一点差だった。

ベンチの背後で、雲が低く垂れ込めている。遠くで雷の音がした。まだ音だけで、雨は落ちてこない。河川敷を渡る風が、湿った布のように首筋へまとわりつく。

怜がベンチへ戻ってきた。

帽子を外すと、髪が汗で額に貼りついている。西尾が水筒を差し出したが、怜は受け取る前にスコアボードを見た。

「あと六つ」

「アウトの数で言えよ」

西尾が言うと、怜は一度だけ目を細めた。

「同じだろ」

「同じだけど、言い方が嫌なんだよ」

怜は返事をしなかった。水を一口飲み、口元を手の甲で拭う。その動作に乱れはなかったが、指先はわずかに震えていた。

俺はベンチの端に置いた鞄へ目をやった。

中に、蒼のユニフォームがある。

背番号十八。洗っても消えなかった土の匂い。ポケットの奥から出てきた、あの紙切れ。返しに来るな、持っていけ。

持ってきたつもりだった。だが今は、あれをどう持てばいいのか分からない。背負うという言葉は簡単なのに、実際には、背中のどこへ置けばいいのかさえ決められない。

「朝倉」

小野寺先生の声がした。

振り返ると、先生はグラウンドを見たまま立っていた。

「守備位置、確認しろ」

「はい」

それだけだった。

先生は怜の球数にも、俺の鞄にも触れない。何も分かっていない顔をしているわけではない。ただ、分かっているからこそ、今の俺たちに必要なことだけを残している。

八回表。

先頭打者の打球は、二遊間へ抜けた。続く打者が送りバントを決め、走者は二塁へ進む。一死二塁。怜の球はまだ走っていたが、肩の上下は隠せなくなっていた。

次の打者は右打ちの巧い選手だった。

三塁線への警戒を強める。ベースから半歩離れ、打球の角度を見る。蒼がいた頃なら、遊撃の位置をちらりと確認していた。今いる一年生は、俺の視線に気づくと、ほんの少しだけ右へ寄った。

俺は首を横に振った。

寄りすぎるな。

声に出さなくても、彼は頷いた。

怜の初球。外角低めの直球。

打者は見送った。二球目、同じコースから沈む球。バットの先に当たった打球が、三塁線へ転がってくる。

速かった。

俺は一歩目を踏み出した。だが、打球は思ったよりも切れていく。三塁ベースの角をかすめ、ファウルになる。

立ち止まってから、俺は自分の足元を見た。

今の一歩は、遅くなかった。捕れなかったのは、俺のせいではない。そう思った直後、別の声が胸の奥から返ってくる。

言い訳をするな。

蒼の声ではなかった。怜の声でも、先生の声でもない。ずっと俺自身が、自分に向けていた声だった。

だが、今度はその声を振り払わなかった。

捕れる打球と、捕れない打球がある。守備で責任を取るというのは、全部を自分のせいにすることではない。次の打球に遅れないことだ。

打者が構え直す。

怜が投げる。

高めへ浮いた直球を、打者が叩いた。三塁正面。今度は迷いがなかった。身体の正面で捕り、二塁へ送る。走者が戻りきれず、アウトになった。

二死一塁。

次の打者の初球を、怜は外した。二球目もボール。ベンチの空気がまたざわめく。俺は怜を見た。

声をかけるべきか。

蒼なら、たぶん何かを言う。くだらない冗談を言って、怜に睨まれて、それでも間を作る。

俺には、蒼のようにはできない。

だから、俺のやり方で声を出した。

「怜。俺は三塁、見えてる」

怜がこちらを見る。

「お前は打者だけ見ろ」

言ってから、ひどく乱暴な言葉だと思った。だが怜は、わずかに口元を動かした。笑ったのか、呆れたのかは分からない。

「言われなくても」

四球にはならなかった。

怜は次の二球で追い込み、最後は外角のスライダーで空振りを奪った。ベンチから声が上がる。怜は帽子のつばを押さえ、マウンドを降りなかった。

八回裏、俺たちは一点を追加した。

西尾の右前打と、犠牲バント。二死三塁から、二年生の藤田が一塁線へ転がした。相手の一塁手が処理を焦り、送球がわずかに逸れる。三塁走者が生還した。

スコアは三対一。

けれど、二点差が安心をくれることはなかった。

九回表。

球場の照明が点いた。白い光が雨雲の底に滲み、グラウンドの土だけを浮かび上がらせる。最初の雨粒が、ベンチの屋根を一つ叩いた。

怜がマウンドへ向かう。

小野寺先生は呼び止めなかった。

俺も何も言わず、三塁へ走った。

先頭打者の打球は、センター前。続く打者には四球。無死一、二塁。ベンチの誰かが息を呑んだ。

怜はマウンド上で、ボールを見つめていた。

俺は三塁線を見た。雨粒が土へ黒い点を作っていく。蒼のメモに書かれていた言葉が、胸の中で静かに浮かんだ。

守備は最後まで目を切るな。

打球からも、相手からも、自分の恐怖からも。

俺は守備位置を一歩前へ出た。

「怜!」

今度は、迷わず声を張った。

「ここ、守る!」

怜が顔を上げた。

ほんの一瞬だけ、蒼がそうしたように見えた。いや、違う。蒼ではない。俺の声を聞いた怜が、俺を見ている。

怜は頷いた。

次の打者がバントを試みる。打球は三塁側へ転がった。

俺は前へ出た。

濡れた土がスパイクの裏で滑る。身体が流れかけた。だが、左手を伸ばし、グラブの先でボールを止めた。すぐには立ち上がらず、二塁走者を見た。三塁へ進もうとしている。

俺は三塁へ送球した。

走者が滑り込む。三塁ベース上で、ボールが先に待っていた。

アウト。

一死一、二塁。

雨が少し強くなった。ユニフォームが肌に貼りつく。額から流れた水が、汗なのか雨なのか分からない。

怜が次の打者を三球三振に取った。

二死。

あと一つ。

最後の打者の初球は、低めの直球だった。打者は強く振った。

打球が、三塁線へ飛んできた。

速い。低い。濡れた土の上で、白球が跳ねる。

俺は走った。

一歩目の先に、蒼を探さなかった。蒼ならどうするかも考えなかった。ただ、目の前の打球から目を切らなかった。

グラブを出す。

衝撃が手のひらを叩く。

捕った。

身体を起こす。二塁走者が三塁へ向かっている。俺は一度、三塁を見た。だが、二塁の一年生がすでにベースへ入っている。送球の角度を変える。

一塁へ。

腕を振った。

ボールが雨の中を伸びていく。一塁手のミットが鳴った。

アウト。

その声は、雨音に半分飲まれた。

それでも、試合終了のサイレンは聞こえた。

怜がマウンドから降りてくる。俺の前で足を止めた。

「遅い」

「何が」

「声を出すのが」

怜はそう言って、俺の肩を軽く叩いた。蒼のように明るくはない。けれど、その手の重さは確かだった。

ベンチへ戻ると、俺は鞄を開いた。

背番号十八のユニフォームを取り出す。湿った空気の中でも、土の匂いは残っていた。

ベンチの端へ、今度は隠さずに置く。

誰も何も言わなかった。

雨に濡れた背番号が、白い照明の下でぼやけている。

俺はその前で、短く息を吐いた。

蒼。

声にはしなかった。けれど、呼んだ。

謝る言葉は、まだうまく出てこない。約束を守ったとも言えない。蒼がいないまま始まった夏を、蒼がいないまま終えただけだ。

それでも、空席を空席のまま見ていられるようになった。

背負うとは、埋めることではない。

いない誰かを、いないまま連れていくことだ。

河川敷の向こうで、雷が一度だけ鳴った。

雨は、俺たちの足跡を少しずつ消していった。  それでも、三塁線の土に残った最後の一歩だけは、なかなか消えなかった。

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