第9話 保健室記録の白

久世の手が封筒へ伸びたとき、私は反射的に名簿ファイルをその前へ置いた。

紙の束が机に触れ、乾いた音を立てた。封筒に近づきかけていた彼の指は、数センチ手前で止まった。右手の人差し指だけが、宙に残っている。

「忘れ物は、これですか」

「ええ。案内状の控えが一枚、足りなくて」

「控えなら、こちらにあります」

私は封筒の束を示した。

久世は薄く笑った。けれど、目は封筒ではなく、私が赤鉛筆で印をつけた三人の名前を見ていた。

「それは、もう確認しました」

「では、何を探しているんですか」

「探しているわけではありません。念のため、持ち帰ろうと思っただけです」

「明日の受付で使うものを?」

「一枚あれば十分でしょう。印刷所へ追加の確認を頼むことになっていて」

言葉が整いすぎていた。

私は封筒を一枚取り上げ、表と裏を確かめた。宛名の印刷、封の糊、紙の厚み。ほかの封筒と大きな違いはない。ただ、右下の角だけがわずかに丸く潰れている。何度も持ち上げ、置き直したような跡だった。

「久世さん。この封筒を、いつ触りましたか」

「同窓会の準備を始めてからです。何度も」

「今日だけで?」

「昨日も、その前も。委員ですから」

「アルバムを倉庫から出したのは?」

「先週です」

「そのとき、誰か一緒でしたか」

「何人かいたと思います」

「思います、ではなく」

久世は眼鏡を押し上げた。言葉を濁す前の仕草だった。

「記録は残していません」

「出入りの記録をつけるよう頼んだのは、久世さんではありませんか」

「倉庫の管理記録は、鍵の受け渡しを確認するためのものです。誰が何分いたかまで記すものではありません」

「それでも、アルバムに触れた人間は限られています」

「真柴さん。私はアルバムを壊していません」

「壊したとは言っていません」

「ですが、そう聞こえます」

彼の声に、初めて苛立ちが混じった。すぐにそれを隠すように、封筒の束の角を揃える。紙の端が一列に並び、白い帯のようになった。

「明日の同窓会を、これ以上混乱させないでください。昔のことを掘り返しても、亡くなった人は戻りません」

「戻すつもりはありません」

「では、何のために?」

「いなかったことにされないためです」

久世は黙った。

私はその沈黙を待たなかった。待てば、彼はまた別の言葉で包む。アルバムを布袋へ戻し、名簿ファイルを閉じた。

「封筒は、ここに置いてください」

「私を疑っているんですか」

「誰が触れたかを確認しています」

「疑うことと確認することは違うと?」

「違います。だから、順番に見ています」

久世は私を見た。目の奥に、昔の教室が一瞬だけ浮かんだ気がした。誰かが机のそばに立ち、久世がその場を収めようとしている。けれど、立っている人物の顔は見えない。声も聞こえない。ただ、久世だけが困ったように笑っていた。

「三田さんのところへ行くなら、あまり追い詰めないでください」

彼は帰り際に言った。

「奈緒を?」

「彼女は、理沙さんのことを一番近くで見ていた人間です。近くにいた人間ほど、記憶は正確ではありません」

「正確でないから、聞かないのですか」

「聞かないほうがいいこともあります」

「その判断を、誰がするんですか」

久世は答えなかった。

扉が閉じると、会議室には空調の音だけが戻ってきた。私は机の上に残った封筒を見た。紙は黙っている。けれど、黙っているものには、黙らされたものと、まだ言葉を持たないものがある。

奈緒の住所は、名簿に残っていた。

私は施設ではなく、彼女の自宅へ向かった。

外は夕方から夜へ移りかけていた。雨上がりの歩道には細い水たまりが残り、街灯の光がその中で揺れている。私は水たまりを避けながら歩いた。ひとつ越えるたびに、過去の記憶も同じように越えられる気がしたが、靴底に水が跳ねるだけだった。

三田奈緒の家は、駅から少し離れた住宅地にあった。玄関脇に、名前の分からない白い花が一輪だけ咲いている。呼び鈴を押すと、しばらくして奈緒が出てきた。

「由紀さん」

「突然ごめんなさい」

「ううん。入って」

居間には布の端切れと裁縫道具が整然と置かれていた。小さな卓上ランプの下で、縫いかけの布袋が針を刺したまま伏せられている。奈緒は私の視線に気づくと、それを裏返した。

「施設で使うもの?」

「利用者さんの部屋に置く袋。手が届くところに小物を入れておけるようにするの。自分で選べるものが少なくなった人でも、布の柄だけは選べることがあるから」

「理沙さんも、紙やリボンを集めていたと聞きました」

奈緒の指が止まった。

「誰から?」

「瀬尾さんから。文化祭の装飾に使う端紙を、写真部の暗室へ取りに来ていたそうです」

「そう。あの子、紙を捨てなかったから」

「何に使っていたんですか」

「栞にしたり、誰かに渡す小さな札にしたり。大切なことを書いて渡すほどではないけれど、何も渡さないよりはましだと思っていたのかもしれない」

「誰かに何かを伝えようとしていた?」

「理沙ちゃんは、言葉を直接渡すのが苦手だったから。相手の顔を見ると、言うべきことまで引っ込めてしまうの。だから紙に書いておけば、あとで渡せると思ったんじゃないかしら」

奈緒は棚の奥から薄い封筒を取り出した。紙の色は黄ばんでいるが、封の部分だけが何度も触られたように柔らかい。

「これ、捨てられなかったの」

封筒の中には、交換日記の切れ端が数枚入っていた。折り目が深く、開いて閉じて、また開いた跡が紙の中央に白く残っている。

理沙の字は薄れていた。それでも、行の終わりで筆圧が少し弱くなる癖が分かった。言い切ることをためらうように、最後の文字だけが細い。

最後の頁の余白には、鉛筆の押し跡が残っていた。

私は卓上ランプを近づけた。

紙の繊維がへこみ、消えた文字が光の角度によって浮き沈みする。

――四時四十分。

「保健室へ呼ばれた時間?」

奈緒は答えなかった。

「奈緒さん」

「私が知っているのは、理沙ちゃんが午後四時四十分ごろ、廊下にいたことだけ。保健室へ向かう北条先生の後ろを歩いていた。先生のすぐ後ろではなく、少し離れて。追いついてはいけないと思っているみたいだった」

「そのとき、声をかけた?」

「かけられなかった」

「なぜ?」

「理沙ちゃんが、一度振り返ったから」

「見られたのに?」

「見られたからよ」

奈緒は布の端を折った。折り目はまっすぐだったが、指先に力が入りすぎている。

「理沙ちゃんは、助けてとは言わなかった。でも、相手が何をする人間かを見る目をしていた。もし声をかけたら、私は何かを選ばなければならない。先生に逆らうのか、理沙ちゃんの側に立つのか、それとも何も知らないふりをするのか。私は最後のものを選んだ」

「そのあと、何が起きたんですか」

「分からない」

「本当に?」

「ええ。本当に知らない。けれど、そのあと教室へ戻ってきた北条先生の顔を見て、何かが決まったことだけは分かった。怒っていたわけじゃない。静かすぎた。静かな人が、もう誰にも話させないと決めたときの顔だった」

「何を決めたんですか」

「理沙ちゃんが見たことを、問題にしないこと」

「事故のこと?」

「事故は、そのあとに付いた名前よ」

その言葉が、私の中で紙の上の二つの点をつないだ。

旧校舎の掲示板に残っていた、十月十二日、午後四時四十分、保健室。

白く抜けた保健室記録。

「誰かが階段で転んだ。理沙さんはそれを見た。高村さんは、文化祭の売上金の封筒が関係していたと言っています」

奈緒の顔が強張った。

「高村くんは、そこまで話したの」

「誰かが備品か封筒を持ち出していた、と」

「売上金の封筒だった」

「知っているんですね」

「当時、文化祭の集金を担当していたのは、久世くんと高村くんと私だった。封筒の数が合わないことに、理沙ちゃんが気づいたの」

「何が入っていたんですか」

「分からない。私は見ていない」

「でも、理沙さんは見た」

「だから、余計なことを言うなと誰かに言われたの」

「誰に?」

奈緒は笑った。笑うしかないときの顔だった。

「覚えていない」

「本当に覚えていないのか、思い出さないようにしているのか、どちらですか」

「分けられないの。怖くて何度も考えないようにしてきたから、最初に見たものと、あとから聞いた話の順番が崩れている」

彼女は一度、目を閉じた。

「理沙ちゃんは、誰の名前も出していない。ただ先生に、『見たことがあります』と言った。たぶん、それだけ」

「学校は、名前のない告発を嫌がった」

「ええ。誰が何を言ったのか分からない。誰が見ているのかも分からない。だから、見た人間を黙らせればいいと思った」

「理沙さんは、誰かを売ろうとしたわけではない」

「そう。けれど、ひとりを守るために別のひとりを見捨てることも嫌がった。だから、言い方は曖昧なのに、見たことだけは引っ込めなかった。その態度が、周りには一番都合が悪かった」

「その後、理沙さんは?」

「席が変わった。文化祭の担当から外された。先生は体調の問題だと言った。高村くんは精神的な負担だろうと言った。久世くんは全体の都合だと言った。みんな違う言葉を使ったけれど、やっていることは同じだった」

「理沙さんを、教室から押し出した」

「そう」

奈緒は交換日記の切れ端を見つめた。

「それでも、あの子は来た。次の日も、その次の日も。窓側の二列目に座って、誰も見ないふりをしている黒板を見ていた。ある朝、理沙ちゃんが言ったの。『人は、書かれていないことを、なかったことにするのが上手だね』って」

私は息を止めた。

「その言葉を、覚えているんですか」

「忘れられないから」

奈緒の目に涙が浮かんだ。落ちることはなく、光だけを薄く返している。

「私は理沙ちゃんに何も返せなかった。大丈夫とも言えなかったし、違うとも言えなかった。だから、理沙ちゃんは紙に書いたの。誰かが見なかったことにしても、自分だけは忘れないように」

紙の余白には、文字にならない押し跡がいくつも残っていた。誰かの名前を書き、消し、また書いたのだろう。それでも時間と場所だけは残そうとした。

「この切れ端は、なぜ奈緒さんが持っているんですか」

「理沙ちゃんが、私の机に置いていったの」

「渡したのではなく?」

「置いていった。教科書の下に挟まっていた。栞みたいに」

「読んでほしかった?」

「分からない。でも私は受け取った。受け取ったのに、誰にも見せなかった。見せれば、理沙ちゃんが本当に何かを見ていたことになる。そうしたら、私も見ていたと認めなければならなくなるから」

奈緒は紙片を私のほうへ押した。

「持っていって」

「いいんですか」

「もう、私だけが持っている必要はないから」

「アルバムの写真を抜いたのは、奈緒さんではない?」

「抜いていないわ」

「でも、写真を抜いた人の理由を知っている?」

奈緒は長い間、答えなかった。

外を車が通り、濡れた道路をタイヤが擦る。街灯の光がカーテンの隙間から差し込み、机の上の紙片を横切った。

「写真を抜いた人は、理沙ちゃんを消したかったんじゃないと思う」

「なぜ?」

「消したいなら、名前も一緒に消すでしょう。写真だけを抜いて、名前を残すなんて。顔がなくなれば、誰かは名前を読む。どうして写真がないのか考える。あの人は、そう思ったのかもしれない」

「誰が?」

「分からない」

「久世さん?」

奈緒の視線が揺れた。

「久世くんは、場を整える人よ。アルバムを保管し、名簿を作り、問題をきれいな形へ戻そうとする。でも、写真を抜くほど大胆なことをする人ではないと思う」

「高村さんは?」

「高村くんは、手を使って紙を剥がすより、説明で人の記憶を変える人」

「北条先生は?」

「先生は、消すことを仕事だと思っていた。問題を小さくして、蓋をして、なかったことにする。でも、三十五年後に写真だけを抜く理由は分からない」

「瀬尾さんは?」

奈緒は顔を上げた。

「瀬尾くんは、ずっと理沙ちゃんの名前を探していた。写真部で、理沙ちゃんの写真を現像したのもたぶん彼。彼は写っている人間より、写真の出来を見ていた。でも、理沙ちゃんが暗室へ来たあと、何かを見たと思う」

「何を?」

「それは、瀬尾くんに聞いて」

私は紙片を手帳に挟んだ。

奈緒の家を出ると、雨はすっかり上がっていた。住宅地の道路には細い水の流れができている。私はその流れに沿って駅のほうへ歩いた。青になった信号が濡れた壁を照らし、やがて赤へ変わる。町はいつもと同じ順序で色を変えていた。

けれど私の中では、午後四時四十分という時刻が、時計の針から外れていた。

誰かが転んだ。

誰かがそれを見た。

誰かが保健室へ呼ばれた。

誰かが、記録を書かなかった。

市民会館へ戻る途中、私は瀬尾へ電話をかけた。

「保健室の記録を見ている?」

「ああ」

「何か出た?」

「出たというより、出ていない」

「日付がない?」

「十月十二日の午後だけ、記録が途切れている。前後の日は続いている。欠けた紙を別の紙で埋めた形跡もない」

「書き換えたのではなく、最初から書かれなかった」

「そういうことだ」

電話の向こうで、紙を重ねる音がした。

「それと、ネガ管理表を見つけた。三年B組の個人写真は、三十六枚の連番になっている。でも、三十五番の次が三十七番になっている」

「三十六番がない?」

「欠番だ。名簿順なら、その位置は榊原理沙になる」

私は駅前の交差点で足を止めた。

車のヘッドライトが、濡れた路面を白くなぞっていく。私の影が一瞬だけ長く伸び、次の車が通ると消えた。

「ネガそのものは?」

「ケースの中に、番号の飛んだ空きがある。誰かが抜いたのか、最初から入っていなかったのかは、まだ判定できない」

「写真も、ネガもない」

「だが、番号は残っている」

「理沙さんは、写真になった」

「少なくとも、撮影の対象だった」

瀬尾の言葉は慎重だった。けれど、私にはそれで十分だった。

理沙はいた。

写真を撮られ、座席表に書かれ、文化祭の紙を受け取り、保健室へ向かう廊下を歩いた。名前を消され、担当欄を空けられ、記録から抜かれても、彼女がいた時間まで消すことはできない。

「由紀」

「なに」

「今から、保健室記録を持って市民会館へ行く」

「私も向かう」

「奈緒から何か聞いたか」

「交換日記の切れ端を預かった。理沙さんが書いたものらしい」

「最初に紙の状態を確認する」

「瀬尾らしいね」

「紙は、書いた人間の手の震えまで残す」

「それなら、理沙さんが何を感じていたかも分かる?」

瀬尾は、すぐには答えなかった。

「分からない。だが、何を消そうとしたかは分かるかもしれない」

通話が切れた。

市民会館へ向かう道は、夜の商店街を通っていた。閉じた店のガラスに、鞄を抱えた私の姿が映る。歩き方はいつもと変わらないはずなのに、身体の内側だけが急いでいた。

紙片が鞄の中で擦れた。

――聞いたことを、聞かなかったことにしない。

これまでの私は、記録を揃えれば過去を正しく並べ直せると思っていた。名簿と写真と証言を照合すれば、失われたものの形が戻ると思っていた。

けれど、記録は人間が残すものだ。恐れた手が書き、守ろうとする手が消し、責任を避ける手が別の言葉を重ねる。そのたびに、事実は紙の奥へ押し込められる。

それでも、完全には消えない。

消した跡が残る。

書かれなかった空白が残る。

最後に紙の角を押さえた指の重さが残る。

市民会館の明かりが見えてきた。正面玄関のガラスに、夜の町と私の姿が重なっている。その背後で、青嵐高校の旧校舎が暗く沈んでいた。

私は会議室の扉を開けた。

古い空調の風が、紙と糊の匂いを運んでくる。机の上には、瀬尾が並べた保健室記録、ネガ管理表、座席表、文化祭の役割分担表があった。

すべての紙の角は、きちんと揃えられている。

ただ、中央に一枚だけ、何も書かれていない白い紙が置かれていた。

瀬尾はその紙の端を指で押さえた。

「日付が合わない」

「さっき電話で聞いた」

「いや、合わないんじゃない」

彼は保健室記録の綴じ目を示した。

「最初から、書かれてない」

理沙が保健室へ呼ばれたはずの日だけ、記録が妙に整っている。書き直した痕はない。紙を抜いた跡もない。そこにあるべき文字が、最初から置かれていなかった。

欠けているのは、文字ではない。

出来事そのものだった。

私は白い紙を見つめた。

事故と密告は、別々の噂ではなかったのだろう。誰かが傷つき、誰かがそれを見て、誰かが先生へ伝えた。その瞬間、教室全体が一人を守るのではなく、全員の体裁を守るほうへ傾いた。

理沙は痛みの中心にいたのではない。

痛みが生まれるきっかけを見てしまった。

だから言葉が消された。

だから顔が抜かれた。

だから今も、誰も同じ彼女を思い出せない。

私は名簿ファイルの背に指を当てた。紙の角は硬く、冷たかった。

消したかったのは、過去そのものなのか。

それとも、今になって過去が語られることなのか。

白い紙の上には、まだ答えがなかった。

けれど私は、そこから目を逸らさなかった。

← 横にスクロールして読み進められます

保健室記録の白 - 白紙の証言 - 誰でも作家life