第8話 言いよどむ人たち

市民会館の控室には、昼過ぎから薄い雨の匂いが入り込んでいた。
窓は閉じているのに、古い建物は外の湿気を拒まない。壁紙の継ぎ目がところどころ浮き、窓際に置かれた観葉植物の葉には、誰かが拭き取らなかった水滴が残っている。ホールでは、同窓会の受付を手伝う実行委員が、名札の紐を結び直していた。笑い声が聞こえ、椅子を引く音が続いている。
明日のための準備は、いつもどおり進んでいた。
いつもどおり、という言葉が、今は妙に薄く聞こえた。
私は控室の長机に、三十五年前の名簿の控えと卒業文集の複写、文化祭実行委員の資料を並べた。紙の端を揃え、頁番号を確かめ、資料同士の重なりを一枚ずつ直していく。
けれど、いくら整えても、紙の上の空白は埋まらなかった。
「そんなに並べると、かえって見づらくならないか」
久世修二が言った。
彼は机の向かいに座り、手持ちの封筒を膝の上で揃えていた。封筒の角を指で撫で、少しでもずれると重ね直す。その仕草は昔から変わらない。誰かが話をしている間も、彼は手元の紙を整え続ける。場に散らばったものを、一つずつ決められた位置へ戻していくように。
「見づらいかどうかは、並べてからでないと分かりません」
「それはそうだけどね」
久世は軽く笑った。
「由紀さんは、昔から確認が細かかった。提出物の数なんか、先生より先に見ていたでしょう」
「覚えているんですか」
「覚えているというほどではありません。そういう印象があるだけです」
「印象はあるのに、理沙さんの顔は覚えていない」
久世の指が止まった。
向かいの椅子では、三田奈緒が湯呑みを両手で包んでいた。湯気はもうほとんど消えている。高村清志は窓際に立ち、雨で暗くなった校庭を見ていた。白衣ではなく濃色のジャケットを着ているが、姿勢や立ち方には病院の廊下を歩くときのような落ち着きがあった。
「いきなり名前を出すんですね」
高村が窓のほうを向いたまま言った。
「名前を出すために、資料を広げました」
「資料だけで、人間の記憶を呼び戻せるとは限りませんよ」
「記憶を呼び戻したいのではありません。記録と証言がどこで食い違っているかを確かめたいんです」
私は名簿の控えを一番上へ置いた。
榊原理沙。
印刷された名前は、ほかの文字と同じ濃さで残っている。けれど、紙の表面だけがわずかに滑らかだった。誰かがその名前の上に紙を重ね、何度も指で押さえたように見える。
「理沙さんという名前を、皆さんは覚えていますか」
久世はすぐに答えなかった。
彼の沈黙は、いつも整っている。驚いたふりをする時間も、思い出そうと眉を寄せる時間もない。ただ、口を開く前に置かれた空白だけが、机の上の紙と同じようにきちんと揃っていた。
「いたような気がしますね」
やがて、彼は言った。
「三年B組に、そういう名前の人が」
「いたような、ではなく、いました」
「名簿に名前があるなら、いたのでしょう」
「久世さん自身の記憶を聞いています」
「私の記憶ですか」
彼は笑った。けれど笑みは口元だけで、目は名簿の名前から離れなかった。
「三十五年前のことです。顔や声まで鮮明に覚えている人のほうが少ないでしょう。私たちは同じクラスでしたが、全員と親しくしていたわけではない」
「理沙さんは、どの席に座っていましたか」
「さあ」
「誰と一緒にいましたか」
「それは、授業や時期によっても違いますから」
「卒業文集には、三田さんの字で、理沙さんの名前の隣に寄せ書きがあります」
奈緒の手が、湯呑みの側面を強く押さえた。
「寄せ書きなんて、みんなで書いたでしょう」
「三田さんは、理沙さんと親しかったのではありませんか」
「親しかった、というほどでは……」
「では、どういう関係でしたか」
奈緒は私を見た。
やわらかな顔立ちは、施設で人の話を聞くときと変わらない。拒絶しない。声も荒げない。ただ、核心に近づくと、言葉が急に薄くなる。
「同じクラスの子よ。よく話すこともあったし、そうでない日もあった。昔のことだから、どこまでが本当の記憶なのか、私にもよく分からないの」
「理沙さんは、転校したんですか」
「そう聞いたことはあるわ」
「誰から?」
「誰だったかしら」
奈緒は笑おうとした。しかし笑みは目に届かなかった。
「転校ではなく、しばらく休んだという話もあります」
「ええ。そういう話も」
「事故に遭ったという噂も?」
奈緒の指が、袖口へ伸びた。
布をつまみ、折り目に沿って何度も撫でる。私はその手つきを見ていた。彼女が何かを思い出しかけているとき、手は先に動く。言葉が出てくる前に、指先が記憶の入口を塞いでしまう。
「事故って、いろいろでしょう」
「階段から落ちた、自転車で怪我をした、体調を崩した。そういう話ですか」
「高校生の頃は、噂がすぐ広がるから」
「高村さんは、事故の噂が複数の経路から広がったと言いました」
高村は窓辺から戻り、椅子に座った。机の上に置かれていた湯呑みを持ち上げたが、口をつけずに戻す。
「噂というのは、発生源を一つに決められないことがあります」
「便利な言葉ですね」
「便利というより、正確です。誰かが見たこと、誰かが聞いたこと、誰かが推測したこと。それらが混ざって、ひとつの話になる。後からでは、どこまでが事実だったのか判別できない」
「だから、事故という言葉を使った?」
「事故の可能性がある、と言っただけです」
「誰に?」
「覚えていません」
「周囲の人には、事故だったと伝わった」
「それは、私の責任だけではありません」
高村の声には、初めて硬いものが混じった。けれど、その硬さはすぐに医師らしい穏やかさへ戻った。
「人は、何も分からない状態に長く耐えられないんです。誰かが倒れた、怪我をした、保健室へ運ばれた。そういう情報があれば、原因を知りたくなる。階段で足を滑らせたのか、体調が悪かったのか、誰かと揉めたのか。説明がなければ、不安は勝手に形を変えます」
「説明があれば、不安は消えますか」
「少なくとも、扱える形にはなります」
「扱える形にすることで、別の事実がこぼれることもあるでしょう」
高村は、私を見た。
「事実というのは、誰にとっても同じ形をしているわけではありません」
「記録は違います」
「記録も、人が作るものです」
「だから確認しています」
私は文化祭実行委員の資料を開いた。三年B組の役割分担表には、受付、集金、会場装飾、展示説明の欄がある。久世修二、三田奈緒、高村清志の名前が並んでいる。理沙の欄だけが空白だった。
「この資料では、理沙さんの担当欄がありません」
久世が身を乗り出した。
「文化祭の担当は、途中で変更になることがあります」
「変更の記録は?」
「残っていないでしょうね」
「変更されたなら、元の担当があったはずです」
「必ずしも、そうとは限りません」
「座席表には、理沙さんの名前がありました。消した跡も残っています」
久世の口元から、笑みが消えた。
「古い紙を見ていると、いろいろなことを想像できますね」
「想像ではありません。消し跡を確認しています」
「消し跡があるからといって、誰かが理沙さんを消そうとしたとは限らない」
「では、何を消したんですか」
「書き間違いかもしれない。席替えの修正かもしれない。資料を作った人が、後で書き直しただけかもしれない」
「何度も?」
「何度も、とは?」
「座席表では二度消されています。文化祭資料では担当欄が空白です。名簿では名前の周囲だけが摩耗している。アルバムからは写真が抜かれている。全部を別々の不手際で説明するのは、少し無理がありませんか」
久世は机の端に置かれた文集へ手を伸ばした。表紙を撫で、角を揃える。
「真柴さん。記録は、残ったものだけで人を裁くためにあるわけではありません」
「裁いていません」
「でも、誰かが消した、誰かが隠した、誰かが責任を負うべきだという方向へ話が進んでいる」
「責任の話をしているのは、久世さんではありませんか」
久世の手が止まった。
控室の外で、誰かが名札を落とした。小さなプラスチックの音がして、すぐに「すみません」という笑い声が続いた。こちらの沈黙とは関係のない、明るい声だった。
「理沙さんは、何か悪いことをしたんですか」
私は聞いた。
「どうしてそうなるんです」
「誰も彼女の顔を思い出せない。写真は抜かれ、担当欄は空白で、事故の噂だけが残っている。何かがあったなら、理沙さんが原因だったのか、それとも巻き込まれたのかを確認したい」
「原因と被害者を分けることに、意味がありますか」
「あります」
「なぜ」
「誰かを悪者にして安心したくないからです」
自分で言いながら、その言葉が自分に返ってくるのを感じた。私もまた、理沙を被害者として置くことで、自分の立つ場所を安全にしようとしているのではないか。そう考えると、紙の上の名前が急に重くなった。
奈緒が、湯呑みを机へ置いた。
「理沙ちゃんは、何も悪いことをしていないわ」
声は小さかった。
けれど、三人の中で初めて、彼女は名前に続けて断定した。
久世が奈緒を見る。高村も、眼鏡の縁へ触れながら彼女を見た。
「奈緒さん」
「ごめんなさい」
奈緒はすぐに笑った。
「今のは、忘れて。昔のことを急に思い出しただけだから」
「忘れられません」
「忘れたほうがいいこともあるのよ」
「誰が決めるんですか」
奈緒は答えなかった。
私は彼女の袖口を見た。細かな皺が寄り、指先が布の内側へ隠れている。かつて理沙の前で目をそらしたという記憶が、まだ彼女の手に残っているようだった。
「保健室には、あの日……」
奈緒が言った。
その先を、誰も急かさなかった。
彼女は一度、唇を閉じた。湯呑みの縁を見つめ、そこに映った自分の顔を確かめるように目を伏せる。
「保健室には、あの日……」
「奈緒さん」
久世の声が重なった。
強い声ではなかった。むしろ、穏やかで親切にさえ聞こえた。だが、その二音は、奈緒の言葉を止めるには十分だった。
「話すなら、順番にしたほうがいい。ここで断片だけを出しても、かえって誤解を招く」
「順番なら、私は確認できます」
私は言った。
「何がいつ起きたのか、記録と照合します」
「由紀さん、それが危険なんです」
久世は私を見た。
「断片を並べれば、ひとつの物語に見えてしまう。けれど、その物語が正しいとは限らない。人は、整った話を信じたがる。だから、分からないものは分からないままにしておく必要がある」
「分からないままにした結果が、今の空白です」
「空白があれば、すべて埋めなければいけないんですか」
「誰かを消すために作られた空白なら、埋める必要があります」
高村が湯呑みを持ち上げた。今度も口はつけなかった。
「真柴さん。理沙さんは、あなたが思っているほど単純な被害者ではありません」
「彼女が何をしたか、私はまだ知りません」
「だからこそ、慎重になるべきです。彼女は人のことをよく見ていた。誰かが隠していることにも気づいていたでしょう。見つけたことを、すぐには言わなかった。言わないまま、覚えていた」
「それは悪いことですか」
「悪いとは言っていません」
「でも、今の言い方では、理沙さんが沈黙したことにも責任があるように聞こえます」
「沈黙にも、いろいろあります。相手を守るための沈黙もあれば、自分を守るための沈黙もある。理沙さんがどちらだったのか、私は断定できない」
「高村さんは、何でも断定を避けますね」
「断定は、人を傷つけます」
「断定を避ける言葉が、人を消すこともあります」
高村は黙った。
控室の空調が、低く唸った。冷たい風が机の上の複写紙をめくり、文集の頁が一枚だけ浮いた。私は押さえようとしたが、その前に奈緒の手が伸びた。
奈緒は頁を押さえた。
文集の余白に、鉛筆で小さな丸がある。薄く消されているが、光の角度を変えると残った線が見える。
奈緒の指先が、その丸の上で止まった。
「これは、理沙ちゃんの字だと思います」
久世が顔を上げた。
「どうして分かるんですか」
「丸の始め方が同じだから。左上から入って、最後に少し重ねるの。理沙ちゃんは、文字を書くときも、線を途中で止めなかった」
「何の印ですか」
「分からない」
奈緒はそう言ってから、ゆっくり首を振った。
「分からないけれど、理沙ちゃんは、自分の見た場所や、聞いた言葉に丸をつけることがあった。忘れないように。あとで誰かに伝えるために」
「誰かに?」
「そう思っていた。でも、渡せたかどうかは覚えていない」
私は文集の頁を覗き込んだ。
丸の横には、細い鉛筆の跡が残っている。文字としては読めない。ただ、何度も消されたために、紙の表面だけが薄く荒れていた。
「奈緒さんは、理沙さんの字を覚えている」
「覚えているわ」
「さっきは、分からないと言った」
「顔は思い出せなくても、字は残ることがあるでしょう」
「どうして、名前を口にするのをためらうんですか」
奈緒は答えなかった。
彼女の視線が、文集から窓へ移る。雨はまだ降っている。ガラスを伝う水滴が、外の校舎を細長く歪めていた。夕暮れの青嵐高校は、窓の列だけを残して暗く沈んでいる。
「理沙ちゃんの名前を呼ぶと、あの頃の自分が戻ってくるの」
やがて奈緒は言った。
「何も言わなかった自分。見ていたのに、見ていないふりをした自分。あの子の隣に座っていたのに、最後には同じ方向を向かなかった自分。名前を呼ぶと、そういうものが全部戻ってくる」
「だから、思い出さないようにしていた?」
「思い出さないようにしたというより、思い出しても誰にも渡さなかった。自分の中へしまったままにしておけば、誰かを傷つけずに済むと思っていたの」
「でも、誰かを傷つけた」
奈緒の瞳が揺れた。
「そうね」
声が、ほとんど聞き取れないほど小さくなる。
「沈黙は、何もしていないように見えるでしょう。でも、何も言わないまま時間が経つと、その沈黙が一番大きな言葉になるの。あのとき私が黙ったことで、理沙ちゃんはひとりだった。久世くんが話をまとめたことで、理沙ちゃんの言葉は余計なものになった。高村くんが事故という言葉を置いたことで、みんなはそれを信じることができた。先生が問題にしなかったことで、問題そのものが存在しないことになった」
久世が椅子の背にもたれた。
「奈緒、そこまで言う必要はない」
「あるわ」
奈緒は久世を見た。
「今までなかったから、今言っているの」
久世は口を開きかけたが、何も言わなかった。いつものように、言葉を選び、場を崩さない形へ整えようとしているのが分かる。けれど今回は、選ぶための言葉が見つからないらしかった。
高村が低い声で言った。
「奈緒さん。理沙さんを思い出すことと、当時の全員を責めることは別です」
「分かっているわ」
「なら、感情だけで話を進めないほうがいい」
「感情だけではありません」
奈緒は文集の頁を指で押さえた。
「この紙も、座席表も、理沙ちゃんの名前も残っている。私たちが忘れたふりをしても、紙は忘れない。高村くんがそう言ったのではなかった?」
高村は返事をしなかった。
私は、三人の間にある距離を見ていた。
同じ教室にいた人間たち。かつては互いの家を行き来し、文化祭の準備で同じ机を囲み、卒業式で肩を並べたはずの人たち。その近さが、今はかえって遠さを際立たせている。互いの人生を知っているからこそ、知らないふりを続けるための言葉も、相手を傷つけないための沈黙も、すぐに理解できてしまう。
「事故のことを、もう少し具体的に話してください」
私は言った。
久世が顔を上げる。
「今ここで?」
「今ここで」
「何が起きたのか、誰も確かなことを言えないのに?」
「だから聞いています」
「由紀さん。あなたは、記録があれば真実に届くと思っている」
「記録だけでは届きません。だから、証言も聞いている」
「証言は人によって違います」
「違うから、照合するんです」
「照合して、合わなかったら?」
「合わないまま残します」
私は自分の声を聞きながら、以前よりも急がずに話していることに気づいた。感情を抑えているのではない。感情を紙の下へ隠さず、そこにあるものとして置こうとしていた。
「合わないものを、誰かの都合で一つに揃えるつもりはありません。でも、最初からなかったことにするのは違います」
久世は長く黙った。
その沈黙のあいだに、私は窓の外を見た。夕方の校舎は、雨に濡れて輪郭がぼやけている。窓側の二列目。そこに座っていた少女の顔は、まだ思い出せない。それでも、彼女が机の端を指でなぞり、誰かの言葉を聞いていたことだけは、少しずつ確かになっていた。
久世が、ようやく口を開いた。
「事故というのは、誰かが階段で転んだことです」
「誰が?」
「それは……」
彼の視線が、奈緒と高村の間を動いた。
「名前を出す必要はないでしょう」
「あります」
「その人は、もうこの町にいません」
「理沙さんも、もういません」
言葉が落ちたあと、控室の空調音だけが残った。
久世は目を伏せた。奈緒は唇を結び、高村は湯呑みを持ち上げたまま、今度も口をつけなかった。
「理沙さんが、誰かを突き落としたわけではない」
高村が言った。
「少なくとも、私はそう聞いていません」
「では、誰が?」
「誰が、という形にすると、また話が狭くなる」
「狭くていいんです。人ひとりが消えた話を、全体の問題に広げて薄めるよりは」
「真柴さん」
高村の声が少し低くなった。
「あなたは、自分がどこまで知っているのかを分かっていますか」
「分かりません」
「なら、今のように言い切るのは危険です」
「言い切っていません。確認したいと言っているだけです」
「でも、あなたの中ではもう、理沙さんは被害者になっている」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
私はすぐには返せなかった。
理沙は本当に被害者なのか。もし彼女が誰かの秘密を知り、誰かを追い詰め、別の誰かを傷つけていたなら。私は紙の欠落に引かれて、彼女を都合のよい位置へ置こうとしているのではないか。
けれど、写真を抜いたのは私ではない。記録から名前を薄めたのも、座席表を削ったのも、私ではない。
私が今しているのは、理沙を被害者にすることではなく、彼女が何を見て、何を見なかったのかを、本人の側へ戻すことだった。
「理沙さんが何をしたかは、まだ知りません」
私は言った。
「でも、彼女がいたことを消す理由にはなりません」
誰も答えなかった。
その日の聞き取りは、そこで終わった。
久世は立ち上がると、机の上の名簿と文集を一枚ずつ揃えた。紙の端を合わせる動きが、ひどく慣れている。乱れたものを直すことが、彼にとっては謝罪より先にできる唯一の行為なのかもしれなかった。
三田奈緒は、帰り際に文集へ手を伸ばした。
理沙の名前が載った頁を、指先でそっと撫でる。
「奈緒さん」
私は呼び止めた。
彼女は振り返らなかった。
「理沙さんは、本当にいたんですね」
奈緒の肩が、小さく上下した。
「いたわ」
その声は、今まで聞いたどの返事よりもはっきりしていた。
「ずっと、いた。私たちが見ないようにしていただけ」
奈緒はそれだけ言うと、文集から手を離した。
扉が閉まり、彼女の足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。久世と高村も、少し間を置いて控室を出た。三人の靴音は、それぞれ違う速さで廊下を進んだ。
私はひとり残り、机の上の資料を見つめた。
名簿の名前。
文集の余白。
座席表の消し跡。
文化祭資料の空欄。
それらはまだ、一つの結論へはつながっていない。けれど、同じ方向へ向いている。理沙は、もともと輪郭の薄い人間だったのではない。周囲が彼女の輪郭を薄くすることで、何かを守ろうとしたのだ。
何かとは、理沙自身かもしれない。
久世たち自身かもしれない。
学校という場所の体面かもしれない。
私は文集の頁を閉じた。
閉じる直前、余白の小さな丸が目に入った。消されかけた線が、紙の中でまだ途切れていない。
見た人が、見なかったことにする。
理沙の声ではない。けれど、そう書かれた紙を見た人間として、私はもう知らないふりをできなかった。
控室の照明を落とすと、窓の外の夕暮れが濃くなった。雨に濡れた青嵐高校の校舎は、記憶の底から浮かび上がる古い写真のように見える。
私は名簿の端を揃え、理沙の名前の横へ赤鉛筆で小さな印をつけた。
今度は、消すためではない。
ここに残っていることを、私自身が確認するために。
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