第7話 封筒の指先

同窓会の受付が始まる一時間前、市民会館の裏口には、紙の擦れる音が低く溜まっていた。

表では、久世が手配した業者が長机を運び、ホールの照明を確かめている。誰かの笑い声が壁を越えて届き、すぐに空調の唸りへ吸い込まれていった。明日のための準備は滞りなく進んでいる。名札は五十音順、案内状は出席者ごと、座席表は来賓席を除いて一列ずつ。紙の上では、すべてが決められた場所に収まっていた。

倉庫脇の小さな卓に、私は同窓会案内の封筒と卒業アルバムを並べた。

封筒の束は角が揃っている。けれど、中央に一枚だけ、折り目の浅いものがあった。封を開けた跡ではない。持ち上げては戻し、戻してはまた持ち上げたような、迷いのある折れ方だった。

私はそれを裏返した。

宛名は三田奈緒。印刷された住所に誤りはない。封の糊も剥がれていない。ただ、右下の角だけが丸く潰れていた。誰かの指が、そこを何度も押さえたらしい。

私は封筒を脇へ置き、卒業アルバムを開いた。

三年B組の個人写真の頁には、榊原理沙という名前だけが残っている。名前の上にあるはずの顔は、白い四角に抜け落ちていた。

写真の欠けた部分は、明るすぎた。周囲の紙は黄ばんでいるのに、そこだけが時間から外れたように白い。私は頁の端を押さえ、空白の周囲を覗き込んだ。古い糊の層が薄く残り、その上に、後から紙を差し込んだような細い擦れがある。

誰かが、少しずつ剥がした。

写真を破ったのではなく、顔の部分だけを、紙から取り外した。

そのとき、裏口の扉が開いた。

「真柴さん」

岩永慎一だった。濃い色の上着を着て、片手に手帳を持っている。彼は挨拶をしなかった。まず足元を見、それから倉庫の扉、卓の位置、私が置いたアルバムの向きを順番に確認した。

「こちらです」

「触らないでください」

私は手を引いた。

岩永は封筒にもアルバムにも触れず、卓の周囲を一周した。扉から卓までの距離を目で測り、倉庫の鍵穴を覗き、廊下の監視カメラの向きを確かめる。動作に無駄がない。感情を読む代わりに、物の位置を読んでいる。

「発見したのは、何時ですか」

「午前十一時四十分です。受付の準備を始める前に、資料を確認していました」

「その前に、この部屋へ入った人は」

「久世さんが昨日、アルバムを運び込んでいます。今朝は私が最初です」

「確実ですか」

「少なくとも、私はそう聞いています」

「聞いた記録は」

「ありません」

岩永は手帳を開き、短く書き込んだ。

「鍵は」

「久世さんが管理しています。予備鍵は会館事務室にあります」

「入退室の記録は」

「倉庫については、ありません」

「それなら、現時点で分かるのは、昨日から今日の午前十一時四十分までのどこかで、誰かが触れた可能性がある、ということです」

「写真が抜かれた時期は、もっと前だと思います」

岩永は初めてアルバムを見た。

「理由を」

「頁の糊が古いからです。剥がされたあと、さらに押さえ直されています。昨日今日の作業なら、糊の浮き方がもっと新しいはずです」

「それは、瀬尾さんの見立てですか」

「私も確認しました。瀬尾さんに見てもらう予定です」

「予定ではなく、もう呼んであるんですか」

「来ます」

岩永は、答えを急かさなかった。手帳の余白に、また一行書いた。

「アルバムの破損だけなら、器物損壊の可能性を調べます。ただ、写真がなくなった時期が古い場合、現在の保管状況と直接結びつかないこともあります」

「それでも、誰かが触れています」

「はい。そこは分けて考えます。古い工作と、最近の接触。順番が違えば、意味も変わります」

その言葉を聞いたとき、私はようやく、胸の奥に張りつめていたものが少しだけ緩むのを感じた。岩永は理沙のことを聞かない。彼女が誰だったのか、なぜ私がそこまで気にするのかも聞かない。ただ、写真が消えたという事実を、消えた順番の中へ置こうとしている。

「封筒も、関係があると思います」

私は浅い折り目のある一枚を示した。

「この封筒だけ、何度も持ち直した跡があります。アルバムを触った人間が、案内状にも触れた可能性があります」

「可能性はあります」

岩永は封筒を見たが、手を伸ばさなかった。

「指紋を確認します。誰のものか特定できるとは限りませんが、重なり方は見られる」

「重なり方?」

「一番上にある指紋と、その下にある指紋。誰が最後に触ったかを、必ずしも特定できるわけではありません。ただ、触った順番が推測できることはある」

紙の上にも、順番がある。

そのとき、裏口の外から自転車のブレーキ音がした。瀬尾修一が、濡れた髪を手の甲で払いながら入ってくる。作業用の鞄を肩から下げ、眼鏡を中指で押し上げた。

「現物は」

「挨拶より先に?」

「紙は待たない」

瀬尾は作業台に近づいたが、アルバムへ手を伸ばす前に手を洗った。携帯用の布を広げ、ルーペと薄い定規を置く。道具の位置はいつも決まっているらしく、少しでもずれると彼は無意識に直した。

岩永が一歩下がった。

「確認をお願いします」

「警察に頼まれる筋ではない」

「頼んでいません。確認できる人間に確認してもらうだけです」

「同じことだ」

瀬尾は空白の頁を開いた。

親指で紙の厚みを確かめ、次に抜き取られた部分の縁をルーペで覗く。しばらく沈黙したあと、彼はアルバムを閉じずに言った。

「これは自然には剥がれない」

「理由は?」

岩永が尋ねた。

「写真の台紙だけがない。頁の繊維は切れていない。糊が劣化しただけなら、角や端に浮きが残る。ここは違う。古い糊を薄く起こしている」

「起こす?」

「薄い定規か刃物を、写真と頁の間に入れた。力を一度にかけず、何度も差し込んだ。紙目に沿って、少しずつ剥がした跡だ」

瀬尾は定規の先を空白の縁へ近づけた。触れはしない。

「乱暴な人間なら、もっと紙を傷める。これは傷めたくなかったんじゃない。写真だけを持ち去りたかった」

「いつごろですか」

「剥がした時期は、これだけでは分からない。ただ、剥離面の糊が一度乾いている。その上に新しい擦れがある。写真を貼ってすぐではない。かなり時間が経ってから、一度剥がされた」

「かなり、とは」

「少なくとも数年単位だ」

私は封筒を見た。折り目の浅い紙が、卓の端で黙っている。

「アルバムを倉庫へ運ぶ前に、誰かが抜いた?」

「そう考えるのが自然です」

瀬尾は頁を閉じた。

「ただし、抜いたあとで頁を押さえ直している。写真がないことを、すぐには気づかせたくなかったらしい」

「それなら、なぜ名前を残したんですか」

私が聞くと、瀬尾は私を見た。

「顔を消したかったからだろう」

「名前ではなく?」

「名前を消すには、もっと大きな改変が必要になる。印刷された文字を削れば、頁そのものが傷つく。写真だけなら、外しても名前は残る」

「それは、理沙さんを消したかったということ?」

「分からない」

瀬尾の声が低くなった。

「ただ、名前まで消す気がなかったのは確かだ。消したかったのが人間なのか、顔なのか、顔に結びついた記憶なのかは、まだ決められない」

岩永が手帳を閉じた。

「写真を抜いた人物を、今の時点で推測しないでください。古い資料を扱う人間は、全員が触れる可能性を持っています。まず、現在の接触者を整理します」

「久世さんがアルバムを運び込んだ」

「はい」

「久世さんは、理沙さんの名前を聞いたとき、顔を覚えていないと言いました」

「それは証言ですか」

「私が聞いた範囲では」

「記録しておいてください。言葉を正確に」

岩永はそう言い、封筒の束を指した。

「この案内状は、誰が発送しましたか」

「久世さんが名簿を作って、印刷会社へ渡したと聞いています。封入は実行委員で分担しました」

「榊原さん宛ての封筒はありますか」

「ありません」

「最初から?」

「はい。出席者名簿にも、欠席者名簿にも、住所不明者の欄にもありません」

岩永は封筒を見たまま、短く息を吐いた。

「写真の欠落と、案内名簿からの欠落。時期が同じとは限りませんが、同じ人物に関係する記録の変化です」

「岩永さんは、これを一つの事件だと思いますか」

「まだ思いません」

「では、何だと?」

「複数の記録に、同じ名前の周囲だけ異常がある。そこまでです」

淡々とした言葉だった。けれど、その限定の仕方に、私はかえって信頼を覚えた。物語を急いで完成させず、空白を空白のまま置いておく。岩永はそれができる人だった。

「ただ」と彼は続けた。「明日の同窓会で、写真の欠落を話題にするつもりなら、先に決めてください。人前で名前を出すなら、聞き取りではなく告発に近づきます」

「告発ではありません」

「そう思っていても、聞く側はそう受け取ることがあります」

「なら、何も言わないほうがいいんですか」

「私に聞かれても困ります」

岩永は、初めて少しだけ表情を緩めた。

「ただ、記録を残すことと、人の前で結論を言うことは別です。まず残してください。結論は後でいい」

瀬尾が、封筒の一枚を指で示した。

「これは、誰が折った?」

岩永が視線を向ける。

「同窓会案内の封筒です」

「封筒を作った人間じゃない。折り目のつき方が違う。ほかは封をしたあと、机の上で一度押さえただけ。この一枚は、封をする前に角をつまんでいる」

「なぜ分かるんですか」

「糊の乾き方が、折れた場所だけ違う。折ったあとに封をしたんだろう。封筒の中身を確かめるために、一度開こうとしたか、何かを入れ直した」

私は封筒の宛名を見た。

三田奈緒。

胸の奥に、名前が細く沈んだ。

「奈緒さんの封筒です」

瀬尾の指が止まった。

「本人が触った可能性は?」

「あります。ほかの人間が触った可能性もあります」

岩永はそう言ったが、視線は封筒の折り目から離れなかった。

そのとき、ホールのほうから拍手が起きた。誰かが音響機器を試したらしい。短い拍手はすぐに途切れ、あとには空調と紙の匂いだけが戻ってきた。

懐かしい顔を並べるための会場で、私たちはまだ、誰の顔も見つけられていない。

瀬尾はアルバムを布袋へ戻した。角を揃え、袋の口を折り、最後に一度だけ、空白の頁がある場所を手のひらで押さえた。

「由紀」

「何?」

「写真を抜いた人間は、見つけてほしくなかったのかもしれない」

「さっきは、見つからないようにしたと言った」

「見つからないようにする人間は、普通、名前も消す。顔だけを抜いて、空白を残すのは、隠し方としては中途半端だ」

「では、何のために?」

瀬尾はすぐには答えなかった。

「気づかせるためかもしれない。顔がないことで、名前を読む人間がいる。顔があれば、見て終わる。空白なら、どうしてないのか考える」

「誰かが、気づいてほしかった?」

「分からない。ただ、紙の傷は、隠すためだけにできた傷ではない」

岩永が手帳をしまった。

「その推測は、記録とは分けてください」

「分けている」

「なら、書いてください」

瀬尾は少しだけ岩永を見た。やがて無地のノートを取り出し、短く書き始めた。

私はその横顔を見ながら、自分の鞄から赤鉛筆を取り出した。

名簿の理沙の名前に、今度は印をつけなかった。

名前を囲めば、そこだけを特別なものにしてしまう気がした。けれど、何もしなければ、また見えない場所へ沈んでしまう。

私は名前の横に、小さく日付を書いた。

今日、ここで確かめた。

榊原理沙の写真は、自然に消えたのではない。

誰かが、時間をかけて抜き取った。

岩永が帰ったあと、会場の照明が順番に点いた。夕方の窓に、青嵐高校の古い校舎が映っている。使われていない教室の窓は暗く、夕日の残りだけがガラスの奥で薄く光っていた。

私はアルバムを抱え直した。

理沙の名は、まだここにある。

顔はない。

けれど、白い空白は何もない場所ではなかった。そこには、剥がすために費やされた時間があり、紙を押さえた指の重さがあり、消そうとして消しきれなかった意志が残っている。

会場を出る前に、私は一枚の封筒をもう一度見た。

三田奈緒宛て。

浅い折り目。

何度も持ち直した指先。

その折り目が誰のものか、まだ分からない。

分からないままでも、見なかったことにはしない。

私は封筒を名簿の一番上へ置いた。紙の端を揃え、指で軽く押さえる。

その小さな音が、閉じた部屋の中でひどくはっきり響いた。

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