第6話 保健室記録の欠け

久世の手が、封筒へ伸びた。

私は反射的に、その前へ名簿ファイルを置いた。紙の束が机に触れ、乾いた音を立てる。久世の指は封筒から数センチ離れたところで止まった。

「忘れ物は、これですか」

「ええ。案内状の控えが一枚、足りなくて」

「控えなら、こちらにあります」

私は封筒の束を指した。久世は笑った。けれど、目は封筒ではなく、私が赤鉛筆で印をつけた三人の名前を見ていた。

「それは、もう確認しました」

「では、何を探しているんですか」

「探しているわけではありません。念のため、持ち帰ろうと思っただけです」

「明日の受付で使うものを?」

「一枚あれば十分でしょう。印刷所へ追加の確認を頼むことになっていて」

言葉は整っていた。整いすぎていた。

私は封筒を一枚取り上げ、表と裏を確認した。宛名の印刷、折り目、封の糊。ほかのものと変わりはない。ただ、右下の角だけが、わずかに丸く潰れている。何度も持ち上げ、置き直したような跡だった。

「久世さん」

「はい」

「この封筒を、いつ触りましたか」

「同窓会の準備を始めてからです。何度も」

「今日だけで?」

「昨日も、その前も。委員ですから」

「アルバムを倉庫から出したのは?」

「先週です」

「そのとき、誰か一緒でしたか」

「何人かいたと思います」

「思います、ではなく」

久世は、眼鏡を押し上げた。彼が言葉を濁すときの仕草だった。

「記録は残していません」

「出入りの記録をつけるよう頼んだのは、久世さんではありませんか」

「倉庫の管理記録は、鍵の受け渡しを確認するためのものです。誰が何分いたかまで記すものではありません」

「それでも、アルバムに触れた人間は限られています」

「真柴さん。私はアルバムを壊していません」

「壊したとは言っていません」

「ですが、そう聞こえます」

彼の声に、初めて苛立ちが混じった。すぐにそれを隠すように、封筒の束の角を揃える。

「明日の同窓会を、これ以上混乱させないでください。昔のことを掘り返しても、亡くなった人は戻りません」

「戻すつもりはありません」

「では、何のために?」

「いなかったことにされないためです」

久世は黙った。

私はその沈黙を待たなかった。待てば、彼はまた別の言葉で包む。私はアルバムを袋に戻し、名簿ファイルを閉じた。

「封筒は、ここに置いてください」

「私を疑っているんですか」

「誰が触れたかを確認しています」

「疑うことと確認することは、違うと?」

「違います。だから、順番に見ています」

久世はしばらく私を見た。その目の奥に、昔の教室の光景が一瞬だけ浮かんだ気がした。誰かが机のそばに立ち、久世がその場を収めようとしている。けれど、どちらの顔もはっきりしない。

「三田さんのところへ行くなら、あまり追い詰めないでください」

彼は帰り際にそう言った。

「奈緒を?」

「彼女は、理沙さんのことを一番近くで見ていた人間です。近くにいた人間ほど、記憶は正確ではありません」

「正確でないから、聞かないのですか」

「聞かないほうがいいこともあります」

「その判断を、誰がするんですか」

久世は答えなかった。

扉が閉じると、会議室には空調の音だけが戻ってきた。私は机の上に残った封筒を見た。紙は黙っている。けれど、黙っているものには、黙らされたものと、まだ言葉を持たないものがある。

奈緒の住所は、名簿に残っていた。

施設ではなく、自宅へ向かった。

外は夕方から夜へ移りかけていた。雨上がりの道に、街灯の光が細く滲んでいる。歩道脇の水たまりには、雲の切れ端と電線が揺れていた。私はその上を避けながら歩いた。ひとつの水たまりを越えるたび、過去の記憶も同じように越えられる気がしたが、実際には靴底に水が跳ねるだけだった。

奈緒の家は、駅から少し離れた古い住宅地にあった。玄関脇に、名前の分からない白い花が一輪だけ咲いている。呼び鈴を押すと、しばらくして奈緒が出てきた。

「由紀さん」

「突然ごめんなさい」

「ううん。入って」

居間には、布の端切れや裁縫道具が整然と置かれていた。小さな卓上ランプの下で、縫いかけの布小物がひとつ、針を刺したまま伏せられている。奈緒は私の視線に気づくと、それを裏返した。

「施設で使うもの?」

「利用者さんの部屋に置く袋。手が届くところに小物を入れておけるようにするの。自分で選べるものが少なくなった人でも、布の柄だけは選べることがあるから」

「理沙さんも、紙やリボンを集めていたと聞きました」

奈緒の指が、机の上で止まった。

「誰から?」

「瀬尾さんから。文化祭の装飾に使う端紙を、暗室へ取りに来ていたそうです」

奈緒は小さく息を吐いた。笑おうとしたが、口元だけが動いた。

「そう。あの子、紙を捨てなかったから」

「何に使っていたんですか」

「栞にしたり、誰かに渡す小さな札にしたり。大切なことを書いて渡すほどではないけれど、何も渡さないよりはましだと思っていたのかもしれない」

「誰かに、何かを伝えようとしていた?」

「理沙ちゃんは、言葉を直接渡すのが苦手だったから。相手の顔を見ると、言うべきことまで引っ込めてしまうの。だから、紙に書いておけば、あとで渡せると思ったんじゃないかしら」

奈緒は立ち上がり、棚の奥から薄い封筒を取り出した。紙の色は黄ばんでいたが、封の部分だけが何度も触られたように柔らかい。

「これ、捨てられなかったの」

彼女は封筒を私の前に置いた。

「交換日記の切れ端。全部は残っていないけれど」

中から出てきたのは、数枚の紙を切り離したものだった。折り目が深い。開いて、閉じて、また開いた跡が紙の中央に白く残っている。

理沙の字は薄れていた。

それでも、文字の間に彼女の癖があった。行の終わりで少しだけ筆圧が弱くなる。言い切ることをためらうように、最後の文字が細くなる。

最後の頁だけ、端が潰れていた。誰かが急いで折り、隠そうとしたように見える。

「何が書いてあるんですか」

「読めるところだけ」

奈緒は紙を私のほうへ押した。

そこには、誰かの名前も、出来事の説明もなかった。

――聞いたことを、聞かなかったことにしない。

その一行の下に、鉛筆の押し跡だけが残っている。書かれた文字は消えているのに、紙の繊維がへこんでいた。私は斜めからランプの光を当てた。線の一部が浮かび上がる。

――四時四十分。

その下は、何度も擦られていた。

「理沙さんの字ですか」

「たぶん」

「たぶんではなく、見覚えがあるかどうかを聞いています」

奈緒は、紙から目を離さなかった。

「理沙ちゃんの字よ。丸のつけ方も、数字の四の書き方も。ただ、これは日記じゃない。あとから書き足したものだと思う」

「保健室へ呼ばれた時間?」

奈緒は答えなかった。

「奈緒さん」

「私が知っているのは、理沙ちゃんが午後四時四十分ごろ、廊下にいたことだけ。保健室へ向かう北条先生の後ろを歩いていた。理沙ちゃんは先生のすぐ後ろではなく、少し離れていた。まるで、追いついてはいけないと思っているみたいに」

「そのとき、声をかけた?」

「かけられなかった」

「なぜ?」

「理沙ちゃんが、一度振り返ったから」

「見られたのに?」

「見られたからよ」

奈緒は、指先で布の端を折った。

「理沙ちゃんは、助けてとは言わなかった。でも、相手が何をする人間かを見る目をしていた。私はその目に耐えられなかった。もし声をかけたら、私は何かを選ばなければならない。先生に逆らうのか、理沙ちゃんの側に立つのか、それとも何も知らないふりをするのか。私は最後のものを選んだ」

「理沙さんは、保健室で何を?」

「知らない」

「本当に?」

「ええ。本当に知らない。けれど、そのあと教室へ戻ってきた先生の顔を見て、何かが決まったことだけは分かった。先生は怒っていたわけではない。むしろ、静かすぎた。静かな人が、もう誰にも話させないと決めたときの顔だった」

「北条先生は、何を決めたんですか」

「理沙ちゃんが見たことを、問題にしないこと」

「事故のこと?」

「事故は、そのあとに付いた名前よ」

私は交換日記の切れ端を、両手で挟んだ。紙がかすかに温かい。奈緒の家の空気と、長くしまわれていた記憶の湿気を吸っている。

「誰かが階段で転んだ。理沙さんはそれを見た。高村さんは、文化祭の売上金の封筒が関係していたと言っています」

奈緒の顔がわずかに強張った。

「高村くんは、そこまで話したの」

「誰かが備品か封筒を持ち出していた、と」

「売上金の封筒だった」

「知っているんですね」

「当時、文化祭の集金を担当していたのは久世くんと高村くんと私だった。封筒の数が合わないことに、理沙ちゃんが気づいたの」

「理沙さんが?」

「ええ。あの子は、金額よりも数の違いを見ていた。封筒が一つ多い。中身が入っていないのに、裏側だけが膨らんでいる。そういう小さなことを見つけた」

「何が入っていたんですか」

「分からない。私は見ていない」

「でも、理沙さんは見た」

「だから、余計なことを言うなと誰かに言われたの」

奈緒はそこで笑った。笑うしかないときの顔だった。

「誰に?」

「覚えていない」

「また記憶が曖昧になる」

「曖昧にしているんじゃない。怖くて、何度も考えないようにしてきたから、順番が崩れているの」

「理沙さんが保健室へ呼ばれたのは、密告したと思われたから?」

「理沙ちゃんは、誰の名前も出していない。ただ、先生に『見たことがあります』と言った。たぶん、それだけ」

「それだけで?」

「学校は、名前のない告発をいちばん嫌がるのよ。誰が何を言ったのか分からない。誰が見ているのかも分からない。だから、見た人間を黙らせればいいと思った」

奈緒の声は低くなった。

「理沙ちゃんは、誰かを売ろうとしたわけじゃない。けれど、ひとりを守るために別のひとりを見捨てることも嫌がった。だから、言い方が曖昧だった。曖昧なのに、見たことだけは引っ込めなかった。その態度が、周りにはいちばん都合が悪かった」

「その後、理沙さんはどうなったんですか」

「翌日から席が変わった。文化祭の担当から外された。先生は体調の問題だと言った。高村くんは、精神的な負担があったんだろうと言った。久世くんは、全体の都合だと言った。みんな、違う言葉を使ったけれど、やっていることは同じだった」

「理沙さんを、教室から押し出した」

「そう」

奈緒は交換日記の切れ端を見つめた。

「それでも、あの子は来た。次の日も、その次の日も。窓側の二列目に座って、誰も見ないふりをしている黒板を見ていた。ある朝、理沙ちゃんが私に言ったの。『人は、書かれていないことを、なかったことにするのが上手だね』って」

私は息を止めた。

「その言葉を、覚えているんですか」

「忘れられないから」

奈緒の目に、初めて涙が浮かんだ。落ちはしなかった。そこに溜まったまま、光を薄く反射している。

「私は、理沙ちゃんに何も返せなかった。大丈夫とも言えなかったし、違うとも言えなかった。だから、理沙ちゃんは自分で紙に書いたの。誰かが見なかったことにしても、自分だけは忘れないように」

紙の余白には、文字にならない押し跡がいくつも残っていた。理沙は何かを書き、消し、また書いたのだろう。誰かの名前を書くことをためらいながら、それでも時間と場所だけは残そうとした。

「この切れ端は、なぜ奈緒さんが持っているんですか」

「理沙ちゃんが私の机に置いていった」

「渡したのではなく?」

「置いていったの。私が戻ったとき、教科書の下に挟まっていた。栞みたいに」

「読んでほしかった?」

「分からない」

「奈緒さん」

「分からないけれど、私は受け取った。受け取ったのに、誰にも見せなかった。見せれば、理沙ちゃんが本当に何かを見ていたことになる。そうしたら、私も見ていたと認めなければならなくなるから」

私は、紙片をそっと机へ置いた。

「アルバムの写真を抜いたのは、奈緒さんではない」

「ええ」

「でも、理沙さんの写真が消えることを、奈緒さんは望んでいない」

「望んでいないわ」

「なら、誰かが抜いた理由を知っている?」

奈緒は長い間、答えなかった。

外で車が通り、濡れた道路をタイヤが擦る音がした。窓の向こうの街灯が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。その光が、机の上の紙片を横切った。

「写真を抜いた人は、理沙ちゃんを消したかったんじゃない」

「同じことを言っていましたね」

「そうね」

「誰に見つけてほしかったんですか」

奈緒は、唇を結んだあと、ゆっくりほどいた。

「写真の顔が残っていたら、誰かは理沙ちゃんの顔だけを見て終わる。でも、顔がないと、名前を読むでしょう。名前を読んで、どうして写真がないのか考える。あの人は、そう思ったのかもしれない」

「誰が?」

「分からない」

「久世さん?」

奈緒の視線が揺れた。

「久世くんは、アルバムを保管していた。名簿を作った。場を整えるのが得意だった。でも、写真を抜くほど大胆なことをする人ではないと思う」

「高村さん?」

「高村くんは、言葉で消す人よ。手を使って紙を剥がすより、説明で人の記憶を変える」

「北条先生は?」

奈緒は目を閉じた。

「先生は、消すことを仕事だと思っていた。問題を小さくして、蓋をして、なかったことにする。けれど、三十五年後にアルバムを開いて、写真だけを抜く理由があるのかは分からない」

「では、瀬尾さんは?」

奈緒は顔を上げた。

「瀬尾くんは、ずっと理沙ちゃんの名前を探していた」

「写真部のネガを?」

「ええ。理沙ちゃんの写真を現像したのは、たぶん瀬尾くんだった。彼は、写っている人間より、写真の出来を見ていた。でも、理沙ちゃんが暗室へ来たあと、何かを見たと思う」

「何を?」

「それは、瀬尾くんに聞いて」

私は交換日記の切れ端を封筒へ戻した。奈緒は最後の頁を私に渡す前に、一度だけ指で端を撫でた。紙を撫でるというより、そこに残った時間を確かめるような仕草だった。

「持っていって」

「いいんですか」

「もう、私だけが持っている必要はないから」

「この紙が、理沙さんの存在を証明するとは限りません」

「証明しなくていいの」

奈緒の声は、静かだった。

「理沙ちゃんがいたことを、証明するためだけに残したんじゃない。私が見ていたことを、私が見なかったことにしないために残したの。由紀さんがそれをどう使うかは、あなたが決めて」

私は紙を受け取った。

その重さはほとんどなかった。けれど、鞄へ入れると、底に何か硬いものを置いたように感じた。

奈緒の家を出ると、雨はすっかり上がっていた。住宅地の道路には、雨水が細い溝を作っている。私はその流れに沿って駅のほうへ歩いた。道の先にある信号が青になり、向かいの建物の壁を淡く照らす。青が消えると、また赤が灯る。町はいつもと同じ順序で色を変えていた。

けれど私の中では、午後四時四十分という時刻が、時計の針から外れていた。

誰かが転んだ。

誰かが見た。

誰かが保健室へ呼ばれた。

誰かが、記録を書かなかった。

市民会館へ戻る途中、私は瀬尾へ電話をかけた。

「保健室の記録を見ている?」

「ああ」

「何か出た?」

「出たというより、出ていない」

「日付がない?」

「十月十二日の午後だけ、記録が途切れている。前後の日はきれいに続いている。欠けた一枚を別の紙で埋めた形跡もない」

「書き換えたのではなく、最初から書かれなかった」

「そういうことだ」

瀬尾の声の向こうで、紙を重ねる音がした。

「それと、ネガ管理表を見つけた。三年B組の個人写真は、三十六枚の連番になっている。でも、三十五番の次が三十七番になっている」

「三十六番がない?」

「欠番だ」

「理沙さんの番号?」

「まだ分からない。だが、名簿順で並べると、三十六番に当たる位置が榊原理沙になる」

足が止まった。

駅前の交差点を、車が何台も通り過ぎていく。ヘッドライトが濡れた路面を白くなぞり、私の影を一瞬だけ長く伸ばした。

「ネガそのものは?」

「ケースの中に、番号の飛んだ空きがある。誰かが抜いたのか、最初から入っていなかったのかはまだ判定できない」

「写真も、ネガもない」

「だが、番号は残っている」

「理沙さんは、写真になった」

「少なくとも、撮影の対象だった」

瀬尾の言葉は慎重だった。けれど、私にはそれで十分だった。

理沙はいた。

写真を撮られ、座席表に書かれ、文化祭の紙を受け取り、保健室へ向かう廊下を歩いた。名前を消され、担当欄を空けられ、記録から抜かれても、彼女がいた時間まで消すことはできなかった。

「由紀」

瀬尾が呼んだ。

「今から、保健室記録を持って市民会館へ行く」

「私も向かう」

「奈緒から何か聞いたか」

「交換日記の切れ端を預かった。理沙さんの書いたものらしい」

「読むなとは言わない。ただ、最初に紙の状態を確認する」

「瀬尾らしいね」

「笑うな。紙は、書いた人間の手の震えまで残す」

「それなら、理沙さんが何を感じていたかも分かる?」

瀬尾は、すぐには答えなかった。

「分からない。だが、何を消そうとしたかは分かるかもしれない」

電話が切れた。

市民会館へ向かう道は、夜の商店街を通っていた。閉じた店のガラスに、私の姿が映る。片手に鞄、もう片方に名簿ファイル。歩き方はいつもと変わらないはずなのに、身体の内側だけが急いでいた。

紙の切れ端は、鞄の中で小さく擦れた。

――聞いたことを、聞かなかったことにしない。

私はその言葉を、声に出さずに繰り返した。

これまでの私は、記録を確かめれば、過去を正しく並べ直せると思っていた。名簿と写真と証言を揃えれば、失われたものの形が戻ると思っていた。

けれど、記録は人間が残すものだ。恐れた手が書き、守ろうとする手が消し、責任を避ける手が別の言葉を重ねる。そのたびに、事実は紙の奥へ押し込められる。

それでも、完全には消えない。

消した跡が残る。

書かれなかった空白が残る。

誰かの指が、最後に紙の角を押さえた跡が残る。

市民会館の明かりが見えてきた。正面玄関のガラスに、夜の町と私の姿が重なっている。その背後で、青嵐高校の旧校舎が暗く沈んでいた。

私は鞄の中の交換日記を確かめた。

そのとき、遠くで救急車のサイレンが鳴った。音は町の通りを曲がりながら近づき、やがて別の方向へ遠ざかっていく。誰かの痛みを運ぶ音だった。けれど、サイレンが去ったあとに残るのは、何が起きたのか分からない静けさだけだ。

保健室の記録も、同じだった。

そこに何かがあった。

けれど、記録はその出来事を運ばず、空白だけを残した。

私は市民会館の扉を開けた。古い空調の風が、紙と糊の匂いを運んでくる。会議室の奥では、瀬尾が資料を机に並べていた。保健室記録、ネガ管理表、座席表、文化祭の役割分担表。

すべての紙の角は、きちんと揃えられている。

ただ、真ん中に一枚だけ、何も書かれていない白い紙が置かれていた。

私はその紙を見た。

白い紙は、何も語らない。

けれど、何も語らないこと自体が、誰かの判断の結果である場合がある。

瀬尾は紙束から顔を上げた。

「日付が合わない」

「さっき電話で聞いた」

「いや、合わないんじゃない」

彼は保健室記録の綴じ目を指で押さえた。

「最初から、書かれてない」

私は白い紙の前に立った。

理沙が保健室へ呼ばれたはずの日だけ、記録が妙に整っている。書き直した痕はない。紙を抜いた跡もない。そこにあるべき文字が、最初から置かれなかった。

欠けているのは、文字ではない。

出来事そのものだった。

そして私は、ようやく分かった。

事故と密告は、別々の噂ではなかった。誰かが傷つき、誰かがそれを見て、誰かが先生へ伝えた。その瞬間に、教室全体が一人を守るのではなく、全員の体裁を守るほうへ傾いたのだ。

理沙は痛みの中心にいたのではない。

痛みが生まれるきっかけを見てしまった。

だから、彼女の言葉が消された。

だから、顔が抜かれた。

だから、今も誰も同じ彼女を思い出せない。

私は名簿ファイルの背に指先を当てた。紙の角は硬く、冷たかった。

消したかったのは、過去そのものなのか。

それとも、今になって過去が語られることなのか。

答えはまだ、白い紙の上に置かれていなかった。

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