第5話 言いよどむ顔

聞き込みは、過去の輪郭を浮かび上がらせるのではなく、むしろ曇らせた。

旧校舎の物置から戻ったあと、私は市民会館の控室で、久世修二に電話をかけた。雨はまだ細く降り続いていた。窓ガラスを伝う水滴が、外の景色を縦に引き伸ばしている。文化祭の資料に残っていた「午後四時四十分。保健室」という文字が、目を閉じても消えなかった。

受話器の向こうで、久世はすぐに出た。

「真柴さん。旧校舎へ行かれたそうですね」

「誰から聞いたんですか」

「学校の用務員から。鍵を貸した以上、管理上の報告が必要ですから」

いつもの穏やかな声だった。けれど、話の入り口からこちらの行動を把握していることが、少しだけ気に障った。

「座席表と文化祭の役割分担表を見つけました。理沙さんの名前が、書かれたあとに消されています」

「そうですか」

「驚かないんですね」

「驚くべきことかどうかは、まだ判断できません。古い資料ですし、何度も人の手を経ています」

「座席表に、二重の消し跡がありました。消したあと、さらに消そうとしている。偶然ではありません」

「真柴さんは、紙の傷に意味を見つけるのがお得意だ」

褒めているようで、そこにはわずかな牽制があった。

「紙に残った傷を、意味がないと言うほうが難しいと思います」

「意味は、見る人間がつけるものです」

「では、久世さんは何を見ましたか」

沈黙が置かれた。

久世の沈黙は、いつも整っている。机の上に書類を並べるように、言葉の前へ一定の空白を置く。その空白の長さまで、自分で管理しているようだった。

「三十五年前のことを、今になって細部まで思い出すのは難しいでしょう」

「細部ではなく、理沙さんがいたかどうかを聞いています」

「卒業名簿に名前があるなら、いたのでしょう」

「あなた自身の記憶では?」

「……いましたよ。たぶん」

「たぶん、ですか」

「真柴さん。人の記憶に、書類と同じ精度を求めないでください。私は学級委員でしたから、名簿上の人数や提出物は覚えています。でも、一人ひとりの顔や声まで、同じ濃さで残っているわけではない」

「理沙さんの名前は、同窓会の名簿から抜けています」

「連絡先が分からなかったのでしょう」

「誰が確認したんですか」

「さあ。昔の名簿をもとに、分かる範囲で作っただけです」

「久世さんが作ったのでは?」

今度の沈黙は、先ほどより長かった。

「私ひとりで作ったわけではありません」

「ひとりで責任を負いたくない、という意味ですか」

「そういう言い方をされると困りますね。共同作業ですから。連絡先を知っている人がいれば書き足し、分からなければ保留にする。それだけの話です」

「理沙さんの欄には、保留の印もありません」

「それは、記入漏れでしょう」

「記入漏れにしては、きれいすぎます」

「きれい、ですか」

「名前の周囲に余白がありすぎるんです。誰かが書き忘れたというより、最初から書かないことに決めたように見えます」

久世は小さく息を吐いた。笑い声ではなかったが、笑って済ませようとするときの息遣いに似ていた。

「真柴さんは、昔からそうでしたね。誰かが悪意を持ってしたことと、ただの不手際を、同じ重さで見ようとする」

「不手際で人が消えることもあります」

「それは少し大げさです」

「写真が抜かれ、名簿から名前が消え、資料の担当欄が空白になっている。これを大げさと呼ぶなら、どこからが問題なんですか」

「問題にすることで、誰かが救われるんですか」

その問いは、私の手元に置かれた紙束へ向けられたように聞こえた。

「少なくとも、いなかったことにはされません」

「理沙さんが、いなかったことにされたと決めつけるのは早い」

「では、どう呼べばいいんですか」

「記録の不備です」

「久世さんは、何でも名前を変えますね」

電話の向こうで、何かを机へ置く音がした。紙の角を揃えたのだろう。久世は昔から、答えにくい話をするときほど、手元の書類を整えた。

「言葉を荒くすれば、真実に近づけるわけではありません」

「言葉を柔らかくすれば、傷が消えるわけでもありません」

返事はなかった。

私は電話を切ったあと、しばらく受話器を見つめた。久世の家へ向かうことにした。声だけでは、彼の沈黙の形を十分に測れなかった。

外へ出ると、雨は止みかけていた。濡れた歩道に街路樹の枝が黒く伸び、風が吹くたび、水滴が細かく落ちてくる。私は傘を開かず、駅の裏手にある久世の家まで歩いた。

市役所に勤める彼の家は、古い分譲地の一角にあった。玄関脇には宅配便の封筒が並び、表札の下には小さな植木鉢が左右対称に置かれている。門扉の内側まで、何かの規則で整えられていた。

久世は玄関先で私を迎えた。電話のときと同じように、話す前に軽く笑った。

「わざわざ来なくても、電話で済んだでしょうに」

「電話では、紙の角が見えませんから」

久世の笑みが、わずかに固まった。

通された居間には、封筒の束と古い連絡網が置かれていた。封筒は宛名の向きがすべて同じで、連絡網は上から下まできれいに揃っている。私は椅子に座る前に、その中の一枚に目を留めた。

昭和六十三年度、三年B組。

端が折れた名簿の控えだった。

「それをどこで?」

「市役所の資料整理で出てきたものです。私物ではありません」

「でも、手元にある」

「同窓会の準備に使うため、借りてきただけです」

久世は名簿を取り上げ、表紙を閉じた。動作は丁寧だったが、閉じる速度だけが少し速い。

「理沙さんの名前を、ここでも消したんですか」

「消していません」

「では、なぜ欄の周囲だけ紙が滑らかなんです」

「古い資料ですから」

「旧校舎の座席表では、理沙さんの名前が二度消されています。文化祭の担当表でも、欄だけが空いている。アルバムの写真もない。これだけ重なると、偶然では説明しにくいと思います」

「資料というのは、後からいくらでも意味を持ちます。作られた当時の事情を知らなければ、消し跡ひとつで誰かを責めることはできません」

「私は誰かを責めているのではありません。何が起きたのかを聞いているんです」

「同じことですよ」

久世は一度、窓の外へ目を向けた。庭の水たまりに、雲の切れ間が薄く映っている。

「何かを問うとき、人は答えだけを欲しがります。でも、当時は答えが一つに決まっていなかった。いろんな話があって、いろんな人がいて、それぞれに言い分があった。私たちは、その場を壊さないように整理しただけです」

「整理することで、理沙さんを外した?」

「外したのではありません。話を大きくしなかった」

「誰にとってですか」

「全員にとってです」

「理沙さんも、その全員の中に入っていましたか」

久世の指が、膝の上でゆっくり組み直された。

「真柴さんは、何かを一人の被害者と、周囲の加害者に分けたいんでしょう。でも、現実はそんなに単純ではない。理沙さんにも、見ていたことがあった。知っていたことがあった。誰かを守るために黙ったこともあったはずです」

「だから、彼女が消えても仕方なかった?」

「そうは言っていません」

「では、何を言っているんですか」

声が少し大きくなった。私はそれを自覚して、いったん言葉を飲み込んだ。怒りをそのまま投げれば、久世の防壁に当たって跳ね返るだけだ。

「久世さん。あなたは、理沙さんのことを覚えている」

「……」

「顔を覚えていないなら、それでもいい。でも、何を見ていたかは覚えている。だから、名前を出すたびに、話を全体の問題に広げる。理沙さんの輪郭をぼかすことで、あなた自身の立つ場所もぼかしている」

久世は笑わなかった。

「あなたは、変わりましたね」

「変わっていません。見過ごしたことを、見過ごしたままにできなくなっただけです」

「それは、変わったということですよ」

彼の家を出るころには、雨は完全に上がっていた。けれど空は明るくならず、濡れた道路が夕方の光を鈍く返していた。駅前から介護施設へ向かうバスに乗り、私は窓際の席に座った。

町の景色が、濡れたガラス越しに流れていく。商店街の看板、閉じかけた薬局、歩道を急ぐ学生たち。どれも現在のものなのに、窓に映った私の顔だけが、三十五年前の廊下を重ねていた。

奈緒は、久世よりも早く話してくれるかもしれない。そう思っていた。けれど、彼女が何を知っているかを考えると、胸の底に別のためらいが生まれた。

親友だった人間から、親友の記憶を聞き出すことは、問い詰めることとどこが違うのだろう。

施設の休憩室で、三田奈緒は一人、布の端切れを折っていた。小さな花柄の布を二つ折りにし、指先で端を撫で、また開いて折り直す。利用者の衣服の補修に使うものだという。

「久世さんに会ってきたの」

奈緒は手を止めた。

「そう」

「理沙さんの話を聞いた」

「何て言っていたの?」

「事故で休んだんじゃないか、と」

奈緒は、ほうじ茶の入った紙コップを両手で包んだ。もう温度は残っていないらしい。それでも手を離さない。

「転校したって、聞いたことはあるの」

彼女はそう言ってから、自分で首を振った。

「違う。転校したんじゃない。少なくとも、私はそう聞いていない」

「では、何を聞いたんですか」

「聞いたというより、みんながそういう顔をしていたの。理沙ちゃんの名前を出すと、誰も返事をしない。先生も、久世くんも、高村くんも。返事をしないから、こっちが勝手に考える。もう来ないのかな。辞めたのかな。家の都合かなって」

「三田さんは、理沙さんと親しかった」

「親しかった、と思う」

「思う?」

「今さらそう言うのも、怖いのよ。親友だったと言えば、どうして助けなかったのかと聞かれるでしょう。親友ではなかったと言えば、理沙ちゃんと過ごした時間まで嘘になる」

「では、どちらですか」

奈緒は私を見た。目が合ったあと、ほんの少しだけ視線が外れた。

「両方だったんじゃないかしら。親友だったのに、守れなかった。だから、親友だったという言葉が、私には少し重いの」

私は黙って待った。

奈緒は、布を折る手を再び動かした。折り目をつけるたび、布の中に小さな音がこもる。

「理沙ちゃんは、人のことをよく見ていた。声の大きい人より、黙っている人のほうを気にしていた。誰かが笑っていても、その笑い方がおかしいと分かるの。だから、余計なことを言わないで、と何度も言われた」

「理沙さんが、奈緒さんに?」

「ううん。自分に言っていたのかもしれない。見えても言わない。分かっても近づかない。そうすれば、誰も傷つかないと思っていたのかも」

「理沙さん自身が?」

「そう。あの子は、誰かを責めることが苦手だったから」

「事故の日、何があったんですか」

奈緒の指が止まった。

休憩室の外で、職員が利用者の名前を呼んでいる。呼ばれた女性が、返事をするまでに少し時間をかけた。奈緒はその声を聞きながら、紙コップの縁を親指でなぞっていた。

「事故という言葉は、あとから出てきたの」

「最初は違った?」

「最初は、誰かが転んだ、という話だった。文化祭の準備中に、二階の踊り場で。私はその場にいなかった。でも、理沙ちゃんが保健室へ連れていかれたと聞いた」

「理沙さんが怪我をした?」

「そうではない。理沙ちゃんじゃないわ」

言葉が、胸の中でひとつ落ちた。

「では、誰が?」

奈緒は答えなかった。私は彼女の手元を見た。布の端が、強く折られている。爪が食い込み、花柄の布に小さな影ができていた。

「誰かが転んだのではなく、誰かを転ばせた?」

「そういうことでは……」

「三田さん」

「由紀さん。記憶は、古くなると順番が変わるの。最初に見たものと、あとから聞いた話が混ざって、どれが自分の記憶なのか分からなくなる。だから、私は断定できない」

「高村さんは、事故の噂があったと言っていました」

「高村くんは、分からないことを説明するのが上手だった」

「説明で、記憶を変えた?」

「変えたというより、置き場所を決めたの。これは事故。これは体調不良。これは生徒同士のいざこざ。そうやって名前をつけると、みんな安心するでしょう」

「理沙さんは安心しなかった」

「うん」

奈緒は、ようやく顔を上げた。

「理沙ちゃんは、名前をつけられるのを嫌がっていた。痛いことを痛いと言うのはいい。でも、痛みを見ないために、別の名前をかぶせるのは嫌だって。そう言っていた」

「何を見ていたんですか」

「誰かが、先生に話を持っていったの」

「密告ですか」

奈緒の表情が硬くなった。

「その言葉を、理沙ちゃんは使わなかった」

「誰が先生に?」

「理沙ちゃんが、誰かのことを話したと思われた」

「実際には?」

「理沙ちゃんは、誰の名前も出していない。ただ、見たことをメモしていた。誰がいつ、どこで、何を言ったか。余白に小さく書いていたの。自分のために、忘れないように」

私は、旧校舎で見た座席表の丸を思い出した。

「そのメモは、残っていますか」

「分からない」

「三田さんは見た?」

「見た」

「どこにあるか知っている?」

「知らない」

「本当に?」

奈緒は唇を結んだ。目の奥で、何かが揺れた。

「知っていたら、私はもっと早く取り戻していた」

「取り戻す?」

「理沙ちゃんの記憶を。誰かのものとしてではなく、理沙ちゃん自身のものとして」

その声には、怒りが混じっていた。私に向けたものではない。三十五年前の自分へ向けた、遅すぎる怒りだった。

「でも、私は何もしなかった。先生に呼ばれた理沙ちゃんが、廊下の端で立っていた。私はそのそばを通った。理沙ちゃんは、私を見た。助けて、とは言わなかった。でも、あの子はいつも、助けてと言う前に相手の顔を見ていた。私がどうする人間か、確かめていたんだと思う」

「奈緒さんは、どうしたんですか」

「目をそらした」

言葉のあとに、長い沈黙があった。

「そのあと、理沙ちゃんの席が変わった。窓側の二列目から、後ろの端へ。誰が決めたのかは分からない。先生は席替えだと言った。久世くんは、授業の都合だと言った。高村くんは、理沙ちゃんが落ち着かないからだと言った。でも、全部あとからつけた理由だった」

「その席替えは、記録に残っています」

「ええ」

「消されていました」

奈緒は目を閉じた。やがて、紙コップを机の上へ置いた。

「理沙ちゃんは、消される前から、もう自分が消え始めていることに気づいていたと思う」

「だから、写真を抜いた?」

奈緒はゆっくり首を振った。

「私が抜いたと思っているの?」

「そうは言っていません」

「でも、疑っている」

「アルバムに触れられた人間を、順番に確認しています」

「そうね。由紀さんは、そういう人だもの。紙の端が少しずれていれば、誰かがずらした理由を探す。忘れ物があれば、誰がいつ置いたか確かめる。そうしないと眠れない」

「眠れないのは、私だけではありません」

奈緒の表情がわずかに崩れた。

「そうね」

彼女はしばらく私を見たあと、机の引き出しを開けた。中から、薄い封筒を取り出す。封筒は何度も開閉されたらしく、口の部分が柔らかくなっていた。

「これを見せるつもりはなかったの」

「理沙さんのもの?」

「たぶん」

奈緒は封筒から、小さな紙片を一枚取り出した。栞のように細長く切られている。端には、青いリボンの柄がかすかに残っていた。

紙片の裏に、鉛筆で短い言葉が書かれている。

――見た人が、見なかったことにするから、残しておく。

私は息を止めた。

「理沙さんの字ですか」

「そうだと思う」

「どうして、今まで出さなかったんですか」

「怖かったのよ。これを出せば、理沙ちゃんが最後まで何かを見ていたことになる。そうしたら、私が何を見て、何を黙ったかも、隠せなくなるから」

「奈緒さんは、アルバムを抜いていない?」

彼女は紙片を私の手の中へ置いた。

「抜いていないわ」

「理沙さんの写真を、持っていない?」

「持っていない。持っていたら、たぶん捨てられなかった」

「では、誰が?」

奈緒は答えなかった。

窓の外で、雨上がりの風が木の葉を揺らしている。葉の裏に溜まっていた水が、一度に落ちて地面を暗く染めた。

「分からない。でも、写真を抜いた人は、理沙ちゃんを消したかったわけじゃないと思う」

「どうして?」

「消したいなら、名前も一緒に消すでしょう。写真だけを抜いて、名前を残すなんて、そんな中途半端なことをする人は……」

「中途半端ではないかもしれません」

「ええ。そうね」

奈緒は紙片の文字を見つめた。

「誰かに見つけてほしかったのかもしれない。理沙ちゃんがいたことを、顔の代わりに空白で知らせるために」

施設を出ると、空は夕方の色に変わっていた。雲の切れ間から差した光が、濡れた道路を細く照らしている。私はバス停まで歩きながら、紙片を手帳に挟んだ。

次に会う高村清志は、病院の夜勤を終えたあと、駅前の喫茶店にいるという。

喫茶店へ向かう道は、川沿いに続いていた。雨水を含んだ土の匂いが、風に混ざっている。川面には夕焼けが伸び、流れに沿って細くほどけていた。私はその光を見ながら、記憶も同じなのかもしれないと思った。

誰かが見たものは、その人の中に残る。

けれど、別の誰かの言葉が上から重なると、元の形は分からなくなる。完全に消えるわけではない。ただ、どの光が最初だったのかを見失う。

高村は、窓際の席で医学雑誌を読んでいた。白衣の匂いをまだ少し残し、ページの角をきっちり揃えてから本を閉じた。

「久しぶりですね、真柴さん」

「理沙さんのことを聞きに来ました」

「分かっています」

「誰から?」

「三田さんからではありません。あなたが来るなら、いずれ私のところにも来ると思っていただけです」

「あなたは、何でも先回りして説明しますね」

「説明が必要な場合もあります」

「事故の噂について、詳しく聞かせてください」

高村は、店員へ水を頼み、運ばれてきたグラスを指先でゆっくり回した。

「事故という言葉は、当時の状況を正確には表していません」

「では、なぜそう言ったんですか」

「事故の可能性があったからです」

「誰の?」

「榊原さんに関わる出来事です」

「出来事、と言い換えましたね」

「人の記憶は、言葉によって不用意に傷つきます。だから、診断と同じで、確認できた範囲だけを話すべきです」

「あなたは確認できた範囲だけを話している?」

「そう努めています」

「では、確認したことを言ってください」

高村は眼鏡の縁に触れた。

「十月十二日の午後、校内で生徒が倒れた。正確には、倒れたという証言があった。保健室へ運ばれた。そこに榊原さんが関わっていた。彼女が何をしたのか、何を見たのかは、私は確認していません」

「でも、事故だと言った」

「倒れたという情報があれば、まず事故を考えるのが自然です」

「誰が倒れたんですか」

「それは……」

高村の口元に、いつもの笑みが戻りかけて、途中で止まった。

「その点は、記憶が曖昧です」

「転んだ生徒と、理沙さんは別人ですか」

「そう聞いています」

「誰から?」

「北条先生です」

初めて、明確な名前が出た。

「先生は、理沙さんが誰かを突き落としたと言ったんですか」

「そこまでは言っていません。ただ、文化祭の準備中に、危険な場所へ立ち入った生徒がいたと」

「理沙さんが?」

「彼女が見ていた、と。誰かが屋上階段の踊り場で、学校の備品を持ち出していた。理沙さんはそれを見て、止めようとしたらしい」

「備品を?」

「文化祭の売上金が入った封筒です」

私は、旧校舎で見た文化祭資料を思い出した。受付、会場装飾、集金。久世、奈緒、高村の名前が並んでいた役割分担表。

「誰が持ち出したんですか」

「そこまでは知りません」

「理沙さんは、密告した?」

「密告という言葉は適切ではありません」

「また言葉を整える」

「密告は、悪意を持って誰かを売る行為です。理沙さんは、先生に相談しようとしただけかもしれない」

「その相談が、誰かにとっては密告だった」

「そういう受け取られ方をした可能性はあります」

「あなたは、その場にいた?」

「いません」

「では、なぜそこまで詳しいんですか」

高村は黙った。

店内に、カップを置く音が響いた。隣の席の客が新聞を折り畳み、椅子を引く。日常の音が、会話の周囲に薄い壁を作っていた。

「私は、保健室から呼ばれた北条先生に会いました」

高村はようやく言った。

「先生は、理沙さんが過呼吸のような状態だと言っていた。息が浅く、手が震えている。何かを見たことに動揺していたのかもしれません」

「その記録はありません」

「保健室の記録は、すべてが残るわけではない」

「残らないことと、残さないことは違います」

「真柴さん」

「あなたは、その場で理沙さんを診たんですか」

高村はグラスから手を離した。

「診ていません。高校生の私は、まだ医師ではなかった。知識も十分ではない。ただ、先生がそう話していたことを、あとで聞いただけです」

「誰から?」

「北条先生です」

「先生は、理沙さんが事故の原因だと言った?」

「原因ではなく、関係している、と」

「それは同じようなものです」

「違います。関係していることと、責任があることは違う」

「でも、あなたは事故という言葉を周囲に伝えた」

「不確かな噂が広がっていたから、余計な誤解を抑えたかった」

「抑えた?」

「理沙さんが誰かを突き落とした、という話まで出ていた。私は、それは違う、事故の可能性があるだけだと説明した」

「その説明が、理沙さんが事故を起こしたという形で残った」

「結果として、そうなったのかもしれません」

「結果として、では済まないでしょう」

高村の表情が初めて崩れた。怒りというより、説明の道具を失った人間の顔だった。

「では、どうすればよかったんですか。何も分かっていないのに、全員の前で断定しろと言うんですか。理沙さんは潔白だ、誰も悪くない、全部嘘だと? そんなことを言えば、別の誰かが責められた。学校は混乱し、文化祭は中止になり、保護者が騒ぎ、先生の責任が問われる。私は、何かを止めようとしたんです」

「止めたのは噂ですか。それとも、真実ですか」

高村は答えなかった。

「あなたは、理沙さんが何を見たかを知っていた」

「知りません」

「知ろうともしなかった?」

「知ろうとしたら、もっと多くの人間が傷ついた」

「だから、理沙さんひとりに痛みを集めた」

「そういう言い方は……」

「違うなら、違うと言ってください」

高村の指先が、机の上で小さく震えた。やがて彼は、震えを隠すようにグラスを持ち上げた。水はもう残っていない。

「理沙さんは、人が見ないようにしているものを見ていた。そういう子でした」

今度の言葉は、これまでより低かった。

「だから、周囲は彼女を怖がった。誰かを責める子ではない。むしろ、責めずに覚えている子だった。あの年齢では、それがいちばん怖いんです。自分がしたことを、誰かが怒鳴りもせず、ただ見ている」

「理沙さんは、誰かを告発しようとしていた?」

「告発という言葉は強すぎます」

「では、何ですか」

「残そうとしたんです。自分が見たことを。紙に書いて、誰かに渡そうとした」

「誰に?」

「分かりません」

「また分からない」

「本当に分からないんです。彼女が何枚かの紙を持っていたことは覚えています。でも、その紙を誰かに渡したか、どこへ置いたかまでは……」

「写真部の暗室へ来たことは?」

高村は、わずかに目を細めた。

「瀬尾から聞いたんですね」

「瀬尾さんは、紙を取りに来た理沙さんを覚えていました」

「そうですか」

「あなたは覚えていなかった?」

「覚えていました。ただ、理沙さんの顔を思い出せない人間が、紙を取りに来たことだけ覚えていると言えば、余計に不自然でしょう」

「不自然でも、事実なら話すべきでした」

「事実は、いつも人を救うとは限りません」

「それでも、事実は残すべきです」

「あなたは、そう言い切れるんですか」

高村の問いが、私の胸に刺さった。

私は一瞬、言葉を失った。自分もまた、あの廊下で目をそらした。理沙だったかもしれない誰かを、見ないまま通り過ぎた。

高村は私の沈黙を見ていた。医師のように、相手の変化を観察する目だった。

「真柴さんも、何か思い出しているんでしょう」

「思い出したことと、そうでないことを分けています」

「分けることで、安心できますか」

「安心するために分けているのではありません。誰かの説明を、自分の記憶だと思い込まないためです」

「それは、賢いやり方ですね」

「賢いのではなく、遅すぎるだけです」

喫茶店を出ると、夕暮れはほとんど夜へ移っていた。川沿いの道に街灯が点き、濡れた舗道に淡い円を作っている。私はその円から次の円へ歩いた。光と光の間には短い闇があり、そこへ入るたび、記憶の輪郭も一度消えた。

久世は、全体を守るために個人を薄めた。

奈緒は、親友を守れなかった罪悪感を抱え、沈黙を手放せずにいる。

高村は、説明によって混乱を抑えようとし、その説明が別の現実を作った。

誰も完全な嘘を言っていない。

だからこそ、真実へ近づくほど、足元が不安定になった。

市民会館へ戻ると、受付机の上に同窓会の案内封筒が並んでいた。私はその中から一枚を取り上げ、裏返した。封の折り目に、浅い筋が残っている。指でなぞると、紙の表面がわずかに毛羽立っていた。

誰かが何度も持ち直した跡。

久世の家で見た封筒の角。

旧校舎の資料を探した、誰かの手。

私は封筒を名簿の横へ置いた。

記録は、誰かの記憶より正確だ。

けれど記録もまた、人の手を通らなければ残らない。手を通るたび、少しずつ押さえられ、削られ、整えられる。

その結果、残った名前だけが、かろうじて理沙の存在を支えていた。

私は名簿の端を揃え、赤鉛筆で三人の名前の横に小さく印をつけた。

久世修二。

三田奈緒。

高村清志。

印をつけた瞬間、彼らを容疑者として並べたような気がして、胸の奥に嫌な冷たさが走った。だが、これは断罪ではない。言葉の揺れを、揺れたまま記録するための印だ。

そのとき、会議室の外で足音が止まった。

扉の向こうに、誰かが立っている。

私は顔を上げた。

「真柴さん」

久世の声だった。

「まだ帰っていなかったんですね」

「久世さんも」

「忘れ物を取りに来ただけです」

「何を?」

「案内封筒を一枚」

彼は扉を開けた。視線は私ではなく、机の上の封筒へ向いた。

私はそれを見ていた。

久世の手が、封筒へ伸びる。

その指先が、空白の頁を見つけたときのように、ほんのわずかに震えた。

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