第4話 旧校舎の物置

翌朝、潮見市には薄い雨が降っていた。

雨と呼ぶには細すぎる水滴が、窓ガラスに斜めの筋を作っている。市民会館へ向かう人の傘はまだ少なく、商店街のシャッターも半分ほどしか開いていなかった。同窓会の受付までには時間がある。けれど私は、昨夜からほとんど眠れずにいた。

榊原理沙の名前が、頭の中で紙の上を滑り続けていた。

名簿。卒業文集。写真の空白。保健室の記録。どれも理沙の存在を証明している。なのに、証明しようとするほど、本人の輪郭は遠ざかっていく。

瀬尾から電話があったのは、朝の八時を少し過ぎたころだった。

「旧校舎へ行く」

挨拶の代わりに、彼はそう言った。

「ネガが見つかったの?」

「まだだ。だが、物置の鍵を借りられる」

「どこから?」

「北棟の管理をしている用務員に頼んだ。古い文化祭資料が残っているらしい」

「今から行くの?」

「今からでなければ、今日の同窓会が始まる」

電話の向こうで、紙をめくる音がした。瀬尾は何かを確認しながら話しているらしい。

「由紀。昨日、お前が見つけた余白の丸を覚えているか」

「文集の『窓側、二列目』?」

「それだけじゃない。あの書き込みは、印刷された本文の余白にある。誰かが文集を作る前に書いたものじゃない。配布されたあと、教室で書かれた」

「理沙さんの席が、窓側の二列目だったということ?」

「断定はしていない。ただ、座席表と照合できる可能性がある」

「何か見つかると思う?」

「見つかるかどうかは、行ってから決める」

瀬尾の返事はいつも、期待を拒む形をしている。それでも彼が自分から旧校舎へ行こうと言うときは、すでに何かを見つけているのと同じだった。

私は鞄に古い名簿の控えと赤鉛筆を入れた。雨具を手に取り、図書館の裏口から出る。歩道には雨が薄く溜まり、車が通るたび、灰色の水が縁石へ押し寄せた。

青嵐高校までは、図書館から歩いて二十分ほどだった。

校門の前を通ると、現在の校舎から吹奏楽部の音が漏れてきた。トランペットの音がひとつだけ外れ、雨の空に長く伸びる。生徒たちは傘を畳みながら、濡れた靴底で昇降口を行き来していた。彼らの声は明るく、どれも今の時間に属している。

私はその脇を通り、校舎の裏へ回った。

旧校舎は、現在の校舎と渡り廊下でつながっている。けれど、渡り廊下の先には立入禁止の札が下がっていた。札の端は雨を吸って反り返り、赤い文字の一部が剥がれている。

瀬尾は、その札を見てから、持っていた鍵束を確かめた。

「立入禁止だと書いてあるけれど」

「物置の中身を処分するために、管理上は入っていいことになっている」

「それは、入っていいのか入ってはいけないのか、どちら?」

「学校の文書は、だいたいそういう書き方をする」

彼は鍵をひとつ選び、錠前へ差し込んだ。

金属が固く噛み、二度目でようやく回った。扉を開けると、冷えた空気が内側から流れ出てきた。湿気と埃、それから長く人の手が触れていない木材の匂いが混じっている。

私は一歩入った。

窓ガラスのいくつかは割れたままで、雨が吹き込んだ跡が床に黒く残っていた。壁際には古い机、壊れた掲示板、使われなくなった掃除道具が積まれている。奥にある物置の扉は、現在の校舎から外された部品や資料を押し込むために使われているらしかった。

「紙の墓場みたい」

私が言うと、瀬尾は返事をしなかった。

彼は物置へ近づく前に、床を見ていた。埃の上には、靴跡がいくつか重なっている。新しいものはない。雨の日に誰かが入ったなら、もっと濃い跡が残るはずだった。

「どうしたの?」

「ここ数日は、誰も入っていない」

「それが分かるの?」

「埃の上に水滴の跡がない。今朝の雨なら、靴底から落ちる。昨日の夜も降っていた」

「では、誰かが資料を持ち出したのはもっと前?」

「持ち出したとはまだ言っていない」

瀬尾はそこで一度黙り、私を見た。

「ただし、何かを探した人間はいる」

物置の中には、箱が乱雑に並んでいた。なのに、乱雑さの中に不自然な整いがある。棚の一番下だけ、箱と箱の間に指一本分の隙間が空いていた。その隙間の埃が、ほかより薄い。

私は屈み、箱の側面に貼られたラベルを読んだ。

「文化祭実行委員会。昭和六十三年度」

「三十五年前だ」

瀬尾が箱を引き出した。紙の底が棚板を擦り、乾いた音がした。

蓋を開けると、色褪せた模造紙、役割分担表、出し物の企画書、名札の束が重なっていた。文化祭のテーマを書いた紙には、太いマジックで「風の向こうへ」とある。文字の脇に、誰かが小さく描いたリボンの絵が残っていた。

私は一枚ずつ資料を机代わりの木箱へ移した。濡れないように、折れ目を伸ばしながら端を揃える。瀬尾は資料の内容より先に断面を確認していた。

「ここ、切り直してある」

彼は座席表の束を取り出し、端を爪で弾いた。

「断裁の癖が違う。元の紙を切ったあと、別の刃物で一度だけ整えている」

「資料を作り直した?」

「全部じゃない。一部分だけだ」

「何のために?」

「そこを確認する」

瀬尾は座席表を裏返した。

クラス全員の名前が書かれた座席表だった。窓、黒板、教卓、出入口。手書きの線は薄く、ところどころ雨染みのような汚れがある。私は名簿の控えを取り出し、三年B組の名前を順に照合した。

榊原理沙。

座席表の窓側二列目に、その名前があった。

ただし、鉛筆で強く塗りつぶされている。

消したあと、さらに別の鉛筆で薄く書き直したような跡があった。紙目の奥に、いくつもの線が残っている。消しゴムの白いかすが、名前の周辺に細かな粒となって挟まっていた。

「二重に消している」

「二重?」

「最初に名前を消した。あとで、消した跡そのものを消そうとした」

瀬尾は、座席表を光のほうへ傾けた。

「でも、紙は忘れない。鉛筆の芯が押し込んだ溝は、表面を擦っても残る」

「これが理沙さんの席?」

「座席表にはそう書いてある」

「それだけ?」

「記録としては、それだけだ」

私は座席表を見つめた。紙の上では、理沙は窓側の二列目に座っている。そこから教室の窓が見え、黒板の左端も見える。誰かが教室へ入ってくるたび、顔を上げなくても靴音で分かる位置だ。

私の記憶の底で、窓際の机に指を置く少女の姿が揺れた。

少女は、誰かに呼ばれていた。

けれど、返事をしなかった。

私は思わず座席表の角を押さえた。

「何か思い出した?」

「まだ、何も」

「まだ?」

「思い出したような気がするだけ。確かめられない記憶は、事実として扱えない」

「お前は、記憶まで資料整理するのか」

「整理しないと、誰かの話に引っ張られる」

「その通りだ」

瀬尾は短く言った。

「だが、何も思い出せないことを、何もなかったことと一緒にするな」

その言葉に、私は顔を上げた。

「それは、瀬尾自身にも言っている?」

彼はすぐには答えなかった。眼鏡のブリッジに指を当て、視線を座席表へ戻す。

「俺は、理沙が暗室に来たことを覚えている」

「理沙さんが?」

「何度か来た。写真部の部員じゃなかったから、正式には入れないことになっていた。でも、文化祭の装飾用に余った紙を受け取りに来た。端紙や、失敗した印画紙を欲しがった」

「何に使うの?」

「分からない。栞にすると言っていた気がする。あるいは、誰かに渡すための札を作るとか」

「どうして、それを昨日言わなかったの」

「聞かれなかったからだ」

「理沙さんのことを覚えているか、と聞いた」

「顔や声の話だと思った」

「同じことではない?」

瀬尾は座席表を箱の上に置いた。

「違う。人間は、顔を思い出せなくても、紙を取りに来たことは覚えている。手の動きや、物を置く場所だけ覚えていることもある。俺が覚えているのは、理沙が暗室の入口で立ち止まって、入っていいか聞かなかったことだ」

「聞かなかった?」

「入ってはいけない場所だと知っていたからだ。扉の前で、俺が気づくまで待っていた。俺が手を止めると、初めて入ってきた」

「何を話したの?」

「たいした話じゃない。余った紙がほしいと言った。理由を聞いたら、誰かの名前を書いて渡す、と言った」

「誰の名前?」

「聞かなかった」

「どうして?」

瀬尾の指が、座席表の端で止まった。

「当時は、それが聞いてはいけないことだと思ったからだ」

「聞いてはいけない?」

「理沙は、困っている人の話を勝手にしなかった。だから、俺も聞かなかった。今考えれば、それは配慮じゃない。面倒を避けただけだ」

物置の外で、風が窓枠を鳴らした。雨粒が割れたガラスの縁から入り、床に小さな黒い点を作る。

「瀬尾は、理沙さんが誰かを助けようとしていたと思う?」

「分からない」

「また分からないと言う」

「分からないものを分かったふりで埋めるのは、高村のやり方だ」

声は低かったが、そこには珍しく苛立ちが混じっていた。

「俺はもう、そういう説明をしたくない。理沙が誰かを助けようとしたのか、何かを見ていたのか、俺には決められない。決められるのは、ここに名前が書かれていて、あとから消されたということだけだ」

「名前が消された理由は?」

「それも、まだ分からない」

「でも、誰かが消した」

「紙の状態は、そう言っている」

瀬尾は箱の底から、文化祭の役割分担表を取り出した。そこには、模造紙の裁断、会場装飾、受付、音響、展示説明などの担当が並んでいる。三年B組の欄には、久世修二、三田奈緒、高村清志の名前があった。

榊原理沙の欄だけが空いている。

けれど、空白の横に、薄い鉛筆の丸が残っていた。

私はその丸に見覚えがあった。文集の余白に残っていたものと同じだった。

「この丸、同じ人の字だと思う?」

瀬尾は二枚の紙を並べ、しばらく見比べた。

「筆圧が似ている。丸の始点も同じだ。左上から入って、右下で少し重なる」

「理沙さん自身の字?」

「可能性はある」

「自分の名前を消して、自分で丸をつける?」

「名前を消したとは限らない」

瀬尾は役割分担表の余白を指した。

「消したのは、誰か別の人間かもしれない。丸は、理沙が自分の場所を確認した印かもしれない」

私は紙の上の丸を見つめた。

理沙は、ここにいた。

担当欄から名前を消されても、座席表から書き直されても、自分がいた場所に小さな印を残している。誰かに見せるためではなく、自分が自分の居場所を忘れないために。

そう考えたとき、物置の奥から乾いた音がした。

何かが落ちたようだった。

私は立ち上がり、瀬尾より先に奥へ進んだ。積まれた箱の背後に、古い掲示板が立てかけられている。風が入り込み、板の裏に挟まっていた紙片を床へ落としたらしい。

拾い上げると、文化祭で配られた名札の切れ端だった。青いインクで、途中まで名前が書かれている。

――さかき……

その下は破れていた。

瀬尾が私の手元を覗き込んだ。

「それは持ち帰るな」

「証拠になるかもしれない」

「だから、触りすぎるな。写真を撮って、位置を記録する」

彼はポケットから小さな定規を取り出し、紙片の横に置いた。いつも持ち歩いている写真部時代の定規らしい。目盛りの一部が擦れて読みにくくなっている。

「紙の端が新しい」

「新しい?」

「破れたのは最近じゃない。だが、ほかの紙より湿気を含んでいない。掲示板の裏にあったから、空気に触れにくかった」

「つまり、ずっとここに?」

「ずっととは言っていない」

「瀬尾」

「物は、時間を語る。ただし、人間ほど饒舌じゃない」

その言い方が、少しだけ理沙に似ている気がした。断定せず、けれど見たものだけは手放さない。

私は紙片を元の場所へ戻した。

そのとき、掲示板の裏側に細い鉛筆書きがあるのに気づいた。日付と、短い言葉だった。

十月十二日。午後四時四十分。保健室。

文字の下半分は、誰かに削られている。

「瀬尾」

彼は私の横へ来た。

ふたりで、削り跡を見た。

午後四時四十分。

保健室。

その二つの言葉だけが、古い木の裏側に残っている。

雨音が少し強くなった。物置の天井から、どこかで水が滴り始める。ぽつ、ぽつ、と間隔を空けて落ちる音が、時計の秒針のように響いた。

「この日付、文化祭の準備日だ」

瀬尾が言った。

「資料にあった?」

「十月十二日。文化祭の前日」

「理沙さんが保健室へ行った日?」

「まだそうとは言えない」

「でも、ここに保健室と書いてある」

「誰かが、何かを記録した」

私は鉛筆の跡へ指を伸ばしかけ、途中で止めた。

触れなくても分かる。そこには、書いた人間のためらいが残っていた。文字の大きさが途中で変わり、最後の「室」だけが急に薄い。書きながら誰かに見つかったのか、あるいは書き終えることを怖がったのか。

私は物置の奥を見回した。

文化祭の紙片。消された座席表。空白の担当欄。保健室という二文字。

理沙は、いなかったのではない。

いったん書かれ、あとから消されたのだ。

その事実を、私は胸の内で何度も繰り返した。言葉にすると、何かが確定してしまう気がした。それでも、今度は口に出した。

「理沙さんは、ここにいた」

瀬尾は否定しなかった。

ただ、床に落ちていた蛾を拾い上げ、窓際の隙間へ逃がした。羽を痛めたのか、蛾はすぐには飛べず、濡れた壁にしがみついていた。

「帰るぞ」

「まだ調べるものがある」

「この雨で、紙をこれ以上傷めるな」

「保健室の記録を探したい」

「物置の資料だけでは足りない。学校の保管庫か、保健室の控えを当たる必要がある」

「今日は同窓会がある」

「だからこそだ。今ここで、見つけたものを全部ひとつの話にするな」

瀬尾は、座席表と役割分担表を透明な袋へ入れた。袋の口を閉じる前に、紙の角を何度も揃える。最後の一枚だけ、わずかにずれた。

私はそれを直した。

瀬尾がこちらを見る。

「直すのか」

「ずれているから」

「そういうところは、変わらないな」

「変わらないほうがいいこともある」

「変わらなければ、見過ごしたことまで残る」

返す言葉が見つからなかった。

物置を出ると、旧校舎の廊下はさらに暗くなっていた。雨雲が厚く、昼なのに夕方のようだった。窓の外で、現在の校舎を生徒たちが走っていく。誰かが笑い、誰かがその背中を追い、廊下の角で姿を消す。

私はその光景を見ながら、三十五年前にも同じように、誰かが走っていたのではないかと思った。

誰かが何かを抱えていた。

白い紙。

濡れた袖口。

振り返らなかった顔。

私は今度こそ、歩き去るだけにはしなかった。ポケットの中の赤鉛筆を握り直し、瀬尾の隣を歩いた。

校舎を出るころには、雨が細い線から粒へ変わっていた。正門の向こうで、同窓会の案内を持った車が一台、ゆっくり通り過ぎる。フロントガラスの水滴が、町の景色を歪ませていた。

名簿には、理沙の名前がある。

けれど、文化祭の紙の上では消され、座席表では削られ、物置の壁の裏でようやく時間だけを残していた。

私は資料の入った袋を抱えた。

名前を取り戻すには、まだ足りない。

それでも、空白の周囲に残された小さな歪みは、確かに一つの方向を指し始めていた。

雨の向こうに、保健室がある。

そして、その手前に、誰も語らなかった午後四時四十分がある。

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