第3話 頁の裏に沈むもの

市民会館を出ると、夜の潮見市は思ったより冷えていた。

昼間の名残を含んだ風が、商店街のアーケードを抜けてくる。閉じた店のシャッターに、向かいの街灯が細長く映っていた。私はアルバムを布製の袋に入れ、胸に抱えて歩いた。角が折れないように、袋の底を左手で支えている。

中身は古い冊子一冊にすぎない。

そう思おうとしたが、歩くたび、袋の中で空白の頁が揺れている気がした。

潮見北署へ電話をかけたのは、会館の裏口に立ってからだった。夜の歩道には人影がなく、遠くで信号機の音だけが規則正しく鳴っている。私は携帯電話を耳に当て、アルバムを抱え直した。

「潮見北署です」

「市民会館の同窓会実行委員をしている真柴と申します。卒業アルバムの件で、相談したいことがあります」

交換台を通されたあと、低い男の声が出た。

「岩永です」

「アルバムから、個人写真が一枚抜き取られています。破損というより、意図的に剥がされたように見えます」

「いつ気づきましたか」

「今日の夕方です。ただ、剥がされた時期は分かりません」

「アルバムは、どこで保管していましたか」

「市民会館の倉庫です。実行委員会の備品箱と一緒に。鍵は久世さんが管理していました」

「最後に触ったのは」

「今日、私が開くまでの記録はありません。久世さんが先週、倉庫から運び込んだと言っています」

「その間、誰が保管場所に入れましたか」

質問は短く、順番が決まっていた。私は答えながら、さっきまで自分の中にあった焦りが少しずつ形を変えていくのを感じた。岩永は、写真の意味を聞かなかった。理沙が誰だったのか、なぜ写真が抜かれたと思うのかも尋ねなかった。

ただ、棚の位置、鍵、最後に触れた人間、発見時刻を聞いた。

「写真が抜かれていること自体は、器物損壊として扱えます」

岩永は言った。

「ただし、古いアルバムです。経年劣化の可能性を最初から外すことはできません」

「自然に剥がれたとは思えません」

「そう判断した理由を、順に聞かせてください」

「写真だけがありません。頁の紙は破れていない。接着面には、古い糊の上から擦った跡があります。それと、剥がれた頁を押さえ直したような跡もあります」

「写真そのものは、残っていますか」

「ありません」

「周辺の紙片は」

「今のところ見つかっていません」

「触らずに保管してください。可能なら、頁を開いた状態で固定して、周囲にあるものを動かさない。明日の午前中に伺います」

「同窓会は明日です」

「知っています。だから、会場の出入りを記録しておいてください。写真を抜いた人物を決める必要はありません。誰が、いつ、どこへ入ったかだけでいい」

「岩永さん」

「はい」

「こういうものでも、捜査の対象になるんですか」

電話の向こうで、一拍置かれた。

「物が古いかどうかと、誰かが手を加えたかどうかは別です。古いから、どうでもいいとは限りません」

その言葉は、会議室で久世が言った「昔のことですよ」とは反対の方向から、私のところへ届いた。

「分かりました。アルバムは動かしません」

「それから、写真の下にあった名前を控えておいてください。周囲の頁も含めて、該当箇所の写真を撮っておくといい」

「榊原理沙です」

名前を口にすると、岩永の声がわずかに低くなった。

「榊原理沙。三年B組」

「はい」

「その名前について、何か知っていますか」

「名前だけです」

「なら、名前だけを記録してください。知っていることと、思い出したことは分けておいたほうがいい」

通話が終わった。

私はしばらく、暗い画面を見つめていた。理沙について何かを知っている気がする。けれど、思い出したことはない。その二つを混ぜてしまえば、私自身の記憶が誰かの説明に変わってしまう。

会館のロビーへ戻ると、受付机の上に案内状の封筒が残っていた。私は一枚を手に取り、裏返した。宛名は印刷されている。封の部分に、何度か折り直したような浅い筋があった。

アルバムの頁と同じように、そこにも手の跡がある。

ただし、まだそれを証拠とは呼べない。

私は封筒を元の位置に戻し、誰が入ってきても分かるよう、机の端へ揃えた。

それから、瀬尾修一へ電話をかけた。

瀬尾は市街地の外れにある印刷会社で、夜まで校正作業をしていた。電話口から、機械の低い振動音が聞こえた。

「まだ会社?」

「校了前だ」

「アルバムを見てほしい」

「今から?」

「今でないと、落ち着かない」

短い沈黙のあと、瀬尾は住所を言った。

印刷会社までは、歩いて十五分ほどだった。私はアルバムを抱えたまま、川沿いの道を進んだ。風が川面を撫で、街灯の光を細かく崩している。水の上では、何かが形を保とうとしては流されていた。

歩きながら、私は高校時代の瀬尾を思い出そうとした。

暗室の赤い灯り。現像液の酸っぱい匂い。黒いカーテンの向こうで、瀬尾が写真の端をクリップで挟んでいた。彼は当時から、写真を人の思い出としてではなく、物として扱っていた。誰が写っているかより、露光が正しいか、紙の端が焼けていないかを気にしていた。

だから私は、理沙の写真を見せる相手として、彼を選んだ。

印刷会社の裏口には、白い蛍光灯が一本だけ灯っていた。扉を開けると、インクと油と温められた紙の匂いが混じって押し寄せてきた。奥で断裁機が止まり、金属の余韻が床を伝わってくる。

瀬尾は作業台の前に立っていた。眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、私の抱えている袋を見る。

「先に現物を」

「挨拶より?」

「挨拶は済ませられる。紙は待たない」

私はアルバムを作業台に置いた。瀬尾はすぐには開かなかった。手を洗い、白い綿の手袋を取り出し、作業台の上に敷物を広げた。その一連の手順を見ていると、アルバムが人の記憶を閉じ込めたものではなく、傷つきやすい証拠品に変わっていく。

「写真を抜いたのは、誰だと思う?」

私が尋ねると、瀬尾は答えず、頁を開いた。

親指で紙の断面を撫でる。次に、空白の周囲をルーペで覗く。顔を近づけると、彼の肩が少し上がった。感情が高ぶっているときの癖だった。

「最近じゃない」

「岩永さんも、保管状況を確認すると言っていた」

「警察は時間を聞く。俺は紙に聞く」

「紙は何と答えたの」

瀬尾はルーペを置いた。

「接着が一度、完全に乾いている。写真が貼られた直後に剥がしたなら、糊はもっと伸びる。これは古い糊の層を、後から薄く起こしている」

「どれくらい前?」

「剥がした時期までは、これだけでは決められない。ただ、少なくとも製本直後ではない。何年も経ってから、写真だけを外した」

「そのあと、押さえ直されている?」

「頁を閉じたまま、上から重いものを置いた。空気を抜くように、平らにしている」

「誰かが、破損を目立たせたくなかった?」

「そうだろうな」

瀬尾の声は低かった。

「乱暴に破れば、周囲の紙が浮く。浮けば、次に開いた人間が気づく。だから、剥がしたあとで押さえた。見つからないようにしたのか、見つかるまで時間を稼いだのかは分からない」

「見つからないようにしたのに、今は見つかった」

「見つけたのは、お前だ」

「私でなければ、まだ気づかれなかった?」

「たぶん」

瀬尾は空白を見たまま続けた。

「写真がなくても、頁はめくれる。名前が残っているから、ほとんどの人は一瞬だけ変だと思って、そのまま進む。写真がないことより、写真があったことを気にする人間でなければ、止まらない」

「私は、気にしすぎなのかな」

「そういう言い方をするな」

彼が珍しく早く返したので、私は顔を上げた。

「気にしすぎかどうかは、紙が決めることじゃない。傷があるなら、傷があると言えばいい。見なかったことにする理由を、こっちが先に考える必要はない」

「瀬尾は、昔からそうだった?」

「昔は違った」

彼はルーペをケースに戻した。

「昔は、見えていても言わなかった。見えたものを言えば、面倒になると思っていた。写真部の部長だったから、部の空気を悪くしたくなかった。先生に呼ばれれば、俺が説明する側だった。説明しているうちに、何を見たのか分からなくなった」

私はアルバムの頁から手を離した。

「理沙さんのこと?」

瀬尾は答えなかった。機械の冷却ファンが、一定の音を立てている。

「理沙の写真を、俺が現像した可能性がある」

「可能性?」

「卒業アルバム用の個人写真は、写真部が撮ったものじゃない。業者が来て撮った。ただ、焼き増しや確認用のネガを、写真部の暗室で一時的に預かったことがある。番号をつけた。三年B組の撮影分は、連番だった」

「理沙さんの番号は?」

「覚えていない」

「今、確認できる?」

「当時のネガが残っていればな」

瀬尾は作業台の端に置かれた古い金属箱を見た。箱の蓋には、薄く「青嵐高校」と書かれている。私はその文字を見た瞬間、暗い廊下の記憶が一度だけ浮かんだ。

誰かが、何かを抱えて走っている。

白い紙。

濡れた袖口。

振り返った顔は、見えなかった。

「由紀」

瀬尾の声で、私は現実へ戻った。

「今日はネガを探せない。明日、会社の仕事が終わってから、暗室の保管箱を見てみる」

「同窓会が終わってから?」

「現物を確認しないまま、昔の話を組み立てるな」

「岩永さんと同じことを言う」

「刑事と一緒にするな」

「気を悪くした?」

「いや。俺のほうが、刑事より紙を信用しているだけだ」

皮肉を言うときだけ、瀬尾の言葉は少し長くなる。けれどその声の奥には、理沙の名前を聞いたときから消えない固さがあった。

私はアルバムを閉じた。

「明日の同窓会で、理沙さんの名前を出すべきだと思う?」

「何のために」

「存在していたことを確認するために」

「確認する相手は、三十五年前に黙った連中だ」

「それでも」

瀬尾は私を見た。視線が重なったのは、ほんの一瞬だった。

「由紀、お前は自分がその外側にいると思っているのか」

言葉が、胸の奥で止まった。

「思っていない」

「なら、誰かを問い詰める前に、自分が何を見て、何を見なかったかを思い出せ。俺もそうする。写真の裏側だけを読んで、人の表側を決めつけるな」

「決めつけてはいない」

「分かってる。だから、余計に厄介なんだ」

瀬尾はそう言って、アルバムを布袋へ戻した。紙の角を揃え、袋の口を二重に折る。その動きは几帳面だったが、最後の折り目だけ、わずかにずれていた。

私はそれを直さなかった。

印刷会社を出ると、風がさらに冷たくなっていた。瀬尾は「明日、連絡する」と言い、裏口の明かりの下に残った。私は一人で図書館へ向かった。

閉館後の図書館は、昼間より広い。人の気配がなくなると、書架の奥に溜まった紙の匂いが濃くなる。私は照明を一列だけ点け、カウンターの上に卒業文集の複写と古い名簿を並べた。

名簿を開く。

榊原理沙の名前は、三年B組の名簿に確かにある。筆跡は印刷で、他の名前と違いはない。ただ、その欄だけ、紙の表面がわずかに滑らかだった。指で撫でると、ほかの欄より摩耗している。

誰かが何度も触れたのだろうか。

それとも、後から書類を重ねたのか。

私は拡大鏡を取り出し、名前の周囲を照明に透かした。紙の表面に、薄い鉛筆の押し跡が残っている。文字として読めるほどではない。けれど、何かを書いたあとに消した線が、紙の繊維の奥で濃淡を作っていた。

理沙の欄だけが、ほかより濃い。

名前を書き足したのではない。

いったん消された名前を、誰かがもう一度なぞったように見えた。

私は文集の複写を隣に置き、同じ名前を探した。巻末の名簿には榊原理沙がある。文化祭の記録には、三年B組の展示として「紙片による装飾」と記されていた。担当者名はない。けれど本文の余白に、小さな鉛筆の丸があった。

その丸の横に、薄く文字が残っている。

――窓側、二列目。

誰の字かは分からない。

ただ、その言葉を見た瞬間、教室の窓から差し込む夕方の光が、記憶の底で揺れた。窓側の二列目。机の端を指でなぞる少女。呼ばれてから、少し遅れて振り向く顔。

顔は、やはり浮かばない。

けれど、その少女が誰かの言葉を聞いていたことだけは分かる。笑い声の輪から離れた場所で、誰かの沈黙を聞いていた。

私はページをめくった。

紙の擦れる音が、閉館後の閲覧室に細く響いた。

アルバムの空白は、今夜初めて生じたものではない。写真が抜かれる前から、名簿の名前は薄められ、記録の欄は空けられ、記憶の中から少しずつ居場所を失っていた。

空白は始まりではなかった。

長く続いた沈黙が、最後に裂けた場所だった。

私は古い名簿の角を揃え、文集の複写を重ねた。紙の端がぴたりと合う。けれど、重ねた資料のどこにも、理沙の顔は戻ってこない。

時計を見ると、閉館から一時間が過ぎていた。

建物の外を、車が一台通り過ぎる。窓ガラスがわずかに震え、書架の影が床の上で揺れた。私はその影を見ながら、明日の同窓会で理沙の名前を呼ぶ場面を想像した。

誰かが顔を上げる。

誰かが笑ってごまかす。

誰かが、知らないふりをする。

そのとき私は、また黙っていられるだろうか。

答えは出なかった。

ただ、指先だけが、次の頁をめくった。

← 横にスクロールして読み進められます

頁の裏に沈むもの - 白紙の証言 - 誰でも作家life