第2話 名前は残る、輪郭だけが揺れる

久世が会議室を出ていったあとも、私はしばらく席を立てなかった。

閉じた扉の向こうで、廊下を歩く靴音が遠ざかっていく。二度、三度、床の継ぎ目を踏んだところで音は途切れた。けれど、彼が残していった言葉だけは、空調の低い唸りに混じって消えずにいる。

――昔のことですよ。

私はアルバムの空白を閉じ、名簿を開いた。

同窓会実行委員会の名簿には、出席予定者の氏名と連絡先が並んでいる。五十音順に整えたつもりだったが、榊原理沙の名前は最初からそこにない。卒業時の名簿にはある。文集の巻末にもある。それなのに、三十五年後の名簿からは、彼女だけが最初から存在しなかったように抜け落ちていた。

私は赤鉛筆を手に取った。

名前のないところに印をつけることはできない。だから、榊原理沙の名前のある古い名簿に、小さな丸をつけた。丸は紙の上で赤く浮いた。囲まれた名前だけが、誰かに見つけられるのを待っているようだった。

最初に連絡したのは、久世修二だった。

彼は市役所の地域振興課に勤めている。明日の同窓会でも受付の進行を担当する予定で、会場の鍵や名札の手配を一手に引き受けていた。何かを頼めば、期限より少し早く、誤りなく返してくる。その几帳面さは昔から変わっていない。

電話をかけると、久世は三度目の呼び出しで出た。

「真柴さん、まだ会場ですか」

「はい。ひとつ確認したいことがあって」

「アルバムの件なら、明日の朝にでも皆さんへ確認を取ればいいでしょう。今夜はもう遅いですから」

「榊原理沙さんのことです」

電話の向こうで、短い沈黙があった。

沈黙というものには、音がない代わりに重さがある。久世の沈黙は軽く整えられていた。驚いたふりも、思い出そうとするふりもない。ただ、言葉を選ぶための空白だけが、きちんと置かれていた。

「榊原さん、ですか」

「三年B組の同級生です。写真が抜かれた頁に、名前が残っています」

「ええ、まあ。そうだったと思います」

「そうだった、というのは?」

「在籍していた、という意味です。卒業名簿に名前があるなら、在籍していたのでしょう」

「久世さん自身は覚えていますか」

「覚えているかと聞かれると、難しいですね。三十五年も前のことですから。誰がどの席にいて、誰と話していたかなんて、普通はそこまで……」

「顔は?」

また間があった。

「顔、ですか」

「理沙さんの顔です。背が高かったか、髪が長かったか、声がどんなだったか。何かひとつでも覚えていますか」

電話の向こうで、紙をめくる音がした。久世は手元に何かを置いているらしい。おそらく同窓会の進行表か、出欠一覧だろう。紙をめくる音は規則正しく、彼が記憶ではなく書類を探していることを示していた。

「由紀さん、こういう確認は必要ですか」

昔の呼び方が、急に近く聞こえた。けれど、親しさを取り戻すための声ではなかった。遠いところから、こちらの足元を確かめるような声だった。

「必要だと思っています」

「写真が抜かれたからですか」

「それだけではありません。名前は残っているのに、誰も具体的なことを覚えていない。それが不自然なんです」

「不自然と決めるのは、少し早いのではないでしょうか。人の記憶は、書類のように整ったものではありません。忘れることもあります」

「忘れたのなら、忘れたと言えばいいと思います」

「そう簡単には言えないでしょう。人は、自分が覚えていないことを覚えていないとは言いにくいものです。だから、いた気がする、としか言えないこともある」

「久世さんは、理沙さんを覚えていない?」

「私はそう言っていません」

「では、覚えていますか」

電話の向こうで、久世が息を吸った。

「覚えているというより、名前を知っている、という感じです。名簿にあって、クラスにいた。そういう記憶です。顔や声まで求められても、すぐには出てきませんよ」

「それは、誰に対しても同じですか」

「もちろん、全員が全員、鮮明に残っているわけではありません」

「でも、理沙さんの名前だけは、写真が抜かれている」

久世は答えなかった。

窓の外を見た。市民会館の向かいにある青嵐高校の古い校舎が、夜の底に沈みかけている。窓のいくつかには明かりが残っていた。部活動か、教師の仕事か、それとも誰かが帰りそびれているだけなのか。遠くから見る校舎は、たくさんの目を閉じた顔に見えた。

「真柴さん」

久世の声がした。

「明日の同窓会は、昔を懐かしむためのものです。そこへ、記憶の曖昧さを責めるような話を持ち込むのは、あまりよくないと思います」

「責めているつもりはありません」

「つもりがなくても、受け取る側はそう感じるかもしれない」

「では、写真を抜いた人は、何を感じたのでしょう」

言ってから、電話の向こうの空気が変わった。

「それは、まだ誰かが抜いたと決まったわけでは」

「自然に剥がれたなら、写真の紙だけが消えることはありません」

「瀬尾に見せたんですか」

名前が出た。

私は赤鉛筆を持ったまま、手を止めた。

「なぜ瀬尾さんの名前を?」

「元写真部でしょう。こういうことなら、彼に聞くのが早いと思っただけです」

「私が瀬尾さんに相談することを、知っていたんですか」

「知っていたわけではありません。あなたなら、そうするだろうと思っただけです」

「そうですか」

「真柴さん。写真は、記憶を正確に残すものではありません。撮る人間が選び、写る人間が構え、見る人間が意味をつける。残ったものが真実だとは限らないんです」

「だから、抜かれても構わない?」

「そうは言っていません。ただ、一枚の写真に人の人生を背負わせるのは危険です」

「写真一枚に人生を背負わせたのは、私ではありません」

久世は沈黙した。

電話を切るまで、彼はもう理沙の名前を口にしなかった。

次に向かったのは、三田奈緒の勤務する介護施設だった。

夜の施設は、昼間とは別の場所に見える。廊下の照明は落とされ、壁に貼られた季節の飾りだけが、白い明かりの下で浮いていた。折り紙の紅葉、画用紙で作った銀杏、利用者が書いた短い俳句。その一つに、「秋の風 誰かの名前を 呼びに来る」とあった。

奈緒は休憩室で、ほうじ茶の入った紙コップを両手で包んでいた。制服の袖から、細い手首がのぞいている。学生のころより少し痩せたように見えたが、笑うときに目尻を下げる癖は残っていた。

「急にごめんなさい」

「ううん。私も、明日の準備があるって聞いていたから。由紀さんのほうこそ大変ね」

「三田さんに確認したいことがあって」

「理沙ちゃんのこと?」

先に名前を出したのは奈緒だった。

その声は柔らかかったが、理沙という二音だけが、ほかの言葉よりわずかに低かった。

「覚えているんですね」

「覚えている、というほどでは……」

奈緒は笑いかけた。けれど笑みは口元だけにとどまり、目が遅れて動いた。

「昔のクラスに、そういう名前の子がいた気がするの。ほら、卒業アルバムって人数が多いでしょう。写真を見れば、たぶん思い出すんじゃないかしら」

「写真は抜かれました」

「そうね」

「理沙さんは、三田さんの親友だったと聞いたことがあります」

奈緒の指が、紙コップの縁を押さえた。

「誰から聞いたの?」

「文集の寄せ書きです。理沙さんの名前のそばに、三田さんの字がありました」

「そうだったかしら」

「確認しましょうか」

「ううん。いいの」

奈緒は首を振った。強い拒絶ではない。相手の手をそっと押し返すような仕草だった。

「昔の字なんて、見ても分からないわ。人は字も変わるし、名前の書き方も変わるでしょう。理沙ちゃんだって、呼び方が違っていたかもしれない」

「理沙ちゃん、と呼んでいたんですか」

奈緒は答えなかった。

休憩室の外から、車椅子の車輪が廊下の床を擦る音が聞こえた。誰かが小さく咳をし、職員の声がそれを包む。奈緒はそちらへ顔を向けた。介護の仕事をしている人間の反応だった。どんな小さな変化にも、体が先に動く。

「三田さん」

「はい」

「理沙さんは、転校したんですか」

「そう聞いたことはあるわ」

「誰から?」

「誰だったかしら」

「事故に遭った、という話もあります」

奈緒は紙コップを机に置いた。底が触れた音は小さかった。

「事故って、いろいろあるでしょう。階段から落ちたとか、自転車で怪我をしたとか。高校生のころなんて、噂はいくらでも立つものよ」

「高村さんは、事故の噂があったと言いました」

「高村くんは、そういう説明が上手だったから」

「説明が上手?」

「何か分からないことがあると、すぐに分かる言葉にしてくれるの。大丈夫、たいしたことはない、こういう場合はこうなるって。聞いていると、そうだったような気がしてくる」

「理沙さんのことも?」

奈緒は目を伏せた。

「理沙ちゃんは、そういう説明を嫌がっていたわ」

初めて、奈緒の言葉が過去形で途切れなかった。

「嫌がっていた?」

「人の気持ちを、簡単な言葉にされるのが嫌だったの。泣いている子がいたら、どうして泣いているのかを聞く前に、疲れたんだろうとか、家で何かあったんだろうとか、誰かが勝手に理由をつけるでしょう。理沙ちゃんは、そういうのを黙って聞いていた。聞いていたけれど、納得してはいなかったと思う」

「理沙さんは、何かを知っていたんですか」

奈緒の顔から、笑みが消えた。

「由紀さんは、どうしてそんなことを聞くの」

「写真が抜かれたからです。名簿から名前が抜かれているからです。三田さんも、高村さんも、久世さんも、理沙さんを知っているようで、知っていない。まるで、誰かが全員の記憶に同じ霧をかけたみたいです」

「霧じゃないわ」

奈緒の声は静かだった。

「霧なら、風が吹けば晴れるもの。私たちがしてきたのは、見えないふりをすることよ。見えないふりをして、見えなかったことにして、見えなかったことを何度も他人に渡してきた。そうすると、本当に見えなくなるの。自分の中でも、相手の中でも」

「それは、理沙さんに何かあったということですか」

奈緒は唇を結んだ。いつもの癖だった。言葉を選ぶ前に、言葉そのものを内側へしまい込む。

「理沙ちゃんは、何も悪いことをしていないわ」

「私は、そんなことを聞いていません」

「でも、皆そう思ったの。何かが起きたとき、理由が必要だった。誰かを責めるには、責めていい人が必要だった。理沙ちゃんは声が大きくなかったし、誰かを殴ることも、言い返すこともなかった。だから、話を押しつけやすかった」

「誰が押しつけたんですか」

「分からない」

「本当に?」

奈緒は私を見た。

その目には怒りがあった。私に向けたものなのか、自分自身に向けたものなのか、すぐには判別できなかった。

「分からないって言うしかないの。今さら誰かひとりの名前を出したら、その人だけが悪かったことになるでしょう。でも、そんなに簡単じゃない。見ていた人も、黙っていた人も、聞かなかった人もいた。私もその中にいる」

「三田さんは、理沙さんを守ろうとしたんですか」

「守れなかった」

言葉が落ちた。

奈緒は、紙コップの中の茶を見つめた。表面に浮いた細かな泡が、照明を受けて消えていく。

「守ろうとしたの。でも、守るって、そばにいるだけじゃ足りないのよ。何か言わなきゃいけないときに、言わなかった。違うと言わなきゃいけないときに、うなずいた。理沙ちゃんが私を見たとき、私は目をそらしたの」

「何があったんですか」

「……明日、みんなの前で言うつもりなの?」

「まだ決めていません」

「なら、決めないで。少なくとも、理沙ちゃんのことを、誰か一人の悪意で片づけないでほしいの。そうすると、残りの人間は自分だけは違ったと思えてしまうから」

その言葉は、私の胸の奥に入り込んだ。

私もまた、あの廊下で目をそらした。誰かが困った顔をしていた。私は立ち止まらなかった。あれが理沙だったのか、それとも別の誰かだったのか、まだ思い出せない。けれど、思い出せないことを理由に、自分を外側へ置くことはできない気がした。

施設を出ると、夜気が頬に冷たかった。街灯の下で、駐車場の白線が濡れたように光っている。雨は降っていないのに、地面には薄い水の膜があった。昼間に撒かれた散水の跡らしかった。

私は歩道を駅の方向へ進んだ。

潮見市の夜は、店が閉まると急に広くなる。シャッターの下りた商店街を抜け、川沿いの道へ出ると、風が正面から吹いてきた。川面は暗く、街の明かりを細長く砕いて流している。私の記憶も、あの水面のようだった。手を伸ばせば触れられそうなのに、指を入れた瞬間、形を失ってしまう。

高村清志とは、駅前の喫茶店で会った。

彼は病院の勤務を終えたばかりで、濃い色のジャケットの肩に、外気の冷たさをまとっていた。テーブルの上には医学雑誌が伏せられている。ページの角はきっちり揃えられていた。

「久しぶりですね、真柴さん」

「高村さんも、理沙さんを覚えていないと言いました」

高村は小さく笑った。

「覚えていないとは言っていませんよ。記憶というのは、検索の仕方によって出てくるものが違うんです。顔から探すか、出来事から探すか、名前から探すかで、思い出される順番も変わる」

「では、出来事から話してください」

「事故の噂がありました」

「誰の事故ですか」

「榊原さんの」

「事故に遭ったのですか」

「そのように聞きました」

「誰から?」

高村は、テーブルの上の水を一口飲んだ。

「当時は、学校の中でいろいろな話が流れていました。確定した情報ではありません。だから私は、事故の可能性がある、という程度に話しただけです」

「誰に?」

「それは覚えていません」

「事故の可能性がある、という言葉が、事故に遭ったという記憶に変わったのではありませんか」

「記憶は、そんな単純なものではありません」

「けれど、言葉で形を与えられることはあります」

「真柴さんは、私が噂を作ったと言いたいんですか」

「作ったとは言っていません。ただ、あなたの説明が、人の記憶を揃えてしまうことはあると思っています」

高村はしばらく黙っていた。

店内には、コーヒー豆を挽く機械の音がしていた。低く唸る音が、会話の切れ目を埋める。高村はその音を聞きながら、眼鏡の縁に指を触れた。

「人は、分からない状態に耐えられないんです」

「だから説明する?」

「説明が必要なこともあります。怪我をした人がいれば、どこを傷めたのか、何をすれば悪化するのか、何をしなくていいのかを伝える。それだけで不安が減ることがある」

「理沙さんのことも、不安を減らすために説明した?」

「彼女が何を経験したのか、私は知りません」

「知っているような言い方をしました」

「そう受け取られたなら、私の話し方に問題があったのでしょう」

「問題があったと分かっているのに、直さなかったんですか」

高村の口元から、笑みが消えた。

「真柴さん。三十五年前の高校生に、今の大人と同じ責任を求めるのは酷です。当時の私たちは、何が起きているのか分からなかった。先生も、親も、誰も。だから、目の前にあるものを理解できる形にしようとした。それが正しかったとは言いません。ただ、悪意だけで説明できることでもない」

「悪意がなければ、誰かを消しても許されるんですか」

「消した?」

「写真が抜かれています。名前が名簿から消えています。文化祭資料にも、理沙さんの担当欄がありません。誰かが、いたものをいなかった形に変えている」

高村は、水の入ったグラスを指先で回した。

「記録というのは、残す人間の都合で変わります。けれど、それは必ずしも悪意ではない」

「では、何ですか」

「恐怖です」

その言葉だけは、妙に早く出た。

高村は自分でもそれに気づいたのか、少し目を伏せた。

「恐怖は、人間の判断を狭くします。誰かが責められそうになると、周囲はその人から離れる。責められる理由を探す。先生が問題を大きくしたくないと思えば、記録を簡略にする。学級委員が混乱を避けたいと思えば、話をまとめる。親友が巻き込まれたくないと思えば、黙る。そうやって、一人分の輪郭が少しずつ削られていく」

「理沙さんは、何を知っていたんですか」

高村は答えなかった。

店員が注文の品を運んできた。湯気の立つ紅茶と、冷めかけたコーヒー。高村は礼を言い、カップの取っ手を整えた。

「高村さん」

「理沙さんは、人が見ないようにしているものを見ていた。そういう子でした」

私は息を止めた。

「何を見ていたんですか」

「それは、私には分かりません」

「分からないのに、なぜそんなことが言えるんです」

「彼女がそういう目をしていたからです。誰かが嘘をついているとき、誰かが助けを求めているのに声を出せないとき、理沙さんは見ていた。見ているだけで、責めなかった。だから余計に、見られている側は不安になった」

「理沙さんは、誰かを告発しようとしていた?」

「告発という言葉は強すぎます」

「また言葉を整えるんですね」

「言葉を整えなければ、事実は人を傷つける形で飛び出します」

「整えられた言葉が、別の人を傷つけることもあるでしょう」

高村は、初めて私を正面から見た。

「あります」

それだけを言うと、彼はカップに口をつけた。飲み込むまでの時間が、これまでより長かった。

店を出ると、夜の駅前は風が強くなっていた。看板の明かりが濡れた路面に伸び、通り過ぎる車のたびに細く揺れる。私は鞄の中の名簿ファイルに手を添えた。

理沙の名前は残っている。

けれど、名前だけでは人は戻らない。顔も、声も、誰と笑ったかも、何を見ていたかも、言葉にしなければやがて輪郭を失う。

私は三人の沈黙を思い返した。

久世の沈黙は、場を壊さないために整えられていた。

奈緒の沈黙は、理沙の痛みをこれ以上広げないために抱え込まれていた。

高村の沈黙は、説明しすぎた言葉のあとに残った。

どれも同じではない。けれど、同じ場所へ続いている。

誰かが、理沙を忘れたのではない。

忘れることで、何かを守ろうとしたのだ。

その何かが理沙自身だったのか、彼ら自身だったのか、私にはまだ分からない。

会場へ戻ると、机の上に置いたアルバムが目に入った。私は表紙を開き、榊原理沙の名前を見た。

白い空白は、昼間よりも深く見えた。

写真がないからではない。

写真がないままでも、名前だけは残っているからだった。枠の下に印刷された文字が、誰かの記憶を待つように、静かにそこにあった。

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