第1話 紙の匂いと、抜けたひとつ

市民会館の空調は、夕方を過ぎると古い機械の匂いを吐き出した。冷えているのか温いのか分からない風が、天井近くをゆっくり巡っている。窓の外では、潮見市の商店街に灯りがひとつずつともり始めていた。明日の同窓会を待つ町は、浮き足立っているというより、長い間しまわれていた箱の蓋を、誰かが少しだけ持ち上げたような気配に包まれていた。
私は会議室の長机に、出欠名簿、案内状の控え、名札、座席表を順番に並べていた。
名簿の角を揃える。封筒の束を揃える。名札の紐の長さを確かめる。座席表の余白を、会場の机の数と照らし合わせる。
同じ作業を、もう三度繰り返している。
「真柴さん、まだやってるの」
背後から声がした。振り返ると、同窓会実行委員のひとりが、紙コップの茶を片手に立っていた。名前を思い出すのに一拍かかった。卒業して三十五年も経てば、顔の輪郭は変わる。けれど私は、人の顔よりも、その人が書いた字や、書類の扱い方のほうをよく覚えている。
「もう少しだけ。明日の受付で、名札が足りなくなると困るので」
「足りなくなるほど来ないでしょう。みんな、昔ほど暇じゃないもの」
彼女は笑った。笑いながら、机の上の封筒を一枚つまみ上げた。その角が二ミリほどずれていたので、私は反射的に指で押さえた。
「そういうところ、昔から変わらないねえ」
「何がですか」
「きちんとしてるところ。私なんか、封筒の宛名が自分の名前なら、それだけで安心して出しちゃう」
「宛名が合っていれば、たいていは問題ありません」
「たいていは、ね」
彼女はそう言って、紙コップの縁に口をつけた。冗談のように聞こえたが、最後の二文字だけが妙に乾いていた。
会議室には、紙と糊と、長く閉め切られていた部屋の匂いが混ざっていた。壁際には、久世が運び込んだ卒業アルバムが置かれている。紺色の布張りの表紙は、角が白く擦れていた。明日の会場に飾るため、三十五年前の記録をひと通り見ておこうという話になり、私が箱から出していた。
古い本を開くときには、まず表紙の重さを手のひらで確かめる。紙が湿気を含んでいないか、背が浮いていないか、綴じ糸に緩みがないか。図書館で働くようになってから、そういう確認が習慣になった。
アルバムを長机の中央に置き、表紙を開いた。
最初の頁には、校歌の歌詞と、校長の挨拶が印刷されていた。次に教職員の写真、学年全体の集合写真、行事の記録。見慣れた制服が、紙の上で一斉にこちらを向いている。
私は頁番号を指で追いながら、三年B組の個人写真を探した。
頁をめくったとき、右手が止まった。
何かが軽い。
頁の重さが違うというのは、説明しにくい。目で見て分かるものではない。けれど、紙をめくる指先には分かる。右側の頁だけが、ほんのわずかに浮いていた。紙の一部が失われたことで、冊子の呼吸が変わっている。
私は一度、頁を戻した。もう一度、ゆっくりめくった。
三年B組の個人写真が、五十音順に並んでいる。写真の下には名前が印刷されている。阿部、石川、上田。何人かの顔を通り過ぎたところで、ひとつだけ、写真の枠が空いていた。
下の名前は残っていた。
榊原理沙。
その名前の上に、本来なら一枚の顔写真が貼られていたはずだった。
しかし、写真はなかった。
周囲の紙には、破れた繊維がほとんど見えない。鋏を入れた形跡もない。写真だけを、頁の角に沿ってきれいに抜き取ったように見える。写真のあった場所は、白く四角く残っていた。そこだけが、周囲の紙より新しい色をしている。
私は息を止めたまま、指先を近づけた。
「どうしたの?」
向かいにいた委員が聞いた。
「この写真……」
「写真?」
「榊原理沙さんの写真がありません」
名前を口にした途端、会議室の空調音が大きくなった気がした。
委員は私の隣まで来て、頁を覗き込んだ。しばらく黙ってから、首を傾げる。
「榊原さんって、いたっけ」
「名簿にはいます」
「そうだっけ。ほら、三年B組って、人数多かったから」
「三十六人です」
「よく覚えてるねえ」
覚えていたわけではない。頁の下に残った名前を読んだだけだ。けれど、そう言い返す前に、私は空白の縁を見ていた。
写真は破られたのではない。
剥がされている。
しかも一度ではない。
紙の端には、古い糊が薄く硬化した層が残っていた。そこに別の擦れが重なっている。最初に写真が貼られ、長い年月が経ち、その後で写真だけを剥がそうとした。さらに、剥がれかけた頁を押さえつけたような平たい跡がある。
誰かが勢いに任せて引きちぎったのなら、紙はもっと乱れる。力の向きが一方に偏り、繊維が立つ。これは違った。角から少しずつ、写真の下へ薄いものを差し込み、糊を浮かせていった跡だった。
時間をかけて消した。
その考えが浮かんだとき、胸の奥を紙やすりで撫でられたようなざらつきを覚えた。
「古いアルバムだし、自然に剥がれたんじゃない?」
委員が言った。
「自然に剥がれたなら、写真の紙だけがなくなることはありません」
「でも、糊が弱くなっていたんでしょう」
「写真が剥がれたあと、別の力で押さえ直されています」
「そこまで分かるの?」
「分かります」
返事をしてから、自分の声が思ったより硬かったことに気づいた。私は感情が表に出る前に、言葉を急いで整える癖がある。だから、ときどき冷たく聞こえる。
「すみません。写真の周囲に、剥離した糊の跡があります。古い糊の上に、後から擦った跡があるんです。誰かが触った可能性が高いと思います」
委員は空白から目を離し、私の顔を見た。
「誰かって、実行委員の中の?」
「まだ分かりません」
「でも、これを抜く理由なんてあるのかな。榊原さんが、何か悪いことをしたとか?」
「写真を抜く理由と、本人が何をしたかは別です」
口にしてから、なぜそんな言い方をしたのか、自分でも分からなかった。ただ、理沙という名前のそばに、理由のない疑いが置かれることが嫌だった。
会議室の隅で、誰かが椅子を引いた。脚が床を擦り、短い音を立てる。
私はアルバムを閉じず、名簿を引き寄せた。実行委員会の出欠一覧には、榊原理沙の欄がなかった。欠席者の欄にも、住所不明者の欄にもない。最初から、連絡対象に含まれていなかったようだった。
卒業時の名簿には名前がある。
同窓会の名簿にはない。
写真だけではなかった。
私は鞄から、図書館で保管していた卒業文集の複写を取り出した。三年B組の頁には、文化祭の思い出や卒業後の進路が並んでいる。名前の一覧に、榊原理沙はあった。けれど、本文の中で彼女に触れた文章は見つからなかった。
私は紙の角を押さえながら、記憶の底を探った。
榊原理沙。
その名前を、私は知っている。
知っているはずなのに、顔が浮かばない。
どんな声だったか。どの席に座っていたか。誰と話していたか。何ひとつ、手触りのある記憶が出てこない。名前だけが、薄暗い廊下に置き忘れられた靴のように残っている。
私は目を閉じた。
夕方の教室。窓から差し込む斜めの光。黒板の隅に残った白い文字。誰かが笑っている。笑い声の輪から、一人だけ少し離れている女の子。
その女の子が、理沙だったのかもしれない。
けれど、思い出そうとすると輪郭が崩れた。顔の部分だけが白く抜け、背景の机や窓ばかりが鮮明になる。写真の空白と同じだった。
「真柴さん」
今度は別の声だった。
久世修二が会議室の入口に立っていた。市役所帰りらしく、薄い灰色の上着を着ている。手には新しい名札の束があり、角はきれいに揃えられていた。彼は昔から、紙を扱うときに指の腹を使う。端を折らず、汚さず、けれど必要以上に丁寧だった。
「どうかしましたか」
「アルバムから、写真が一枚抜かれている」
久世は私の隣に来た。空白を見た瞬間、彼の表情はほとんど変わらなかった。ただ、右手に持った名札の束の角が、わずかにずれた。
「榊原理沙さんの写真です」
「……榊原さん」
彼は名前を繰り返した。記憶を呼び戻すというより、書類上の文字を読み上げるような声だった。
「いましたよね。三年B組に」
「いた気がする、という言い方では困ります」
「いや、そういう意味ではなくて。ほら、卒業してから長いですから。誰がどこに座っていたかなんて、普通は」
「写真が抜かれたのは、いつだと思いますか」
久世は答えず、空白を見た。白い枠に視線を置いたまま、唇の端に薄い笑みを浮かべる。
「明日の同窓会で使うものですし、今さら騒ぎにする必要はないんじゃないでしょうか。傷んでいたものが剥がれた可能性もあります。まずは、ほかの委員にも確認を」
「誰が触ったか、ということですか」
「そうです。責任を決める前に、手順を踏んだほうがいい」
「責任を決めるつもりはありません。ただ、写真が抜かれた理由を知りたいだけです」
「理由なんて、ないかもしれませんよ」
「理由のない欠落は、記録の中ではいちばん扱いにくいんです」
久世は、名札の束を机に置いた。置いたあと、角を揃え直した。
「真柴さんは、そういうところが変わりませんね。小さなことを放っておけない」
「小さなことだから、放っておけないんです」
「昔のことですよ」
その言葉は柔らかかった。柔らかいのに、閉じた扉のように聞こえた。
私は返事をしなかった。
会議室の窓から、夕暮れの校舎が見えた。市民会館の向かいにある青嵐高校は、改築を繰り返しながらも、古い校舎の一部だけを残している。窓の列が夕日に染まり、使われていない教室のガラスが暗く光っていた。
あの校舎のどこかで、私は一度、見て見ぬふりをしたことがある。
誰かが困った顔をしていた。周囲の何人かが、その顔を見ないようにしていた。私は気づいていたのに、廊下の先へ歩いていった。何が起きたのかは、今も思い出せない。ただ、歩き去ったときの靴音だけが、妙にはっきり残っている。
それが榊原理沙のことだったのかどうか、私は知らない。
知らないままでいたかったのかもしれない。
けれど、アルバムの空白は、知らないふりをした記憶に指を入れるように、私の前に残っていた。
久世が帰ったあと、私はアルバムをもう一度開いた。
榊原理沙という名前の下に、顔はない。
それでも、その白い枠を見ていると、そこに誰かがいたことだけは分かる。いなかったのではない。消されたのだ。写真から。名簿から。記憶から。
私は欠けた頁の裏側に指を滑らせた。
糊の匂いがした。
古い紙の匂いの奥に、まだ乾ききっていないものが混じっているようだった。指先に見えない粉がついた気がして、私は手を引いた。
会議室の照明を一つ消すと、空白だけが白く残った。
明日の同窓会は、懐かしい顔を並べるためのものだった。けれどその前夜、私たちはすでに一人分の顔を失っている。
失ったのではない。
誰かが、失わせたのだ。
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