第10話 庭を整える人

北条誠の家は、郊外の住宅地の外れにあった。生垣はまっすぐに刈り込まれ、門から玄関までの飛び石には、乱れひとつない。私は瀬尾と並んでその石を踏みながら、整いすぎた庭が、かえって何かを押し殺しているように見えることに気づいた。
「約束の時間より早いですね」
北条は玄関先で、庭鋏を手にしたまま言った。白いポロシャツの袖から覗く腕は、年齢のわりに陽に焼けている。
「少し早く着いてしまいました」
「構いません。どうせ、長く話すつもりもないので」
居間に通されると、茶が出された。湯呑みの縁は欠けひとつなく、茶托も同じ木目で揃えてある。瀬尾は持参した資料袋を膝の上に置いたまま、口を開かなかった。紙を扱うときの慎重さを、今は人へ向けている。
「三十五年前の、十月十二日のことをお聞きしたいんです」
私は保健室記録の複写と、交換日記の切れ端を机に並べた。北条はそれを一瞥しただけで、茶に手を伸ばした。
「古い話です」
「古いから、確かめたいんです。この日だけ、保健室の記録が書かれていません」
「忙しい日だったのでしょう」
「文化祭の準備期間でした。他の日は毎日記録されています」
北条は茶を一口飲み、湯呑みを丁寧に茶托へ戻した。
「真柴さん。あなたは、教育の現場にいたことがありますか」
「ありません」
「ならば分からないでしょう。生徒の間で起きたことすべてを、記録に残せば守られるわけではない。名前を書けば、その名前は一生ついて回る。書かないことで守られる生徒もいるんです」
「守られたのは、誰ですか」
北条の視線が、わずかに揺れた。
「複数の生徒です」
「理沙さんも、その中に入っていますか」
「彼女のことは……体調の問題だったと記憶しています」
「体調の問題なら、保健室の記録に残るはずです。残らなかったということは、体調の問題として処理する前に、別の判断があったのではありませんか」
北条は庭鋏をテーブルの端に置いた。刃の先が、茶托のすぐそばで静かに光った。
「あなたは、記録がすべてを語ると思っている」
「語らない記録も、何かを語っています」
「それは、こじつけです」
「こじつけかどうかは、ほかの資料と突き合わせれば分かります」
瀬尾が資料袋から、座席表の複写とネガ管理表を取り出した。北条はそれを見ても表情を変えなかったが、指先がわずかに湯呑みの縁をなぞった。
「文化祭の売上金について、覚えていますか」
私は言った。
「封筒の数が合わなかったと聞いています」
北条の喉が、小さく動いた。
「誰から聞きましたか」
「複数の方から」
「複数、ですか」
「はい」
北条は長く黙った。庭の方で、風が生垣を揺らす音がした。
「榊原は、何かを見たと言ってきました」
ようやく彼が口を開いたとき、声には教壇の硬さが残っていた。
「何を見たと?」
「封筒を触っていた生徒がいた、と。ただ、名前は出しませんでした」
「それなのに、彼女は保健室へ呼ばれた」
「落ち着かせるためです」
「落ち着かせる、というのは」
「騒ぎにしないためです。名前の出ない告発を、教室で扱えば混乱します。誰もが誰かを疑う。それは、学級が壊れるということです」
「学級を壊さないために、理沙さんを黙らせた」
「黙らせたのではありません。彼女自身が、それ以上は言わないと決めたんです」
「本当に、自分で決めたんですか」
北条は、初めて目をそらした。庭の生垣へ視線を逃がし、そこに何かを探すように見つめた。
「あなたは今、何を守ろうとしているんですか」
私は尋ねた。
「三十五年前の自分の判断ですか。それとも、今もこの町のどこかにいる、あの封筒に触れた生徒ですか」
北条の手が、庭鋏の柄を握った。
「帰ってください」
「北条先生」
「教育的配慮だったんです。それ以上、言うことはありません」
私は資料をまとめながら、最後にひとつだけ尋ねた。
「最近、アルバムのことで誰かが先生を訪ねてきませんでしたか」
北条の肩が、わずかに強張った。
「……先月、ひとり」
「誰ですか」
彼は答えなかった。けれど、その沈黙は今までのものと違っていた。守るための沈黙ではなく、どちらに進めばいいか分からなくなった人間の、迷いの沈黙だった。
玄関を出るとき、瀬尾が小さく言った。
「先月なら、写真が抜かれた時期と重なる」
私はうなずいた。
庭の生垣はまだまっすぐだったが、その向こうで何かが、もう整えられないほど崩れ始めていた。
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