第9話 悠真の結論

午後の授業が始まる前、黒板の端に貼られた「進路調査票 本日締切」の紙が、画鋲の下でわずかに傾いていた。
誰かの肩が当たったのかもしれない。白い紙の右上だけが浮き、そこに書かれた赤い文字が、教室の白い光の中で妙にくっきり見えた。
本日締切。
僕は机の上に進路調査票を伏せたまま、その文字を見ないようにしていた。見ないようにするほど、紙の存在が近くなる。志望校の欄も、将来像の欄も埋まっている。そこだけが、白い。
シャープペンシルを持った。名前を書くつもりはなかった。ただ、ペン先を欄の中へ入れてみたかった。線を一本引けば、白さが少し薄まるような気がした。
けれど、芯は紙に触れる前に止まった。
教室の前方から、紙を繰る音が聞こえた。
「三十二、三十三……」
黒木悠真が、提出済みの進路調査票を数えていた。担任に頼まれたのか、集めた封筒を順番に並べている。紙の角が一枚だけずれると、彼は親指で押し戻した。輪ゴムを掛けるときも、強く引きすぎず、緩めず、束が崩れない位置で止める。
何かを始める前に、何かを終わらせている。
悠真の机の上には、使い終えたシャーペンも消しゴムのかすも残っていなかった。筆箱は机の右上、ノートはその隣。角度まで揃っている。彼の世界には、物を置く場所が最初から決まっているようだった。
悠真は封筒の束を持ったまま、僕のほうへ歩いてきた。
廊下側の椅子を避け、誰かの鞄を踏まないように足を運ぶ。歩幅が一定で、動きに余分な揺れがない。僕の机の前で、その足が止まった。
「まだそこで止まるのか」
声は大きくなかった。
それでも、教室のざわめきの底から、その言葉だけが浮かび上がって聞こえた。
「……まだ」
「見れば分かる」
「じゃあ、聞かなくてもいいだろ」
返事が、いつもより早く出た。
悠真の眉がわずかに動く。怒ったというより、僕の言葉をどこへ置くか考えているように見えた。
「聞かないと、お前はそのままにする」
「そのままじゃない。考えてる」
「考えてる時間と、止まってる時間は違う」
「何が違うの」
「考えてるなら、少しずつでも前に進む。お前は同じところを見て、同じところで手を止めてる」
悠真は僕の机に目を落とした。進路調査票の端は何度も揃え直したせいで、そこだけ硬くなっている。悠真は机の上に落ちていた消しゴムのかすを一つ、指先で払った。
その仕草に、腹が立った。
「それの何が悪い」
「何が」
「同じところを見てること。止まってること。お前に関係ないだろ」
「関係ない」
悠真は即座に言った。
「お前が誰の名前を書くかは俺には関係ない。白紙のまま出しても、俺の提出物が遅れるわけじゃない。相沢が親友なのか、別の誰かなのかも、俺には関係ない」
「じゃあ、放っておけばいい」
「そうしてると、お前はいつまでもそこにいる」
「それも僕の勝手だ」
「そうだな」
悠真は封筒の束を机の上へ置いた。僕の机の線と、その端がぴたり重なる。
「勝手だけど、見てると苛つく」
「僕が?」
「お前の止まり方が」
その言葉は、机の上に置かれた固い物みたいだった。
悠真は謝らなかった。言い過ぎたと思っているのかどうかも、僕には分からない。彼は余計な言葉を足さない。謝罪で場を丸くし、相手に別の期待を持たせることを嫌っているように見えた。
「黒木は、迷わないの」
「迷う」
「迷わないように見える」
「見えるだけだ」
「でも、名前は書いたんだろ」
「書いた」
「誰の名前?」
「書く必要あるか」
僕は答えを待った。
悠真は、待たせることを好まない。誰かが言葉を探していると、先に結論を置いてしまう。けれど、そのときだけはすぐに答えなかった。指先が封筒の端を二度叩く。
「一番近いと思うやつの名前を書いた」
「一番近いって、どうやって決めるの」
「一緒にいる時間。困ったときに連絡するか。頼まれたら動くか。それで十分だろ」
「それで全部分かる?」
「全部なんて分かるわけない」
悠真は初めて、真正面から僕を見た。
「でも、分からないから決めないってやってたら、何も選べない。選べないまま時間だけ過ぎる。俺はそれが嫌いだ」
「選んだら、どうなるの」
「どうにもならない」
「どうにも?」
「名前を書いたからって、その相手との関係が急に変わるわけじゃない。変わるなら、書かなかったとしても変わる」
「でも、名前をつけたら意識するだろ」
「するだろうな」
「相手も意識するかもしれない」
「するかもしれない」
「それで、今まで通りじゃなくなるかもしれない」
「なるかもしれない」
悠真は僕の言葉を、ひとつずつ受け取った。否定もせず、慰めもしない。その代わり、逃げ道になりそうな場所を、順番に塞いでいく。
「それでも書く」
「どうして」
「変わるかもしれないから書かない、っていうのは、変わらないことを選んでるように見えて、実際には何も選んでない。相手がどう思うかを先回りして、自分の手を止めてるだけだ」
胸の奥に、細い針を刺されたような感覚があった。
僕は進路調査票を押さえていた手を少しずらした。白い欄が見える。
「じゃあ、黒木は何でも言えるんだ」
「何でもではない」
「言って後悔することは?」
「ある」
「それでも言うの」
「言わないで後悔するよりは、ましだ」
悠真は封筒の中身を確かめた。紙の端を揃え、口を閉じる。動作は正確だったが、さっきより少し遅い。
「昔、言わないままにしたことがある」
彼は封筒を見たまま続けた。
「遊ぶ約束をしていた相手がいた。俺は別の予定を優先した。断ればよかったのに、面倒で何も言わなかった。相手は待った。俺は行かなかった。次の日に謝ったけど、前みたいには戻らなかった」
「言わなかったから?」
「たぶん」
「本当に?」
「分からない」
悠真の口から出るには、不釣り合いな言葉だった。
彼にも分からないことがある。早く決めることで、何でも片づけられるわけではない。整えられた封筒の中にも、折れ目の消えない紙が混じっているのかもしれなかった。

「分からないのに、決めるの」
「分からないから決めるんだ」
悠真はようやく僕を見た。
「分かるまで待ってたら、何もできない。けど、決めたから正しいとも思ってない。間違えたら直す。失ったら、失ったままにしない。少なくとも、俺はそうするつもりでいる」
「直せないこともある」
「ある」
「失ったものが戻らないことも」
「ある」
「それでも?」
「それでもだ」
その声には、乾いた強さがあった。同時に、強さを保たなければ崩れてしまう人の硬さも混じっていた。
「お前は、失うのが怖いから書けないんだろ」
悠真の指が、白い欄の横で止まった。
心臓が一度だけ大きく鳴った。
「違う」
「何が」
「書いたら失うかもしれないから、書けないんじゃない」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「書いたら、その人との時間を一つの言葉にしてしまうから嫌なんだ。弁当を分けたことも、忘れ物を貸してくれたことも、帰り道に何も話さず歩いたことも、全部ひとまとめになる。親友って書けば、そういう名前の関係だったって説明できる。でも、僕が覚えているのは名前じゃない。そのときの空気とか、相手の歩く速さとか、何を言わなかったかとか……そういうものなんだ」
言葉が途切れた。
結衣の名前を直接出したわけではない。それでも、彼女と過ごした時間を、悠真の前へ置いてしまった気がした。
悠真は黙っていた。
教室の後ろで筆箱が落ち、金属のペンが床を転がった。窓の隙間から湿った風が入り、進路調査票の端がわずかに浮く。
「それでも、何も越えてない」
悠真が言った。
声は低かった。
「何も越えてないから、名前を書けない。お前が見ているのは、相手と一緒にいた時間じゃない。失う前の時間だ。雨が降っていたとか、傘を寄せたとか、そういうところで止まってる」
古い折りたたみ傘の骨が、指の間へ食い込む感触が蘇った。
雨粒が傘を叩く音。濡れたアスファルトの匂い。隣を歩く相手の肩が、傘の端から何度もはみ出していた。
あの日、僕は言おうとした。
一番の友だち。
けれど、言葉を口にしたあとで相手がどんな顔をするか分からなかった。笑うかもしれない。困るかもしれない。そんなの知ってる、と言うかもしれない。僕は別れ際まで黙っていた。
そのあと、相手は転校した。
僕はずっと、言わなかったことが別れを決めたのだと思っていた。
「言わなかったから、いなくなったんじゃない」
悠真の声が、雨の記憶へ入り込んだ。
「転校しただけだ。お前が言っても、言わなくても、たぶん同じだった。なのに、お前は自分の沈黙に理由を押しつけてる。そうすれば、次に誰かを失うときも、言わなければいいと思えるから」
「そんなこと……」
「違うなら、今ここで書ける」
悠真は白い欄を指した。
「相沢の名前を書け。何も起きなかったら、お前の考えすぎだ。何か起きたら、そのとき考えればいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
「簡単に聞こえる」
「そう聞こえるなら、俺の言い方が悪い」
悠真の視線が、初めて少し落ちた。
「でも、決めることは怖い。間違えることもある。書いた名前が相手の負担になるかもしれない。それでも、自分の側から何かを置くんだ。何も置かずに、相手がどう受け取るかだけを待つのは、優しさじゃない」
結衣が昼休みに言った言葉が浮かんだ。
逃げる場所は必要だ。分かったふりをしない。待つことは、何もしないこととは違う。
僕は、彼女が何も聞かないことに甘えていたのかもしれない。結衣の沈黙を尊重しているつもりで、自分の沈黙だけを守っていた。
「じゃあ、黒木は、書いたことで何か渡せたの」
「知らない」
「知らないのに、そう言うの」
「相手の受け取り方まで管理できない」
悠真の声が、わずかに掠れた。
「だから、できることだけする。書く。言う。約束したら行く。行けないなら先に連絡する。それでも壊れるときは壊れる。けど、壊れた理由を自分の中だけで作って、相手に確かめもしないまま終わらせるのは嫌だ」
長い言葉だった。
彼の合理性は、感情を持たないためのものではなかった。感情に振り回されないよう、先に形を決めているだけなのだと思った。形を決めれば、崩れたとき、どこが崩れたのか分かる。そう信じているように見えた。
「僕は、確かめたくない」
「相沢が何を思ってるか?」
「違う。僕が何を思ってるか」
白い欄が、急に広がった。
結衣を親友だと思っているのか。そうでないのか。思っているとして、どの程度なのか。答えはどれも、紙の上へ置くには大きすぎた。
「自分の気持ちを見たら、名前をつけないといけなくなる気がする」
「つけなくていい」
悠真は言った。
「ただ、見ろ。見た上で書かないなら、それは逃げじゃない。今のお前は、見ないために欄を見てる」
僕は返事ができなかった。
白紙を見つめながら、そこへ気持ちを置かないようにしていた。結衣の名前を書けない理由を、名前の重さや関係の曖昧さのせいにしていた。けれど本当は、書いた一行に自分の気持ちを見返されることが怖いのだ。
チャイムが鳴った。
午後の授業を知らせる音が、天井から落ちてくる。生徒たちが席へ戻り、机を引く音が重なった。
悠真は封筒の束を持ち上げた。
「授業が終わったら、佐伯先生が回収に来る」
「分かってる」
「分かってるなら、決めろ」
「今すぐ?」
「締切は今すぐだ」
「黒木は、そういうところが嫌いだ」
初めて、はっきり言えた。
悠真は一瞬だけ目を見開いた。けれど怒らなかった。口元が、ほんの少し緩んだように見えた。
「そうか。覚えておく」
「忘れていい」
「それは決めない」
悠真は自分の席へ戻っていった。
僕は進路調査票を机の中へしまおうとした。けれど、白紙の欄から目を離せなかった。
窓の外は、まだ曇っている。
雨は降っていないのに、濡れた日の匂いがした。小学校最後の日の帰り道に似た、冷たい土とアスファルトの匂い。あのときの僕は、傘の内側で言葉を抱えたまま、隣を歩く相手の歩幅だけを覚えていた。
言わなかったから失ったのか。
失うのが怖かったから、言わなかったのか。
どちらとも決められないまま、僕は紙の端を揃えた。
悠真の言葉は、胸の重さを取り除いてはくれなかった。けれど、その重さが置かれている場所だけは、前よりはっきりした。
僕はまだ、何も越えていない。
その事実だけが、誰かの名前より先に、白い欄の中へ残っていた。
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