第8話 渡されたもの

結衣は鞄の中を探った。

部活用の鞄は、いつもより膨らんで見えた。タオルや水筒、使いかけのテーピング、名前の分からない菓子パンの袋。結衣はその中へ手を入れ、何かを探すたび、布地の擦れる音を立てた。

「何か落とした?」

僕が聞くと、結衣は鞄の中を覗いたまま答えた。

「落としてない。たぶん」

「たぶんなんだ」

「入れた覚えはあるんだけど、入れた場所を覚えてない。物って、鞄の中に入れた瞬間から自分で移動するよね」

「しないだろ」

「するよ。靴下とか、片方だけいつも底にいるし」

「それは靴下が逃げてるんじゃなくて、片づけ方の問題じゃないか」

「透はそういうところだけ、急に正しいこと言うね」

結衣はようやく何かをつかんだ。鞄の底から引き出されたのは、細く丸められた紙だった。白い紙の端が、何度も指で触られたように少し柔らかくなっている。

僕は、その形を見た瞬間に息を止めた。

結衣は紙を手のひらで軽く叩き、丸まりを戻そうとした。けれど紙はすぐには開かず、内側へ戻ろうとする。折れ目と丸みが、別々の方向へ残っていた。

「これ」

結衣が差し出した。

声はいつも通りだった。けれど、そのいつも通りは、今までのように何でもないものではなかった。彼女は僕が何を受け取るのかを知っていて、それでも軽く渡そうとしている。軽くできないものを、軽い形にして。

「昨日、渡したよ」

僕は紙を見た。

渡された覚えはなかった。

いや、正確には、渡された場面を思い出せない。昨日の放課後、僕は教室に残っていた。結衣は部活へ向かう前に、机の脇で何かを探していた。僕はそのとき、彼女が落とした消しゴムを拾った。返した。結衣は笑った。そこまでは覚えている。

けれど、紙を渡された記憶はなかった。

「昨日?」

「うん」

「僕に?」

「透以外に誰がいるの」

「でも、覚えてない」

「それは、透が受け取ったあと、すぐ机の中に突っ込んだからじゃない?」

「そんなことした?」

「した。少なくとも、私はそう見た」

結衣は紙を僕の手のひらへ置いた。

紙は少し温かかった。彼女の鞄の中に長く入っていたせいなのか、それとも、結衣の手の熱が残っているのか、僕には分からなかった。

指先に、折り目の角が引っかかる。

僕は丸められた紙を開いた。

見なくても、何が書かれているかは分かっていた。進路調査票の控え。志望校の欄。将来像の欄。その隣にだけ、ぽっかりと残る白い欄。

消しゴムでこすった跡のない、ただの白。

紙を開く音が、昇降口の靴箱の間に小さく響いた。

「なんで」

やっと口に出たのは、それだけだった。

結衣は、すぐには答えなかった。窓の外を見た。曇ったガラスの向こうで、夕方の光が薄く浮いている。白い光は校庭の隅に溜まり、そこだけまだ昼の続きのようだった。

「なんでって、どっち?」

「これを持ってたこと」

「持ってたんじゃなくて、預かってたの」

「誰から」

「透から」

「僕が結衣に渡したの?」

「うん」

「どうして」

「それは、透に聞きたいんだけど」

結衣は僕の手元へ視線を落とした。白紙の欄を長く見ない。けれど、見ないふりをしているわけでもない。そこに何も書かれていないことを、そのまま受け取っている目だった。

「昨日、透が帰る前に、これを鞄へ入れようとしてた。でも、鞄の中に入らなかったんだよね。教科書とかノートとか、変な紙とか、いっぱい詰めてたから」

「変な紙って?」

「数学の途中式とか、購買のレシートとか、あと、誰かが書いた『明日まで』っていうメモ」

「それは変じゃないだろ」

「透の鞄の中に、昨日までのものが全部残ってるのが変なの」

僕は紙を押さえた。

「それで、結衣に渡した?」

「そう。『持ってて』って」

「僕が?」

「うん」

「そんなこと言った覚えがない」

「言ったというより、机に置いた。私の筆箱の横に。だから、私は受け取った」

「受け取ったなら、すぐ返してくれればよかったのに」

「返そうとしたよ」

「いつ?」

「昨日の帰り。だけど透、ずっと紙を見てたから」

結衣はそこで一度、言葉を切った。

「白紙のところじゃなくて、紙全体を。端を揃えたり、折ったり、また開いたりしてた。声をかけたら、たぶん、今よりもっと困ると思った」

「それで、今日まで持ってたの」

「うん」

「ずっと?」

「ずっとっていっても、寝てるあいだは机の上。朝、鞄に入れた」

「なんで返さなかったの」

「返してほしそうに見えなかったから」

僕は顔を上げた。

「でも、僕のものだろ」

「そうだね」

「返すべきじゃないの」

「そう思ったから、今返した」

「今まで返さなかったのに?」

「今までの透は、受け取れる顔をしてなかった」

結衣の声は静かだった。

「透、何かを渡されると、すぐに受け取らないでしょ。プリントでも、消しゴムでも、お菓子でも。相手の手元を見て、顔を見て、これを受け取ったら何か返さないといけないのかって考える。返せないものだったら、余計に手を遅くする」

「そんなこと、ない」

「あるよ」

「結衣は、僕のことを分かったみたいに言う」

「分かったみたいに言ってるんじゃなくて、見てたことを言ってるだけ」

その言葉は、思っていたより深く残った。

結衣は僕を分かろうとしているのではなく、見ていた。僕が紙の端をそろえることも、受け取る手を遅らせることも、気まずいときに靴のつま先を見ることも。分かったという名前をつけずに、ただ覚えていた。

「見てたなら、どうして何も言わなかったの」

「言ったら、透が言葉を探すから」

「探すよ」

「うん。探して、見つからなくて、謝る」

「……」

「それで、また一人で考える。だから、昨日は返さなかった」

結衣は、少しだけ笑った。

「私、これでも考えたんだよ。返すか、返さないか。勝手に持ってるのはよくないし、でも、返して透がまた机の中へ隠したら、たぶん同じことになる。だったら、一日くらい私が持ってたほうがいいかなって」

「一日くらいって、簡単に言うけど」

「簡単じゃないよ」

結衣は、紙袋の中に残った菓子パンの袋を折りたたんだ。二つに折り、さらに三つに折る。捨てるための紙なのに、折り目を丁寧に揃えている。

「私だって、透のものを勝手に持ってるのは嫌だった。透が困るかもしれないし、怒るかもしれないし、ただ何も言わないかもしれない。何も言われないのが一番困る。怒ってくれたら、まだ分かるから」

「怒らないよ」

「それも分かってる」

「じゃあ、どうして」

「分かってるから、だよ」

結衣は、折りたたんだ袋を手すりの上へ置いた。

「透は、怒る代わりに、相手が悪くない理由を探すでしょ。私が紙を持っていたのは、透が悪いからじゃない。私が勝手に預かっただけ。でも、透はたぶん、私が困らないように『ごめん』って言う。そういうふうに、自分の気持ちを後ろへ置く」

「それは、悪いことじゃない」

「悪いとは言ってないよ」

「でも、困ってるみたいに言う」

「困ってるよ」

結衣は僕を見た。

その目は、笑っていなかった。

「透が大事なことを全部、自分の中で処理しようとするから。私が何を言っても、透は最後に『でも結衣が悪いわけじゃない』ってまとめるでしょ。私が心配しても、私が待っても、私が何かを渡しても、全部、私のやさしさとして片づける。そうすると、透は傷つかないかもしれないけど、私のほうは、ずっと外側にいるみたいになる」

僕の指先が紙の白い欄を押さえた。

結衣の言葉は、責めているようには聞こえなかった。だからこそ、逃げにくかった。

「外側にいるって、どういうこと」

「透の中で何が起きてるか、私は知らない。知らなくていいと思ってた。でも、知らなくていいことと、知らないままにされることは違うんだよ」

「僕は、結衣を外側に置こうとしてるわけじゃない」

「うん。そういうつもりじゃないのも分かってる」

「じゃあ」

「つもりじゃなくても、そうなることはあるでしょ」

結衣は言葉を急がなかった。一つずつ、置く場所を確かめるように話している。

「私、親友って呼ばれたいわけじゃないよ。というか、呼ばれたらたぶん笑う。透がそんな呼び方をするところ、想像できないし。でも、透が私のことを何も決めたくないからって、何も渡さないのは違うと思う」

「何も渡してない?」

「今のところ、卵焼きと、からあげと、変な数学のメモくらい」

「それは結構渡してる」

「食べ物は数に入らない」

「入るだろ」

「じゃあ、もっと別のもの」

僕は返事ができなかった。

別のもの。

結衣へ渡せるものが、自分の中にあるのか分からない。親友という言葉を渡すことはできない。名前を書くことも、まだできない。なら、何を渡せばいいのか。

僕は紙を見下ろした。

白い欄の横には、小さな注意書きがあった。本人の判断で記入すること。記入内容については、進路指導の参考とする。紙は人間関係を測るためのものではないのに、欄があるだけで、関係を数えられているように感じる。

「この紙、変だと思わない?」

僕が言うと、結衣は調査票を覗き込んだ。

「変だよ」

「親友の欄があること」

「うん」

「進路と何の関係があるのか分からない」

「先生たちは、何か知りたいんじゃない? 誰と一緒にいるかとか、困ったときに相談できる相手がいるかとか」

「それなら、相談相手って書けばいいのに」

「親友のほうが、書く人が多いんじゃない?」

「多いから正しいの?」

「正しいとは思ってない」

結衣は白紙の欄を見た。

「でも、学校って、書ける人に合わせて紙を作るから。書けない人がいることを、いちいち考えない」

「それは、書けない人が悪いみたいだ」

「そう感じるよね」

「感じるんじゃなくて、そうだろ」

声が少し強くなった。

結衣は驚いたように瞬きをしたが、すぐに視線を外した。曇ったガラスの向こうで、校庭の鉄棒が白くぼやけている。

「透が怒るの、珍しいね」

「怒ってない」

「今のは、ちょっと怒ってた」

「紙に」

「紙に怒れるなら、たぶん人にも怒れるよ」

「人には、怒る理由がない」

「あるよ」

結衣は言った。

「私が昨日、紙を返さなかったこととか」

「それは……」

「私が待ってるのに、何も言わないこととか」

「それは結衣が勝手に」

「そうやって、すぐ私のせいにしないで」

結衣の声が、初めて少しだけ揺れた。

僕は紙を持ったまま、言葉を失った。

結衣は眉間に力を入れた。怒っているというより、言ってしまった言葉を引き戻せないことに困っている顔だった。すぐに冗談へ戻ろうとしたのか、口元がわずかに動いた。けれど、笑いは出てこなかった。

「ごめん」

僕は言った。

「ほら」

結衣は目を閉じた。

「また」

「でも」

「分かってる。透は悪くないって言いたいんでしょ。私が勝手に持って、勝手に待って、勝手に困ってる。だから謝る必要はない。そう言いたいんだよね」

「違う」

「何が違うの?」

答えられない。

違うと言ったのに、何が違うのか、自分でも分からなかった。結衣が悪くないと思っている。それは本当だ。けれど、悪くないから謝らないということではない。僕は、結衣に何も言わず、何も渡さず、彼女の気遣いだけを受け取っていた。そのことに対して、謝りたかった。

ただ、その説明は、どこかで自分を守るための言葉に変わりそうだった。

「……僕は、結衣に何かを返せてない気がする」

ようやく言えた。

結衣は黙った。

「弁当も、プリントも、待ってもらったことも。結衣は僕にいろいろ渡すのに、僕は受け取るだけで、何も返してない。だから、結衣が紙を持ってたことを責められない。責める資格がない」

「資格?」

「僕が、結衣に何もしてないから」

「透」

結衣の声が低くなった。

「それ、交換じゃないよ」

「でも」

「卵焼きを渡したら、同じ重さのものを返さないといけない。待ったら、同じ時間だけ待ち返さないといけない。そういうふうに考えてる?」

「そういうわけじゃ」

「考えてるよ」

結衣は僕の手元を見た。

「透は、何かをもらうたびに、返せるものがあるか探してる。返せないと、受け取らない。受け取ってしまったら、あとでずっと気にする。だから、私が何かをあげるたびに、透の中では借りが増えていく」

「借りなんて思ってない」

「じゃあ、何?」

僕は黙った。

結衣は、そこで追及をやめなかった。けれど声は荒げない。逃げ道を塞ぐのではなく、僕が自分の言葉へ戻ってくるまで、そこに立っている。

「透にとって、私が隣にいることは、そんなに重い?」

「違う」

「弁当を分けることは?」

「違う」

「帰り道を一緒に歩くことは?」

「違う」

「じゃあ、何が重いの?」

僕は答えの代わりに、白い欄を見た。

紙の上では、相沢結衣という名前は、数文字で書ける。姓を書き、名を書けば終わる。けれど、その名前の下に、僕が勝手に積み上げてきたものがある。弁当箱の仕切りが鳴る音。机の端に置かれたメモ。僕が返事を探しているあいだ、結衣が待つ時間。帰り道の半歩。

重いのは、名前ではなかった。

名前を書いたあとも、同じように大切にし続けなければならないと思っている自分だった。言葉にした以上、その言葉に見合う人間でいなければならないと思っている自分だった。

「僕が、ちゃんと返せる人じゃないこと」

声にすると、喉の奥が痛んだ。

「結衣は、僕に何かを渡してくれる。でも僕は、同じものを返せない。だから、結衣が親友みたいに近くにいるのに、僕はその名前を書く資格がない気がする」

「資格って、何それ」

結衣は笑わなかった。

「親友って、資格試験じゃないよ。筆記も面接もない。合格通知も届かない」

「でも、名前を書くなら、そういう関係だって認めることになる」

「認めたら何かしなきゃいけないの?」

「分からない」

「分からないなら、勝手に義務を作らないでよ」

結衣は紙袋を手すりから取り上げ、ぐしゃりと握った。さっきまで整えていた袋が、彼女の手の中で不規則な形になる。

「私は、透に何か返してほしくて弁当を分けてるんじゃない。食べたいから半分にしてる。透が食べてると、私もおいしいから。忘れ物を貸すのも、透が困ってる顔を見てると、貸したほうが早いから。帰りを待つのも、私が一人で帰るより、透と途中まで歩いたほうがいい日があるから。それだけだよ」

「それだけって」

「それだけで十分なこともあるでしょ」

結衣の言葉は、白い光の中でほどけた。

「一緒にいる理由を、全部きれいな言葉にしなくていい。私だって、透といると楽しい日もあるし、気を遣う日もある。待ってると寒い日もあるし、先に帰りたい日もある。それでも、次の日になったらまた隣に座る。そういうのを、いちいち親友だからって説明してない」

僕は、結衣の手に握られた袋を見た。

紙は皺だらけだった。折れ目を揃えようとしても、もう簡単には戻らないだろう。

「じゃあ、結衣は、僕の名前を書いてもいいと思う?」

聞いてしまった。

結衣は、すぐには答えなかった。僕の顔を見たまま、少しだけ首を傾ける。

「私が?」

「うん」

「それは、私が決めるの?」

「……違う」

「なら、聞かないでよ」

やわらかい言い方だったが、言葉は明確だった。

「透が書くかどうかを決めることでしょ。私がどう思うかは、そのあと。先に私の答えを聞いたら、透はまた、私が困らない答えを選ぶから」

僕は、手の中の紙を見た。

結衣は、僕に名前を書かせたいわけではないのだと思った。少なくとも、今ここで無理に書かせようとはしていない。僕がどんな答えを出すかを、彼女の都合で決めたくないのだろう。

それは、結衣が僕のことを大切にしているからなのか。そう考えかけて、僕はその言葉にもすぐ蓋をした。大切にしている、という言葉さえ、別の名前になり得る。

「紙、返すね」

結衣が言った。

「うん」

「でも、返したからって、今日中に書けとは言わない」

「先生は締切だって」

「先生は先生。私は私」

「結衣は、締切を守らなくていいと思ってるの」

「思ってないよ。締切は守ったほうがいい。特に佐伯先生の締切は、守らないと職員室の空気が冷たくなるから」

「それは、もともと冷たいだろ」

「じゃあ、さらに冷たくなる」

結衣は、ようやく少し笑った。けれど、すぐにその笑いを引っ込める。

「ただ、紙を埋めるためだけに、透の中身を削らなくていいって思ってる。名前を書いたほうが提出しやすいなら書けばいい。でも、書いたあとで、その名前に自分を合わせようとするなら、やめたほうがいい」

「白紙のままでも?」

「白紙のまま出せとは言ってない」

結衣は僕を見た。

「そこは佐伯先生と同じ。白紙なら白紙で、どうして白紙なのかを書けばいい。書けないことを、書けないまま隠すのと、書けない理由を自分の言葉にするのは、たぶん違うから」

佐伯先生と同じ言葉が、思いがけず結衣の口から出た。

僕は、紙の白さを見た。

この欄は、名前を書くためだけにあるのではないのかもしれない。もちろん、学校がそんな深いことまで考えて用意した欄ではないだろう。誰か一人の名前を記入させ、相談相手の有無を確認し、書類を揃える。それだけの仕組みだ。

けれど、白紙になった紙は、僕の中の見えない部分を表に出していた。

書けない理由を隠している限り、僕はこの紙に負けたままだった。

「結衣」

「うん」

「この紙、昨日、僕が渡したんだよね」

「うん」

「どうして僕は、渡したんだと思う?」

結衣は、少し考えた。

すぐに答えを出さないのは、僕に合わせたからではない。彼女自身が、本当に分からないことを分からないまま扱っているのだと思った。

「帰りたくなかったんじゃない?」

「学校から?」

「紙から」

胸の内側で、何かがゆっくり動いた。

「紙から帰るって、どういうこと」

「透は、調査票を持って帰ると、家でもずっと見るでしょ。机に置いて、端を揃えて、閉じて、また開いて。お母さんに『提出物は?』って聞かれて、たぶん『ある』って答える。でも、本当は提出物じゃなくて、白い欄を持って帰ることになる」

僕は母の顔を思い出した。

帰宅すると、母は玄関の靴の向きを見る。机の上の紙の増え方を見る。必要なことだけを聞く。今日もきっと、「調査票、出した?」と聞くだろう。僕は「まだ」と答え、その一言のあとに何も言えなくなる。

母はそれ以上、尋ねない。

尋ねないことで、僕を守っているのかもしれない。けれど僕は、その沈黙を受け取るだけで、何も返していない気がしていた。

「家に持って帰りたくなかったのかもしれない」

僕が言うと、結衣は頷いた。

「じゃあ、昨日は私が持って帰ったことにしよう」

「結衣の家に?」

「うん。私の鞄の中で一晩過ごした」

「それで、どうだった?」

「紙だから、たぶん何も考えてない」

「僕より強いね」

「紙に負ける人が言うと説得力ある」

僕は笑った。

結衣も笑った。昇降口の外で、風がガラス戸を揺らした。白い光が一度だけ薄く震え、手すりの上に置かれた袋の皺を浮かび上がらせた。

紙は僕の手の中にある。

返されたものは、ただの控えではなかった。結衣が一日持っていた時間と、返すかどうか迷った時間と、僕に何かを言わせずに待っていた時間が、折れ目の内側に残っている。

僕はその紙を、すぐに鞄へしまわなかった。

「書くかどうかは、まだ分からない」

僕は言った。

「うん」

「結衣の名前を書くかも、分からない」

「うん」

「でも、白紙のままにしておく理由は、少し書けるかもしれない」

結衣は、僕の手元を見た。

「それなら、昨日より進んでるね」

「名前は書いてないけど」

「名前だけが前進じゃないでしょ」

「黒木なら、そうは言わない」

「黒木くんは、進んでるかどうかを歩幅で測るから」

「結衣は?」

「私は、帰る方向を向いたかどうかで見る」

「今、僕たちは帰る方向を向いてる」

「そう。だから、もう少しだけ歩こう」

結衣は鞄を肩にかけ直した。

僕も紙を折った。白紙の欄が内側へ入る向きを選んだが、今度は隠すためではなかった。角が折れすぎないように、紙の中央に沿ってゆっくり畳む。折り目は新しく増えた。それでも、紙は破れなかった。

僕たちは昇降口を出た。

外の空気は、校舎の中より冷たかった。雨の前の湿り気が頬にまとわりつき、濡れていないアスファルトが、すでに雨の匂いを含んでいる。校門へ向かう道には、生徒の姿が少なくなっていた。さっきまで帰宅ラッシュに逆らっていた僕の足音が、今度は外へ向かう足音の一つになる。

結衣は半歩先を歩いた。

僕はその歩幅を追った。

「透」

「うん」

「明日、弁当の交換はどうする?」

「続けるの」

「嫌ならいいけど」

「嫌とは言ってない」

「じゃあ、正式な譲渡で」

結衣は笑った。

僕も笑った。紙の中の白さは、まだ消えていない。書く言葉も決まっていない。けれど、白紙を持つ手は、朝より少しだけ固くなかった。

結衣が紙を返してくれた理由を、僕はまだ全部分かっていない。

分からないままでも、受け取ることはできる。

そのことだけが、曇った帰り道の先で、薄い光のように残っていた。

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渡されたもの - 白紙のまま、言えなかった友情へ - 誰でも作家life