第7話 昇降口の白い光

放課後の昇降口には、帰る人間の音が溜まっていた。
上履きからローファーへ履き替える音。靴箱の扉が開き、閉じる音。誰かが友だちを呼ぶ声。外へ向かう足音は、階段を下り、校門の向こうへ流れていく。部活へ向かう者は反対側へ折れ、塾へ急ぐ者はスマートフォンを見ながら廊下を横切る。
僕は、その流れの端に立っていた。
昇降口脇の手すりに手を置く。金属は夕方の冷えを吸っていて、掌の熱をゆっくり奪った。西向きのガラスは曇り、校庭も、その向こうの住宅地も、輪郭だけを白い光の中に残している。時間が進んでいるのか、止まっているのか、分からなくなるような明るさだった。
手元の進路調査票は、鞄の中に入れてある。
佐伯先生と話したあと、僕は教室へ戻り、午後の授業を受けた。黒板の文字は見えていたし、小テストの答えも書いた。けれど、授業と授業の間に何度も紙を取り出し、白紙の欄を見た。
欄の中には、何もない。
その何もなさに、弁当箱の仕切りが鳴る音や、結衣の肩が揺れる笑い方や、半歩先を歩く背中が、文字にならないまま積もっていた。
僕は結衣を待っていた。
待つと決めたのは、授業が終わったときだった。結衣が部活へ行く前、鞄を肩にかけながら「今日は先に帰るね」と言った。そのとき僕は、いつものように頷いただけだった。
けれど、彼女が教室を出たあと、机の中から調査票を取り出した。
白紙の欄を見て、名前を書こうとは思わなかった。
ただ、結衣に何かを伝えなければならないと思った。何を伝えるのかは、まだ決まっていなかった。名前を書けない理由を話すのか。書けないままでも、彼女と過ごした時間を大切に思っていると伝えるのか。それとも、そんなことさえ言わずに、ただ一緒に帰るのか。
どれも正解には見えなかった。
だから、僕は昇降口に立っていた。
帰宅ラッシュに逆らって、校舎の内側へ残る。いつもなら、この逆流は取り残されている証拠だった。みんなが外へ向かうのに、自分だけが机の前に座り続ける。そうしているうちに、教室の空席と廊下の足音だけが増えていく。
今日は、違うのかもしれない。
違うと思いたいだけかもしれない。
靴箱の列を見ていると、結衣の上履きが入っていた場所が目に入った。靴箱の底には、細い砂が残っている。結衣は帰る前に、いつも靴の先を軽く床へ打ちつける。砂を落とすためだと思っていたが、以前、本人に聞いたら「靴が今日を終えた感じがするから」と言っていた。
意味はよく分からなかった。
でも、その言葉を僕は覚えている。
廊下の奥から、駆ける音が近づいてきた。軽い足音が二つ、階段の手前で一度乱れ、すぐに一つへ戻る。
結衣だった。
部活用の鞄を肩にかけ、片手には細長い紙袋を持っている。髪の端が少し乱れていて、頬に運動したあとの赤みが残っていた。僕を見つけると、いつものように笑おうとした。
けれど、笑顔は途中で止まった。
まぶたがわずかに揺れ、足が半歩だけ遅くなる。肩の力が抜けたようにも、逆に身構えたようにも見えた。
「ごめん、待った?」
結衣の声は軽かった。けれど、軽くしすぎないように選ばれていた。
僕は首を横に振った。
「今来たところ」
「それ、待ってた人が言うやつだよ」
「そうなの」
「そう。待ってた人は、だいたい『別に』か『ちょっとだけ』って言うから」
「じゃあ、ちょっとだけ」
「ほらね」
結衣は笑った。今度は最後まで笑ったが、肩の揺れは小さかった。
僕は彼女の手元を見た。紙袋の口から、透明なビニールの端が覗いている。コンビニの菓子パンか、飲み物だろう。
「それ、何」
「新作。名前はまだ言わない」
「言わないの?」
「食べてから。名前を先に言うと、期待が勝手に膨らむから」
「この前のゼリーみたいに?」
「そう。あれは名前が悪かった。『きらめく青空』って言っておいて、味が濡れた段ボールだったから」
「まだ覚えてるんだ」
「忘れられないよ。味っていうより、感想が」
結衣は紙袋を手すりの上に置いた。僕の隣ではなく、少し離れた場所に。立つ位置が、いつもより半歩ぶん外側だった。
僕はその距離を見た。
見ないほうがいいと思いながら、見てしまう。結衣のつま先は、外へ向かっている。すぐに帰れる向きだ。けれど、彼女はまだ靴を履き替えていない。
「今日は、部活どうだった」
僕が聞くと、結衣は少しだけ目を丸くした。
「普通。普通って言うと、普通じゃない日みたいで変だけど」
「何かあった?」
「一年生がまたボールを変なところへ飛ばして、校舎の裏まで探しに行った。顧問は『見つけるまで戻るな』って言うし、みんなで探したら、最初に飛ばした子の鞄の中から出てきた」
「それは探したって言わないんじゃないか」
「本人もそう思ったらしくて、見つかったときにすごく静かになってた」
「怒られた?」
「怒られなかった。顧問が『見つかってよかったな』って言ったから、余計に気まずそうだった」
結衣はそこまで話して、ようやくいつもの調子で笑った。
僕も笑った。
笑ったあと、会話が途切れた。
昇降口の外で、バス停へ向かう生徒たちの足音が重なっている。ガラス戸が開くたび、湿った風が入ってきた。雨はまだ降っていない。でも、空の低いところには水を含んだ雲が溜まっていて、靴箱の周りに冷たい匂いが沈んでいる。
結衣は僕の顔を見なかった。
見ないことが、今日はいつもよりはっきり分かった。
「透」
「うん」
「何か言いたいことある?」
問いは穏やかだった。
けれど、僕の胸の奥へまっすぐ届いた。逃げ道を塞ぐ言い方ではない。逃げることができる場所を残したまま、こちらを見ている問いだった。
僕は、紙袋の口を見た。中身はまだ見えない。結衣の持ち物を見ていると、少しだけ言葉が出やすくなる気がした。
「ある」
「そっか」
「でも、何を言いたいのかは、分からない」
「それ、かなり透らしいね」
「笑わないで」
「笑ってないよ。ちょっと面白いだけ」
「同じじゃない?」
「違うよ。笑うのは、相手を軽くするため。面白いのは、私が勝手に思ってるだけ」
「それ、区別できるの」
「できる。たぶん」
結衣は手すりの紙袋を持ち上げ、袋の底を確認した。何かが崩れていないか確かめるような手つきだった。
「言いたいことが決まってないなら、決まってないまま言えばいいんじゃない?」
「そんなことできる?」
「できるよ。私、今も半分くらい決まってないまま喋ってるし」
「結衣はいつもそうなの」
「いつもじゃない。大事なことほど、決めてから話すと遅いことがあるから。言いながら考えることもある」
「僕は、それができない」
「知ってる」
結衣はすぐに答えた。
その即答に、僕は少し驚いた。
「知ってるって、どういう意味?」
「透は、言いながら考えるのが苦手。話してる途中で相手の顔色を見るから。あ、今の言い方は違ったかな、とか、ここでやめたほうがいいかな、とか、すぐ考える」
「そんなに分かる?」
「分かるよ。隣の席、長いし」
結衣は、ようやく僕を見た。
「だから、今日も聞かないほうがいいのかなって思った。透が自分から話すまで待つべきかなって。でも、待ってるだけだと、透はずっと一人で考えるでしょ。考えて、考えて、結局、帰る時間を過ぎる」
「……うん」
「だから、どっちがいいか分からなくなった。聞くのも違う気がするし、聞かないのも違う気がする。私だって、いつも正しい距離に立てるわけじゃないよ」
その言葉を聞いたとき、昇降口の白い光が少しだけ揺れた気がした。
結衣は、いつも正しいわけではない。
僕は勝手に、彼女が僕の沈黙を上手に扱える人だと思っていた。踏み込みすぎず、離れすぎず、僕が戻ってこられる場所を作ってくれる人。けれど、その距離を決めるために、結衣も迷っていたのだ。
「ごめん」
僕は言った。
「また謝る」
「ごめん」
「そういうところ」
結衣はため息をついた。大きくではなく、鼻から短く息を抜くように。
「謝られると、私が何かを責めたみたいになる」
「責めてないのに」
「うん。だから、謝らなくていい」
「でも、結衣が困ってるなら」
「困ってるよ」
僕は顔を上げた。
結衣は、少し困ったように笑った。
「透が一人で何かを抱えて、私がその隣で何も知らない顔をしてるのは、困る。でも、全部話してって言うのも違う。話してほしいけど、話せないことまで出してほしいわけじゃない。そういうのって、近いとか遠いとかだけでは決められないんだよね」
「近いのに、聞かないことがある」
「ある」
「聞かないけど、分かろうとすることもある」
「ある」
「分かろうとしても、分からないこともある」
「あるね」
結衣は紙袋の持ち手を指でつまんだ。
「だから、分からないまま隣にいるしかないときもあると思う。分かったふりをするよりは、そのほうがいい。私、昔、分かったふりをして、相手に余計なことを言ったことがあるから」
結衣の声から、いつもの明るさが少しずつ抜けていった。
「その子が黙ってたから、私が何とかしなきゃって思って、ずっと冗談を言った。笑わせれば大丈夫になると思った。でも、その子は笑いたかったんじゃなくて、ただ隣にいてほしかっただけだった。あとで言われたんだ。『明るくされると、こっちが笑えないのが悪いみたいになる』って」
僕は黙って聞いていた。
「それ以来、相手が笑ってないときに、無理やり笑わせないようにしてる。でも、今度は何も言えなくなった。聞かないことが優しさなのか、ただ怖くて踏み込めないだけなのか、分からなくなる」
「結衣も、分からないことがあるんだ」
「あるよ。私だって普通に迷う。透ほど見えにくくないだけで」

結衣は、紙袋の中から小さな菓子パンを取り出した。袋には、青い文字で名前が印刷されている。
「これ、今日の新作」
「また名前が爽やかそう」
「今度は大丈夫。たぶん」
「たぶんなんだ」
「食べてみる?」
彼女は袋を開け、パンを半分に割った。中には白いクリームが挟まっている。結衣は片方を僕へ差し出した。
受け取る手が、いつものように一拍遅れた。
結衣は急かさなかった。
僕はパンを受け取った。袋の内側に残った甘い匂いが、湿った昇降口の空気に混じる。
「何味?」
「食べてから当てて」
「先に言わないんだ」
「名前に引っ張られないように」
僕は一口食べた。柔らかい生地の中に、少し酸味のあるクリームが入っている。爽やかというより、雨上がりの道に近い味だった。
「……何だろう」
「分からない?」
「ヨーグルト?」
「正解。『雨上がりの白い雲ヨーグルトパン』」
「名前が長い」
「でも、味はさっきより近いでしょ」
「濡れた段ボールではない」
「じゃあ成功」
結衣は自分の分を食べた。僕たちはしばらく、パンを食べながら昇降口の外を見ていた。
言葉がないのに、沈黙は重くなかった。
外へ出ていく足音は減っていた。帰る人間の流れは、いつの間にか細くなっている。校舎に残ったのは、部活の終了を待つ生徒と、僕たちのようにすぐには帰らない生徒だけだった。
僕は、鞄の中の調査票に触れた。
紙の硬さが指先に伝わる。
「親友の欄」
僕は言った。
結衣の指が止まった。
「うん」
「書けない」
「知ってる」
「でも、書きたくないわけじゃない」
結衣はすぐには答えなかった。紙袋の切れ端を折り、きれいに二つに重ねた。折り目を指で押さえてから、ようやく口を開いた。
「それは、書きたいってこと?」
「分からない」
「そっか」
「結衣の名前を書けば、たぶん、誰かに見られても変じゃないと思う。みんなもそう思うかもしれない。でも、僕が書いたら、今までのことを全部、親友だったからって説明することになる気がする」
「親友だったから、弁当を分けた。親友だったから、帰りを待った。親友だったから、何も聞かなかった。そういうふうに?」
「うん」
「それは、嫌?」
「嫌というより……足りない」
結衣は少しだけ眉を上げた。
「足りない?」
「親友って言葉が、足りない。結衣といた時間を、そこに入れるには」
言葉にしてから、胸の奥が熱くなった。
結衣は僕を見ていた。笑っていない。困ってもいない。ただ、僕の言葉をどう受け取るか決めないまま、そこに置いているようだった。
「それ、結構ぜいたくな悩みだね」
「そうかもしれない」
「名前が足りないって言われたの、初めて」
「ごめん」
「また謝った」
「……ごめん」
「もういいよ」
結衣は笑った。今度の笑いは、いつものものに近かった。
「私はね、親友って書かれても、たぶん困らないよ」
「困らないの?」
「うん。たぶん、最初にちょっと笑う。『そこまで大げさ?』って。でも、そのあと弁当は分けるし、帰り道も歩く。名前が一個増えたからって、昨日までのことがなくなるわけじゃないから」
「でも、意識するかもしれない」
「するかもね。私もするかもしれない」
「それでもいいの」
「いいっていうか、意識することまで避けたら、何も始まらないじゃん」
「始めたいわけじゃない」
「じゃあ、続けたい?」
その問いに、僕はすぐ答えられなかった。
続けたい。
結衣の隣の席が変わっても、弁当を分けることがなくなっても、帰り道が別々になっても、今までの時間が消えるわけではない。そう思えるようになりたい。けれど、そう思うには、まだ少し怖かった。
結衣は、僕の返事を待った。
昇降口の外で、最後のほうの生徒が走っていく。ガラス戸が閉まり、湿った風が途切れた。白い光だけが残る。
「続けたい」
僕は言った。
「何を?」
「結衣と、こういう時間を」
「こういう時間って、かなり曖昧だよ」
「うん」
「弁当を分けるとか、帰りにコンビニに寄るとか?」
「それも」
「黙って歩くとか?」
「それも」
「たまに変なパンを半分こするとか?」
「それも」
結衣は少し黙ってから、紙袋の中の残りを僕へ差し出した。
「じゃあ、半分食べる?」
「もう食べた」
「これは別腹」
「別腹って、パンにもあるの」
「ある。今、作った」
僕は残ったパンを受け取った。
そのとき、結衣の指先が僕の指に一瞬触れた。冷えていた。部活帰りの手に残った、校庭の空気の冷たさだった。
僕はパンを食べた。
甘酸っぱいクリームが、舌の上に残る。名前の長いパンの味は、結局、名前通りだったのかどうか分からない。けれど、結衣と半分にしたことで、その味を僕はたぶん覚えている。
「透」
「うん」
「今日は、もう帰る?」
結衣が聞いた。
外はまだ明るい。けれど、白い光の底では、夕方が少しずつ暗さを増している。僕は鞄の中の進路調査票を思った。白紙の欄は、まだ白紙のままだ。
それでも、さっきまでとは違う。
僕は結衣の横に立っている。結衣は僕を待っているわけではない。けれど、帰る支度をしながら、僕が歩き出すのを待っている。
僕は靴箱へ向かって一歩踏み出した。
いつもなら、結衣の半歩後ろを歩く。けれど今日は、同じ歩幅で歩けるように、足を少しだけ早めた。
結衣が横目で僕を見る。
「何?」
「いや、今日は珍しく前に出たなって」
「そう?」
「うん。どうしたの?」
僕は返事の前に、一拍置いた。
相手の顔を見る。結衣の視線がこちらにある。逃げ道を塞ぐ目ではない。待っている目でもない。ただ、僕がどんな言葉を選ぶのかを、静かに見ている。
「一緒に帰らない?」
言葉は、それだけだった。
白紙の欄に書く名前より短い。けれど、僕の中では、ずっと重かった。
結衣は少し目を見開き、それから肩を揺らして笑った。
「うん。今日はどこまで?」
「駅の手前まで」
「コンビニ寄る?」
「寄る」
「じゃあ、次の新作を探そう。今度は濡れた段ボールじゃないやつ」
「それは、名前を見てから決める」
「名前、気にするんだ」
「少しだけ」
僕たちは靴を履き替えた。
靴箱の扉が閉じる音が、白く曇った昇降口に残った。外へ出ると、湿った空気が頬に触れる。校門へ向かう生徒はもう少なく、帰宅ラッシュの流れはほとんど途切れていた。
結衣が半歩先に出る。
僕は、その歩幅に合わせた。
まだ、進路調査票の親友欄は白い。名前を書かないまま、鞄の中で紙は折れ目を増やしている。
それでも、今日の帰り道は、何も書かれていない空白の中から始まっていた。
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