第10話 第10話「白紙に置く言葉」

午後の授業が終わると、教室の空気が一度だけ大きく動いた。

椅子を引く音。教科書を閉じる音。誰かが廊下へ出ていく足音。帰る準備をする音は、いつもより速かった。締切の日は、放課後まで残ることさえ、何かを遅らせているように感じる。

僕は机の中から進路調査票を取り出した。

紙は昨日より柔らかくなっていた。何度も触れた端が、指の腹に馴染んでいる。白紙の欄は、そこだけ別の紙を貼りつけたように見えた。

教室の前の扉に、佐伯先生が立っていた。

「提出できる人から、こちらへ」

先生は大きな声を出さなかった。それでも、生徒たちは一人ずつ立ち上がり、封筒を持って教卓へ向かった。

悠真は一番に列へ入った。封筒の口を確認し、名前の向きを揃えてから、先生の前へ置く。

「黒木、受け取った」

「はい」

それだけで、悠真は席へ戻った。

僕は立てなかった。

先生の視線が、教室の中を一周する。僕の手元で止まったが、すぐには何も言わなかった。

最後の生徒が提出を終えると、教室には僕と先生と、数人の残った生徒だけになった。窓の外は薄い灰色で、雲の底が校舎の屋根に触れている。

「春名」

「はい」

「持ってきなさい」

僕は紙を持ったまま、教卓へ歩いた。

先生は調査票を受け取らず、僕の手元を見た。

「書いたか」

「まだです」

「何が」

僕は白紙の欄へ目を落とした。

「親友の欄が」

「名前が書けない?」

「はい」

「書きたくない?」

質問は簡単だった。けれど、どちらにも頷けなかった。

「分かりません」

佐伯先生は、僕の答えを聞いても眉を動かさなかった。机の上に置かれた黒いペンを、指先でゆっくり転がす。

「分からないまま、締切は過ぎる」

「はい」

「それでも、分からないと言う?」

「……はい」

先生は紙を見た。白紙の欄ではなく、そこへ至るまでについた折れ目を見ているようだった。

「春名。これは、正解を書く欄ではない」

「でも、名前を書く欄です」

「そう。だから、名前を書ける人は書けばいい。書けない人が、書ける人のふりをする必要はない」

先生はそこで言葉を切った。

「ただし、白紙のまま出すのは、考えた結果とは言わない」

胸の奥が狭くなった。

「白紙にしているのは、考えた結果です」

「なら、その結果を書きなさい」

「名前を書かないことを?」

「名前を書かない理由を」

先生はペンを机の上へ置いた。

「欄に入りきらないなら、裏でもいい。別紙でもいい。私は形式を変える許可は出せる。でも、考えたことまで私が代わりに書くことはできない」

僕は紙を見た。

裏面には、細い罫線がいくつも並んでいる。志望理由を書くための欄だった。そこなら、短い名前ではなく、少し長い言葉を置けるかもしれない。

「何を書けばいいか、分かりません」

「今、私に話したこと」

「話したこと?」

「誰かを選びたくないのではなく、選んだ一語で、その人との時間を狭めたくない。そう言ったでしょう」

言った覚えはなかった。

けれど、悠真に向かって話したことや、結衣の前でこぼした言葉が、いつの間にか形になっていた。自分の中ではまだ崩れていると思っていたものが、先生には文章の始まりに見えているらしい。

「それは、言い訳に聞こえませんか」

「言い訳かどうかは、書き方で決まる」

「書き方で?」

「自分を守るためだけに書けば、言い訳になる。相手と過ごした時間まで書けば、記録になる」

先生はそれ以上、説明しなかった。

教卓の脇に積まれた提出済みの封筒が、少しだけ傾いている。先生はそれに気づくと、会話の途中なのに手を伸ばし、角を揃えた。

「紙は、整えれば整う。でも、人間関係はそうはいかない」

「先生も、そう思うんですか」

「何を」

「名前をつけても、整わないこと」

先生は封筒の束から手を離した。

「名前をつければ整うと思っている人は、名前が外れたときに困る。名前をつけなくても続くと思っている人は、名前が必要な場面で困る」

「じゃあ、どうすれば」

「困ったまま、自分で決めるしかない」

答えになっていないようで、先生らしい答えだった。

僕は自分の席へ戻った。机に紙を置き、シャープペンシルを握る。表面の白紙ではなく、裏面の罫線へ紙を返した。

最初の一行を書くまでに、時間がかかった。

誰か一人を選べない。

そこまで書いて、止まる。

その続きに、結衣の名前を書こうとして、やめた。名前を避けるために書いているのではない。名前だけにしないために、先に別のことを書きたかった。

弁当を半分にしたこと。

忘れ物を貸してくれたこと。

僕が黙っているあいだ、結衣が無理に話しかけず、けれど帰らずにいてくれたこと。

その一つひとつを書いていくと、罫線は思ったより早く埋まった。文章は整っていなかった。途中で消した跡もある。けれど、紙の上に残った言葉は、昨日までの白紙とは違っていた。

最後に、僕はこう書いた。

名前を決める前に、もう少しこの時間を覚えていたい。

書き終えたとき、教室には僕しかいなかった。

佐伯先生は廊下側の扉の近くで待っていた。僕が紙を持って立ち上がると、何も言わずに受け取る。

「これでいいですか」

「いいかどうかは、これから考える」

「先生でも分からないんですか」

「分からないことを、分からないまま受け取るのも仕事よ」

先生は紙を裏返し、書かれた文字を確認した。すぐには頷かなかった。紙の折れ目を指で伸ばし、裏面の端まで目を通す。

「春名」

「はい」

「相手の名前を書かなかったことより、自分の見てきたものを書いたことを、忘れないように」

僕は返事をしようとした。

けれど、ありがとうございます、という言葉では足りない気がした。分かりました、と言うのも違う。まだ分かっていないことのほうが多い。

だから、僕はただ頭を下げた。

昇降口へ向かうと、外から湿った風が入り込んできた。靴箱の匂いと、雨の近い土の匂いが混ざっている。

ガラスの向こうに、結衣がいた。

部活へ行くには遅い時間だった。鞄を肩にかけ、校門の方を見ながら、何かを待っている。僕に気づいた結衣は、手を上げかけて、途中で小さく振った。

「終わった?」

「うん」

「書けた?」

僕は一拍置いた。

「少しだけ」

「そっか」

結衣はそれ以上聞かなかった。

僕は、昨日までなら彼女が聞かなかったことに安心していた。今日は、その沈黙を自分から埋めたくなった。

「結衣」

「なに?」

「一緒に帰る?」

言葉は、思っていたより簡単に出た。

結衣は少し目を丸くして、それから笑った。

「うん。今日は透から言ったね」

「言った」

「記念に何か買う?」

「何の記念」

「白紙脱出記念」

「まだ名前は書いてない」

「じゃあ、白紙完全脱出ではないね」

結衣は靴を履き替えた。僕も隣で靴紐を結ぶ。結び目が一度ほどけたが、結衣は何も言わずに待っていた。

昇降口を出る。

帰宅する生徒たちの流れは、もう薄くなっていた。僕たちはその流れの中へ入った。歩幅は揃わない。結衣が半歩先へ出て、僕が少し遅れて追いつく。

それでも、今日は僕の足音が逆流していなかった。

白紙は、まだ紙の中に残っている。

けれど、その隣には、僕が見てきた時間も残っていた。

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第10話「白紙に置く言葉」 - 白紙のまま、言えなかった友情へ - 誰でも作家life