第4話 半分だけ残る卵焼き

昼休みのチャイムが鳴ってから、教室の空気は一度にほどけた。

椅子を引く音、机を寄せる音、廊下へ飛び出していく足音。窓際では誰かが購買へ走る友だちに財布を投げ、後ろの席では昨日の動画を見せ合う笑い声が上がっている。昼休みという時間は、授業と授業のあいだに置かれた短い空白なのに、みんなその空白を誰かと埋める方法を知っていた。

僕は鞄から弁当箱を出し、机の端を袖で拭いた。

「今日、卵焼きある?」

結衣が自分の弁当箱を開けながら言った。

「あるけど」

「じゃあ、からあげと交換ね」

「卵焼き一個とからあげ一個は、釣り合わないんじゃないか」

「そう思うなら、からあげを二個出して」

「交渉の仕方が変だろ」

「交渉って、相手の弱いところを見つけるところから始まるんだよ」

結衣は笑いながら、僕の弁当箱を覗き込んだ。

進路調査票は、教科書の下に隠してある。白紙の欄を見られたくないというより、そこに何も書かれていないことを、自分から確認されるのが怖かった。

結衣は、紙の端が少しだけ覗いているのに気づいたはずだ。それでも視線を長く置かず、自分の弁当箱からからあげを一つ取り出した。衣が少し湿っていて、紙カップの底に油の染みができている。

「はい。先払い」

「卵焼きは?」

「透が出すまで待つ」

「勝手に交換を始めたのは結衣だろ」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

「じゃあ、私の記憶違い。今日は天気も悪いし、脳みそが湿ってるのかも」

窓の外は、朝からずっと曇っていた。高台の校舎を包む雲は低く、向かいの増築棟の壁さえ白い膜の向こうにある。窓の隙間から湿った風が入るたび、机の上のプリントが小さく震えた。

僕は卵焼きを箸でつまみ、結衣の弁当箱へ移した。

「これでいい?」

「うん。正式な交換成立」

「正式にする意味あるのか」

「あるよ。食べ物の貸し借りは、あとで揉めるから」

「揉めたことないだろ」

「揉める前に、私が忘れるから」

結衣は卵焼きを口に入れた。特別な反応はしなかった。目を細めることも、感想を言うこともない。ただ、いつもの味をいつものように受け取った。

その当たり前の仕草を、僕は見すぎていた。

結衣が箸を動かすたび、弁当箱の仕切りがかすかに鳴る。朝にも聞いた音だった。何も言わないことを選んだ人の、静かな音。

「昨日さ」

結衣は、からあげの衣を箸先で割りながら言った。

「コンビニで新しい菓子パン見つけたんだけど、名前のわりに全然爽やかじゃなかった」

「どんな名前だったの」

「『青空ふわもちサンド』」

「それは爽やかそう」

「でしょ。だから買ったの。なのに食べたら、雨の日に濡れた段ボールを砂糖で固めたみたいな味がした」

「かなり嫌な感想だな」

「でも、まずくはないんだよ。そこがいちばん困る。まずかったら、もう買わないって決められるのに、微妙に食べられるから、次も買うかもしれない」

「じゃあ、好きなんじゃない?」

「好きって言うには、ちょっと湿ってる」

結衣は肩を揺らして笑った。

僕も口元だけで笑った。結衣はそれを見たらしいが、笑わせようとはしなかった。笑いが途切れる前に、増築棟の空調の話へ移った。教室の後ろだけ妙に寒いこと、昨日の放課後、昇降口で一年生が滑りかけたこと、靴箱の前に誰かが泥を残していったこと。

話題は軽く、どこへでも行けた。

けれど、結衣の視線は、僕の顔を覗き込む寸前でいつも自然に外れた。

踏み込みすぎない。

その動きが、今日はやけに目についた。

以前からそうだったのかもしれない。僕が白紙の欄を抱えているせいで、すべての距離を測るようになっているだけかもしれない。それでも、結衣が笑う横顔を見るたび、半歩ぶんだけ遠くなったように感じた。

「最近、帰るの遅いね」

結衣が言った。

話の流れからすれば、唐突ではなかった。空調の話から放課後の話になり、昇降口の話をしていた。その延長に置かれた、ごく普通の一言だった。

それなのに、僕には教室中の音が一瞬だけ遠ざかったように聞こえた。

「……うん」

返事をするまでに、少し時間がかかった。

結衣は箸を止めた。僕の顔は見ず、ペットボトルのラベルを指でなぞっている。剥がれかけた端を何度も同じ方向へ押しつけていた。

「うん、ってことは、遅いんだ」

「最近は」

「何してるの?」

「別に」

言ったあとで、答えとして雑すぎたと思った。

結衣の指が止まった。ラベルの端が浮いたまま戻らない。

「そっか」

声はいつもの調子だった。笑っているようにも聞こえた。

「別に責めてないよ。透が何か悪いことしてるとか、そういう話じゃなくて。ただ、最近、昇降口で見かけないなって」

「見かけない?」

「私は先に帰ることが多いから。帰る前に、透の机を見るとまだ鞄が残ってる。昨日も、その前も」

「見てたの」

「見てたっていうか、見えるんだよ。隣の席だし」

結衣はそこで一度、言葉を探すように息を吸った。

「何かあるなら、聞いていいのかなって思った。でも、聞かないほうがいいときもあるじゃん」

「どういうとき?」

「答えを急がせると、その人が本当は思ってないことまで言わなきゃいけなくなるとき。『どうしたの』って聞かれて、どうもしないって答えるのも、平気って答えるのも、どっちも嘘になることがあるから」

教室の奥で、誰かが机を叩いて笑った。

その声だけが、僕たちの机の周りには届かないようだった。

「結衣は、そういうの分かるの」

「分からないよ」

結衣はすぐに答えた。

「分からないから、聞きすぎないようにしてる。分かったふりをすると、相手が逃げる場所までなくなるから」

「逃げる場所って、必要?」

「必要だと思う。ずっと逃げてたら困るけど、逃げられない場所で話すのは、話すっていうより降参に近いし」

僕は箸の先を見た。細い木の表面に、弁当の油が薄くついている。

「でも、逃げているだけかもしれない」

自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。

結衣は少し黙った。いつもなら、ここで冗談を一つ入れる。けれど今日は、すぐには笑わなかった。窓の外へ目を向け、白く曇ったガラスの向こうを見ている。

「それは、透が決めることじゃない?」

「僕が?」

「うん。私が『逃げてるよ』って決めたら、たぶんそれも違う。透が何を守ろうとしてるのか、私には全部分からないから」

「守るって言えるほど、大げさなものじゃないよ」

「大げさかどうかも、私が決めることじゃないよ」

結衣の言葉は柔らかかった。柔らかいのに、そこから退く場所がなかった。

「透はさ、黙ってるとき、ものすごく考えてる顔するよね」

「そうかな」

「うん。目が紙とか床とか、変なところに行く」

「変なところって」

「机の角とか、靴とか。あと、私の弁当箱の仕切り」

「仕切りは変じゃないだろ」

「じゃあ、普通のところ」

結衣は笑った。けれど、その笑いは短かった。

「だから、何も考えてないわけじゃないんだろうなって思ってる。考えすぎて、言うところまで来ないだけで」

僕は返事をしなかった。

進路調査票に結衣の名前を書くことを考えている。書いたあと、結衣がどんな顔をするのかを考えている。笑うのか、困るのか。今まで通りに弁当を分けてくれるのか。それとも、僕が書いた一行を意識してしまうのか。

考えているうちに、書けない理由は名前の重さだけではないと気づきかけた。

名前を書いたあと、相手の目が変わることが怖いのだ。

そう思った瞬間、僕はますます何も言えなくなった。

「ごめん」

口から出た。

結衣が眉を上げる。

「何が?」

「いや……なんとなく」

「なんとなくの謝罪は受け取れません」

「じゃあ、返して」

「卵焼きの代わりに?」

「そう」

「もう食べたから返せないよ」

「じゃあ、仕方ない」

「透さ、たまにそういうところだけ素直だよね」

結衣は笑った。

けれど、今度の笑いのあとには、朝より長い沈黙が残った。彼女は僕を見なかった。見ないことで、僕がまだ答えを出せないことを許しているようにも見えた。

そのやさしさは、完全な救いではなかった。

何も聞かないことは、何も求めていないことと同じではない。結衣はたぶん、僕がいつか自分から話すことを待っている。待っているのに、待っているとは言わない。その距離が、ありがたくて、苦しかった。

弁当箱の中には、からあげの衣の欠片が一つ残っていた。僕は箸で拾い上げ、口へ運んだ。塩気のあとに、少しだけ苦い味が残った。

窓際では、誰かが友だちの肩に寄りかかっている。廊下を挟んだ向こうの席では、二人の男子が帰り道の予定を決めていた。

「今日、駅まで行く?」

「塾あるから、途中まで」

「じゃあ、そこまで一緒」

誰と帰るかは、いつも簡単に決まる。

僕は結衣の隣に座っている。弁当のおかずを分けている。話題が途切れても、急いで別の話を探さなくていい。そういう時間が、何度も繰り返されている。

それなのに、紙の上では、僕はまだ誰の隣にもいない。

「透」

「うん」

「今日も残る?」

結衣の声が、少しだけ低くなった。

「たぶん」

「そっか」

「……結衣は?」

「私は部活。終わるの早いけど」

彼女はペットボトルを鞄へしまい、弁当箱の蓋を閉じた。

「先に帰るね」

「うん」

「昨日みたいに、昇降口の電気が消えたあとまで残らないでよ」

「そんなに遅くならない」

「それ、昨日も聞いた」

朝と同じ言葉だった。

けれど今度は、僕も少しだけ笑えた。

「今日は本当に」

「その自信、どこから来るの」

「根拠はないけど」

「それは自信じゃなくて希望だね」

結衣は椅子を戻し、自分の机の上に残った小さな米粒を指で拾った。最後まで机を整えるのは、彼女の癖だった。

鞄を肩にかけたとき、教科書の下から進路調査票の端が覗いた。結衣の視線がそこへ落ちる。

僕は反射的に紙を押さえた。

結衣は何も言わなかった。ただ、いつものように少しだけ肩を揺らして笑った。

「じゃあ、残りのからあげ、ちゃんと食べてね」

「うん」

「あと、卵焼きは返却済みだから、次は別のものにして」

「また交換するの」

「嫌ならいいけど」

「嫌とは言ってない」

「じゃあ、次も正式な譲渡で」

結衣は半歩だけ先に歩き出した。

すぐには振り返らなかった。けれど、教室の出入口で足を止め、僕が立ち上がらないことを確かめるように窓のほうへ顔を向けた。

「透」

「何?」

「帰る前に、ちゃんと何か食べてね。考えごとだけで放課後を過ごすと、帰り道で倒れるから」

「倒れたことないよ」

「倒れてからじゃ遅いでしょ」

「結衣は、たまに母親みたいだ」

「それ、褒めてる?」

「分からない」

「じゃあ、今のは聞かなかったことにする」

彼女は笑い、今度こそ教室を出ていった。

廊下へ消えていく足音は、途中で別の足音に混じった。誰かに呼び止められ、何かを返し、また笑ったのだと思う。僕には見えない場所で、結衣の時間はいつも誰かとつながっている。

僕は机の上に残った弁当箱を閉じた。

進路調査票を教科書の下から取り出す。親友の欄は、朝と同じ白さのままだった。

白紙は何も言わない。

けれど、結衣がさっき言った言葉のいくつかが、白い欄の上に重なっている。

逃げる場所は必要だということ。分かったふりをしないこと。待つことは、何もしないこととは違うということ。

それらを文字にすることはできなかった。

僕は紙の端を指でなぞり、折れかけた角をゆっくり伸ばした。白さは消えない。消えないまま、さっきまでとは少しだけ違って見えた。

空席のようだった欄の向こうに、結衣が半歩先を歩いている。その背中は僕を待ってはいない。それでも、置いていかない速度で廊下の先へ進んでいる。

僕はまだ、その背中を呼び止める言葉を持っていなかった。

ただ、弁当箱の隅に残ったからあげを、ひとりで食べることはできた。

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