第3話 黒木悠真の提出

昼休みの終わりが近づくと、教室の空気は少しずつ硬くなる。
午後の授業の予鈴まで、あと十分もない。黒板の端に貼られた「進路調査票 本日締切」という紙を、誰かがちらりと見ては、慌てて鞄の中をまさぐる。提出していない者は、残り少ない時間の中で、急いで欄を埋めようとペンを走らせていた。
僕はまだ、自分の机の上に進路調査票を伏せたまま座っていた。
結衣はとっくに食べ終えた弁当箱を鞄にしまい、数学の教科書を開いていた。午後一番の小テストの範囲を、ぶつぶつと小さな声で確認している。僕はその声を聞きながら、紙の端を指でなぞっていた。折り目のついた角は、もう何度も触ったせいで、少し毛羽立っている。
教室の前方で、椅子が引かれる音がした。
顔を上げると、黒木悠真が自分の席から立ち上がるところだった。彼の机の上には、もう何も残っていない。シャーペンは筆箱の決まった位置に戻され、消しゴムのかすも、紙の切れ端も、机の上のどこにも見当たらない。彼が動くとき、いつもそうだ。何かを始める前に、何かを終わらせている。
悠真は鞄から封筒を取り出した。白い封筒の角はぴたりと四角く、中に入っているはずの進路調査票は、折り目ひとつないのだろうと、見なくても分かる気がした。彼は迷いのない足取りで教卓の前へ進み、提出用の箱に封筒を入れた。それだけの動作に、無駄な時間が一秒もなかった。
僕はその一連を、手を止めたまま見ていた。
見ていたつもりだったが、たぶん見つめすぎていたのだと思う。悠真が提出台から戻ってくる途中、彼の視線が僕の机の上で止まった。伏せられたままの紙。その白さは、彼にもきっと見えていたはずだ。何も書かれていないことまでは分からなくても、提出していないことは、一目で分かる。
悠真の眉が、ほんのわずかに動いた。
「まだか」
短い言葉だった。けれど、その短さは軽くなかった。
僕は何かを言おうとして、言葉が喉の途中で止まった。悠真の声には、見下すような響きはなかった。むしろ、もっと焦りに近いものが混じっていた気がする。答えを出さない人間を見ているのが、彼には耐えられないのかもしれない。あるいは、見ていられないのかもしれない。僕はそう受け取った。受け取ってしまった。
「……まだ」
それだけ答えると、自分でも驚くほど声が小さかった。
悠真は肩をすくめるでもなく、ただ一度だけ息を吐いた。乾いた音だった。鼻から抜けるような短い呼吸で、怒っているのか呆れているのか、僕には判断がつかなかった。
「迷うなら、迷う理由を言え」
刺すような言い方だったが、僕にはそれが、ただ逃げ道を塞ぐためだけの言葉には聞こえなかった。むしろ、何かを差し出しているような響きがあった。それが余計に苦しかった。責められるなら、まだ楽だったかもしれない。
「理由、って」
「お前の志望校と将来の欄は埋まってる。なのに親友の欄だけ空いてる。それが理由がないってことはないだろう」
悠真はそう言って、僕の机の端に視線を落とした。整理された彼の世界からすれば、僕の机の上は、紙の角が少しずれているだけでも気になるものなのかもしれない。
「名前を書くことに、理由がいるのか」
僕がそう言うと、悠真は初めて、わずかに目を細めた。
「いるだろ。書けないってことは、何かが引っかかってるってことだ。それを言葉にしないまま、白紙のまま出すつもりか」
「……出すつもりはない」
「じゃあ、どうするんだ」
僕は答えられなかった。答えを持っていなかったからだ。白紙のまま出すことも、無理に誰かの名前を書くことも、どちらも違う気がした。けれど、その「違う」という感覚を、言葉にする方法が分からなかった。
悠真はしばらく僕を見ていた。それから、机の端に置かれた自分の筆箱を一度だけ整えるように触れた。無意識の仕草だったのだと思う。乱れたものを、乱れたまま放っておけない。それは彼の中にある、ひとつの生き方そのものだった。
「俺はさ」
悠真が言った。
「迷い続けてる人間を見るのが、苦手なんだ。好きとか嫌いとかじゃなくて、体質的に無理だ。決めないまま時間が過ぎていくのを見てると、こっちまで足を取られてる気がしてくる」
「取られてる、って」
「分からないならいい。ただ、お前が白紙のまま出そうが、誰かの名前を無理やり書こうが、俺には関係ない。でも、迷ってる理由くらいは、自分の中で言葉にしておけ。でないと、ずっとそこで止まったままだ」
その言い方は、やはり乱暴だった。乱暴だったけれど、僕を馬鹿にしているようには聞こえなかった。悠真の目は冷たく見えて、完全には冷たくない。彼自身が、何かを見ていられないだけなのだと、僕はぼんやり思った。
「止まったままだと、何が悪い」
僕はそう言ってみた。自分でも意外なほど、声に角が立っていた。
悠真は一瞬、黙った。教室の後方で誰かが椅子を鳴らし、予鈴の前の最後のざわめきが廊下まで漏れていく。彼はそのざわめきの中で、僕の目をまっすぐに見た。
「止まったままだと、いつか置いていかれる。お前が大事に思ってる相手のほうが先に、別の場所に進んでいく。お前は気づかないふりをしてるだけで、本当は気づいてるはずだ。だから書けないんじゃなくて、書くことから逃げてるんだろう」
僕は何も言えなかった。
言えないまま、悠真の言葉だけが、教室の白い光の中に残った。結衣がもしこの場にいたら、きっと軽く笑って、何か別の話に逸らしただろう。コンビニのゼリーの話とか、増築棟の空調の話とか。けれど悠真はずらさない。ずらさずに、ただ事実だけをそこに置いていく。
「……迷う理由は、ある」
やっとそれだけ言った。
「言う気はないのか」
「ない。今は」
悠真はそれ以上、追及しなかった。短く息を吐いて、自分の席へ戻っていく。背中を向けるとき、彼が小さく呟いたのが聞こえた。
「そうか」
それだけだった。責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ受け止めただけの「そうか」。その短さに、僕は少しだけ救われたような気もした。悠真のやり方は、僕とはまるで違う。けれど、違うからといって、彼が間違っているとは思えなかった。
予鈴が鳴った。
教室のあちこちで、椅子が引かれ、最後まで迷っていた何人かが慌てて紙を提出箱に放り込む。僕はまだ、自分の机の上の白紙を、鞄にしまうことしかできなかった。
結衣が数学の教科書を閉じ、こちらをちらりと見た。何かあったのかと聞きたそうな顔をしていたが、結局、何も聞かなかった。代わりに、短くこう言っただけだった。
「午後、小テストだよ。大丈夫?」
「……多分」
「多分かぁ」
結衣は小さく笑って、前を向いた。
僕は机の中にしまった紙の感触を、指先にまだ覚えていた。悠真の言葉は、乱暴なようでいて、どこか正確に僕の内側を射抜いていた。迷う理由はある。けれど、それを言葉にすることが、今の僕にはまだできない。
白紙の欄は、ただの優柔不断として片づけられるものではなかった。けれど、それを証明する言葉もまだ、僕の中には見つからないままだった。
昼休みの終わりを告げる鐘の余韻が、窓の外の曇り空に吸い込まれていく。僕はその音を聞きながら、まだ白いままの欄のことだけを、頭の片隅で考え続けていた。
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