第2話 結衣の半分こ

昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気は一度にほどけた。

椅子を引く音が重なり、机の上に弁当箱が並ぶ。窓際では、誰かが購買へ走る友だちに財布を投げていた。廊下からは、別のクラスの笑い声と、階段を駆け下りる足音が流れ込んでくる。

僕は鞄から弁当箱を出し、机の端を拭いた。

「今日、卵焼きある?」

結衣が、自分の弁当箱の蓋を開けながら言った。

「あるけど」

「じゃあ、からあげと交換ね」

「卵焼き一個とからあげ一個は、釣り合わないんじゃないか」

「そう思うなら、からあげを二個出して」

「交渉の仕方が変だろ」

「交渉っていうのは、相手の弱いところを見つけるところから始まるんだよ」

結衣は笑いながら、僕の弁当箱を覗き込んだ。視線はすぐに手元へ落ちた。白紙の欄を隠すために、僕は進路調査票を教科書の下へ滑り込ませていた。

結衣はそれを見ても、何も言わなかった。

代わりに、自分の弁当箱からからあげを一つ取り出し、僕の弁当箱の隅へ置いた。衣の部分が少し湿っていて、昼までのあいだに油が落ちたのか、紙カップに薄い染みができている。

「はい。先払い」

「卵焼きは?」

「透が出すまで待つ」

「勝手に交換を始めたのは結衣だろ」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

「じゃあ、私の記憶違い。今日は天気も悪いし、脳みそが湿ってるのかも」

窓の外は朝から変わらず曇っていた。高台の校舎を包む雲は低く、向かいの増築棟の壁さえ白い膜の向こうにあるように見える。ガラスの隙間から入ってくる風は湿っていて、机の上のプリントの角を何度も小さく震わせた。

僕は卵焼きを箸でつまみ、結衣の弁当箱へ移した。

「これでいい?」

「うん。正式な交換成立」

「正式にする意味あるのか」

「あるよ。食べ物の貸し借りは、あとで揉めるから」

「揉めたことないだろ」

「揉める前に、私が忘れるから」

結衣は卵焼きを口に入れた。目を細めるでもなく、特別な反応をするでもない。ただ、いつもの味をいつものように受け取った。その当たり前の仕草を、僕は妙に長く見ていた。

結衣が箸を動かすたび、弁当箱の仕切りがかすかに鳴る。

朝にも同じ音を聞いた。卵焼きをもらったときの音。僕の机の白紙を見ないふりをしていたときの音。何も言わないことを選んだ人の、静かな音だった。

「昨日さ」

結衣は、からあげの衣を箸先で割りながら言った。

「コンビニで新しいゼリー見つけたんだけど、名前のわりに全然爽やかじゃなかった」

「どんな名前だったの」

「『きらめく青空ゼリー』」

「それは爽やかそう」

「でしょ? だから買ったの。なのに味が、なんていうか……雨の日に濡れた段ボールを砂糖水にした感じ」

「食べ物の感想として、かなり嫌だな」

「でも、まずくはないんだよ。そこがいちばん困る。まずかったら二度と買わないって決められるのに、微妙に食べられるから、次も買うかもしれない」

「じゃあ、好きなんじゃない?」

「好きって言うには、ちょっと湿ってる」

結衣は肩を揺らして笑った。

僕も笑った。声にはならなかったけれど、口元が少し動いたのを結衣は見ていたらしい。彼女はそれ以上、僕を笑わせようとはしなかった。笑いが続いているあいだに、次の話題へ移る。

部活帰りの一年生が、昨日の放課後に昇降口で転びかけた話。靴底についた泥を気にしすぎて、靴箱の前で立ち止まっていたこと。増築棟の空調がまたおかしくなり、教室の後ろだけ妙に寒かったこと。

「南雲台、設備が新しいのか古いのか、たまに分からなくなるよね」

結衣が言った。

「増築棟は新しいだろ」

「でも空調は古い」

「空調だけ移築されたのかも」

「どこから?」

「知らないけど、山の下とか」

「山の下に空調の墓場があるんだ」

結衣はそこでまた笑った。窓の外を一度見てから、僕の顔を見ようとした。けれど目が合う寸前に、弁当箱へ視線を戻す。

踏み込みすぎない。

その動きが、最近の結衣には増えていた。

僕がそう思っているだけかもしれない。以前から同じだったのに、今日はそれが目につくだけなのかもしれない。けれど、人の視線がどこで止まり、どこで引き返すかを、僕は見過ごせない。

白紙の欄を見られたくないと思う一方で、見つけてほしいと思っている自分もいた。

その矛盾は、弁当箱の中で半分に切られたおかずのように、どちらにも分けきれないまま残っていた。

「最近、帰るの遅いね」

結衣が言った。

唐突ではなかった。話の流れからすれば、放課後の空調や一年生の話の延長に聞こえた。けれど僕には、その一言だけが、教室のざわめきから切り離されて届いた。

「……うん」

返事をするまでに、少し時間がかかった。

結衣は箸を止めた。けれど僕の顔は見なかった。机の上に置いたペットボトルのラベルを指でなぞっている。剥がれかけた端を、何度も同じ方向へ押しつけていた。

「うん、ってことは、遅いんだ」

「最近は」

「何してるの?」

「別に」

言ったあとで、答えとして雑すぎたと思った。

結衣の指が止まった。ラベルの端が、押された形のまま少し浮いている。

「そっか」

声は変わらなかった。笑っているようにも聞こえた。

「別に責めてないよ。透が何か悪いことしてるとか、そういう話じゃなくて。ただ、最近、昇降口で見かけないなって」

「見かけない?」

「私は先に帰ることが多いから。帰る前に、透の机を見るとまだ鞄が残ってる。昨日も、その前も」

「見てたの」

「見てたっていうか、見えるんだよ。隣の席だし」

「……そう」

「そう。だから、遅いなって思っただけ。何かあるなら聞いていいのかなって思ったけど、聞かないほうがいいときもあるじゃん」

結衣はそこで言葉を切った。

「私は、透が黙ってるときに、無理やり喋らせるのがあんまり好きじゃない。喋れないんじゃなくて、喋らないでいることもあるから。そういうときまで『どうしたの』って聞くと、答えを出すために嘘をつかせることがあるし」

教室の奥で、誰かが机を叩いて笑った。

その声だけが、僕たちの机のまわりには届かないようだった。

「……結衣は、そういうの分かるの」

「分からないよ」

結衣はすぐに答えた。

「分からないから、聞きすぎないようにしてる。分かったふりをすると、相手が逃げる場所までなくなるから」

「逃げる場所って、必要?」

「必要だと思う。ずっと逃げてたら困るけど、逃げられない場所で話すのは、話すっていうより降参に近いし」

僕は箸の先を見た。細い木の表面に、弁当の油が薄くついている。

結衣の言葉は、僕のために用意されたものではないように聞こえた。いつかどこかで考えたことを、たまたま今ここで話しているだけのような。それでも、胸の内側に残った。

「透はさ」

結衣が続けた。

「黙ってるとき、ものすごく考えてる顔するよね」

「そうかな」

「うん。目が紙とか床とか、変なところに行く」

「変なところって」

「机の角とか、靴とか。あと、私の弁当箱の仕切り」

「仕切りは変じゃないだろ」

「じゃあ、普通のところ」

結衣は笑った。けれど、今度の笑いは短かった。

「だから、たぶん、何も考えてないわけじゃないんだろうなって思ってる。考えすぎて、言うところまで来ないだけで」

僕は返事をしなかった。

紙に名前を書くことを考えている。結衣の名前を書くことを考えている。書いたあとに、彼女がどういう顔をするか。笑うのか、困るのか。今まで通りに弁当を分けてくれるのか。それとも、僕が書いた一行を意識してしまうのか。

考えているうちに、書けない理由は名前の重さではなく、名前を書いたあとの相手の反応なのだと気づきかけた。

気づきかけて、僕はまた視線を落とした。

「ごめん」

口から出た。

結衣は眉を上げた。

「何が?」

「いや……なんとなく」

「なんとなくの謝罪は受け取れません」

「じゃあ、返して」

「卵焼きの代わりに?」

「そう」

「もう食べたから返せないよ」

「じゃあ、仕方ない」

「透さ、たまにそういうところだけ素直だよね」

結衣は笑った。けれど、その笑いのあとに残った沈黙は、朝より少し長かった。

彼女は僕を見なかった。見ないことで、僕がまだ答えを出せないことを許しているようにも見えた。けれど、そのやさしさは僕にとって、完全な救いではなかった。

何も聞かないことは、何も求めていないことと同じではない。

結衣はたぶん、僕がいつか自分から話すことを待っている。待っているのに、待っているとは言わない。その距離が、ありがたくて、苦しかった。

弁当箱の中には、からあげの衣の欠片が一つ落ちていた。僕は箸で拾い上げ、口へ運んだ。塩気のあとに、少しだけ苦い味が残った。

窓際では、誰かが友だちの肩に寄りかかっている。廊下を挟んだ向こうの席では、二人の男子が帰り道の予定を決めていた。

「今日、駅まで行く?」

「塾あるから、途中まで」

「じゃあ、そこまで一緒」

誰と帰るかは、いつも簡単に決まる。

僕は結衣の隣に座っている。弁当のおかずを分けている。話題が途切れても、急いで別の話を探さなくていい。そういう時間が、何度も繰り返されている。

それなのに、紙の上では、僕はまだ誰の隣にもいない。

「透」

「うん」

「今日も残る?」

結衣の声が、今度は少しだけ低かった。

「たぶん」

「そっか」

「……結衣は?」

「私は部活。終わるの早いけど」

彼女はペットボトルを鞄へしまった。立ち上がる準備をするように、弁当箱の蓋を閉じる。

「先に帰るね」

「うん」

「昨日みたいに昇降口の電気が消えたあとまで残らないでよ」

「そんなに遅くならない」

「それ、昨日も聞いた」

朝と同じ言葉だった。

けれど今度は、僕も少しだけ笑えた。

「今日は本当に」

「その自信、どこから来るの」

「根拠はないけど」

「それは自信じゃなくて希望だね」

結衣は椅子を戻し、自分の机の上に残った小さな米粒を指で拾った。最後まで机を整えるのは、彼女のいつもの癖だった。鞄を肩にかけると、僕の進路調査票の端が教科書の下から少しだけ覗いているのを見た。

結衣の視線が、そこへ落ちた。

僕は反射的に紙を押さえた。

結衣は何も言わなかった。ただ、いつものように少しだけ肩を揺らして笑った。

「じゃあ、残りのからあげ、ちゃんと食べてね」

「うん」

「あと、卵焼きは返却済みだから、次は別のものにして」

「また交換するの」

「嫌ならいいけど」

「嫌とは言ってない」

「じゃあ、次も正式な譲渡で」

結衣はそう言って、半歩だけ先に歩き出した。

すぐに振り返ることはしなかった。けれど教室の出入口で足を止め、僕が立ち上がらないことを確かめるように、窓のほうへ顔を向けた。

「透」

「何?」

「帰る前に、ちゃんと何か食べてね。考えごとだけで放課後を過ごすと、帰り道で倒れるから」

「倒れたことないよ」

「倒れてからじゃ遅いでしょ」

「結衣は、たまに母親みたいだ」

「それ、褒めてる?」

「分からない」

「じゃあ、今のは聞かなかったことにする」

彼女は笑い、今度こそ教室を出ていった。

廊下へ消えていく足音は、途中で別の足音に混じった。結衣が誰かに呼び止められ、何かを返し、また笑ったのだと思う。僕には見えないところで、彼女の時間はいつも誰かとつながっている。

僕は机の上に残った弁当箱を閉じた。

進路調査票を教科書の下から取り出す。親友の欄は、朝と同じ白さのままだった。

白紙は何も言わない。

けれど、結衣がさっき言った言葉のいくつかが、白い欄の上に重なっている。

逃げる場所は必要だということ。分かったふりをしないこと。待つことは、何もしないこととは違うということ。

それらを文字にすることはできなかった。

僕は紙の端を指でなぞり、折れかけた角をゆっくり伸ばした。白さは消えなかった。消えないまま、さっきまでより少しだけ見え方が変わっていた。

空席のように見えていた欄の向こうに、結衣が半歩先を歩き、こちらを待たずに、それでも置いていかない速度で進んでいる背中が浮かんでいた。

僕はまだ、その背中を呼び止める言葉を持っていなかった。

ただ、弁当箱の隅に残ったからあげを、ひとりで食べることはできた。

← 横にスクロールして読み進められます

結衣の半分こ - 白紙のまま、言えなかった友情へ - 誰でも作家life