第1話 親友欄の白さ

紙の白さには、音がない。

なのに、僕の机の上に伏せた進路調査票の「親友」欄だけは、教室中の音を吸い込んでいるように見えた。

志望校の欄には、昨夜、何度も書き直した末に決めた大学名がある。将来像の欄にも、まだ輪郭のぼやけた言葉を、それらしく並べた。地域の図書館で働きたい。人の話を聞き、必要な本を探す仕事に興味がある。書き終えたときには、これでいいと思った。少なくとも、これ以上考えても紙の上では変わらないと思えた。

けれど、その下にある一行だけは、どうしても埋まらなかった。

親友。

欄の横幅は、名前を一人書くには十分だった。姓と名を書けば、余白はほとんど残らない。誰か一人を選び、文字にすれば済む。それだけのことなのに、シャープペンシルの先は、白い枠の手前で止まっていた。

教室の前のほうで、ボールペンのキャップが外れる音がした。

続いて、紙を重ねる音。何枚かが机の上で揃えられ、輪ゴムの伸びる音がする。椅子を引く音、笑い声、廊下を走る上履きの音。朝の教室は、みんなが自分の紙から余計なものを取り除いていく時間みたいだった。

僕だけが、取り除けずにいる。

調査票の端を持ち上げ、机の角に合わせる。少しずれた。もう一度、角を合わせる。紙の端にできた細い折れ目を親指で伸ばす。伸ばしたはずなのに、白い光の下では折れ目が前より目立って見えた。

「透、また紙とにらめっこしてる」

隣から声がした。

相沢結衣は、椅子の背にもたれ、僕の机を覗き込む代わりに、窓のほうを見ていた。視線をこちらに置きすぎないのは、たぶん偶然ではない。

「にらめっこはしてない」

「じゃあ、紙に負けてる」

「負けてもない」

「じゃあ引き分けね。紙って、意外と強いから」

結衣はそう言って笑った。笑うと肩が少し揺れる。いつも通りの笑い方だった。けれど、僕の机の上にある白紙を見ていないふりをするには、視線の置き場所が少しだけ丁寧だった。

彼女は自分の弁当箱を開け、仕切りの端に入っていた卵焼きを箸でつまんだ。

「これ、いる?」

「いいの?」

「聞いてから取るんだ。成長したね」

「いつも勝手に入れてるのは結衣だろ」

「今日は許可を取ったから、正式な譲渡です」

卵焼きが僕の弁当箱の隅に置かれた。箸先が仕切りに触れて、小さな音を立てる。甘い匂いが、湿った朝の空気の中に浮いた。

「あとで返して」

「卵焼きを?」

「そう。半分食べたら、半分返して」

「それは返すんじゃなくて、残すっていうんじゃない?」

「細かいなあ。進路調査票もそれくらい簡単に書けばいいのに」

結衣の声は軽かった。

僕は箸を持ったまま、手を止めた。

結衣も止まった。けれど、こちらを見なかった。窓の外の曇り空を眺めたまま、卵焼きの黄色だけを見ているような顔をしていた。

「……別に、調査票の話じゃないだろ」

「うん。今のは卵焼きの話」

「卵焼きから、ずいぶん遠くまで来た気がするけど」

「朝だから。話題もまだ起きてないの」

結衣はそう言って、次は自分の弁当箱から小さなブロッコリーを取った。僕の紙に触れない。親友という欄にも、僕が何度も紙の端を揃えていることにも触れない。

そのことに、僕は助けられていた。

助けられていると分かるからこそ、胸の奥が少し狭くなる。

結衣の名前を書くことはできる。たぶん、クラスの誰かに聞けば、ほとんどの人が迷わずそう言う。僕の隣の席にいて、弁当を分けて、忘れ物をしたときには何も言わずにプリントを見せてくれる。帰り支度の遅い僕を、昇降口で何度も待ってくれたこともある。

それでも、「親友」と書いた瞬間、今までの全部が一つの意味にまとめられてしまう気がした。

卵焼きを一つもらったことも、雨の日に傘を寄せて歩いたことも、何も話さず同じ窓を見ていた時間も、すべてがその一語の中へ押し込められる。名前をつけたことで、名前のつかないものがこぼれてしまうような気がする。

結衣は、僕がそんなことを考えているとは知らない。

知らなくていいとも思う。

「透」

「うん」

「今日、提出だよね」

僕は返事の代わりに、卵焼きを口へ運んだ。甘い。少し冷えているのに、味はいつもと同じだった。

「……そう」

「そっか」

結衣はそれ以上、聞かなかった。

聞かないまま、弁当箱の蓋をずらして、隅に入っていた小さなメモを取り出した。昨日の数学の課題について、僕が書いた式の途中を写したものだった。紙は何度も折られたらしく、角が丸くなっている。

「これ、昨日の。返すの忘れてた」

「結衣が持ってたの?」

「うん。返そう返そうと思って、ずっと筆箱の下にいた」

「僕の字、読めた?」

「読めたよ。透の字、細いけど、怒ってないから好き」

「字が怒るの?」

「怒ってる字あるじゃん。線が太くて、紙に食い込んでるやつ」

結衣は自分の筆箱を軽く叩いた。使い込まれた布地の端に、小さなヘアピンが挟まっている。いつからそこにあるのか、僕は知っている。何度か気づいたけれど、聞いたことはなかった。

聞かないことが、僕たちの間では不自然にならない。

それを自然と呼んでいいのか、僕にはまだ分からない。

窓の外では、雲が低く垂れていた。高台に建つ校舎の向こう側は白く霞み、古い本館と新しい増築棟をつなぐ渡り廊下も、ガラス越しの光の中にぼんやり浮かんでいる。昇降口のほうから、濡れた風が流れてきた。靴箱の匂いと、まだ乾ききっていない床の匂いが混じっている。

外へ向かう足音が、廊下を途切れずに通り過ぎていく。

朝、校舎へ入ってくる足音は、みんな同じ方向を向いている。けれど放課後になれば、それぞれ別の場所へ散っていく。部活、塾、アルバイト、家。誰と帰るか、誰の隣に立つか。それだけで、教室の中の関係は簡単に見える形になる。

僕はそういうものを、見ないようにしているつもりで、よく見ている。

窓際の席で、二人の女子が同じ動画を見て笑っている。教室の後ろでは、男子が今日の放課後の予定を確認している。机を寄せる音があり、椅子を一つ余分に引く音がある。誰かを待つ人と、待たせる人。並んで歩く人と、少し遅れてついていく人。

僕は、結衣の隣にいる。

それなのに、この紙の上では、まだどこにもいない。

「透、卵焼き、半分残ってる」

結衣が言った。

弁当箱を見ると、黄色い切れ端が一つ残っていた。僕は箸でつまみ、口に入れた。結衣はそれを確認してから、ようやく自分の弁当箱の蓋を閉じた。

「返した」

「うん。ちゃんと返ってきた」

「食べ物を返すって、やっぱり変だろ」

「じゃあ、借りたことにしとく。今日のところは」

結衣は机の端に置いていたペンケースを閉じた。音がして、僕は反射的に進路調査票を裏返した。白紙の欄を見られたわけではない。それでも、見られる前に隠してしまった。

その動きを、結衣は見ていたと思う。

けれど何も言わなかった。少しだけ唇を開き、言葉を選ぶようにしてから、結局、いつもの調子で言った。

「今日、帰り遅くなるなら、昇降口の電気、先に消されないようにね」

「そんなに遅くならない」

「それ、昨日も聞いた」

「昨日は遅くなっただけで、今日は遅くならない」

「なるほど。説得力が、白紙の欄くらいある」

僕は笑おうとした。うまく笑えたかどうかは分からない。

結衣はそれ以上近づかなかった。冗談を投げて、僕が拾わなくても困らない場所まで下がった。けれど、離れていったわけではない。机と机の間にある、ほんのわずかな空間に、彼女の気配だけが残っていた。

予鈴が鳴った。

教室のあちこちで、椅子が引かれ、教科書が開かれる。提出する者は前へ行き、まだの者は机の中へ紙をしまう。僕は進路調査票を二つ折りにしようとして、白紙の欄が見えなくなる向きを選んだ。

けれど、折った紙の内側には、白さがそのまま残っていた。

指先に紙の硬さが伝わる。名前を書かないことで守っているものが本当にあるのか、それとも、失う前から失ったふりをしているだけなのか、僕には分からなかった。

ただ、隣の席で結衣が教科書を開く音がした。

僕はその音を聞きながら、まだ白いままの欄を、鞄の中へしまった。

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