第5話 何も越えていない、と言う声

午後の授業が始まる前、黒板の端に貼られた「進路調査票 本日締切」の紙が、朝より少しだけ傾いていた。
誰かが通り過ぎるときに肩をぶつけたのかもしれない。白い紙の右上が、画鋲の下で浮いている。僕はそれを直そうと思ったが、席を立つほどのことではないような気もして、結局、机の上の進路調査票へ視線を戻した。
志望校の欄も、将来像の欄も埋まっている。
親友の欄だけが白い。
昼休みのあとから、僕は何度もそこを見ていた。見るたびに白さが変わるわけではないのに、紙の中でその一行だけが広がっていくように感じる。欄の外側まで白く滲み、書かれているはずの他の文字まで薄くしていく。
シャープペンシルを持つ。
名前を書くつもりはなかった。ただ、白い枠の中へペン先を入れてみたかった。線を一本引けば、そこから先へ進めるような気がした。
けれど、芯は紙に触れる前に止まった。
教室の前方で、提出物の束を数える音がした。紙を一枚ずつ繰り、枚数を確認する乾いた音だった。
「三十二、三十三……」
黒木悠真の声だった。
いつの間にか、彼は教卓の前に立っていた。担任に頼まれたのか、提出済みの進路調査票を封筒へ入れ、角を揃えている。紙の束の端が少しずれると、悠真は親指で押し戻した。輪ゴムを掛けるときも、強く引っ張りすぎず、緩すぎない位置で止める。
彼の動作には、ためらいがなかった。
僕はそれを見ていた。
悠真は束を持ったまま、こちらへ歩いてきた。歩幅が一定で、廊下側の机にぶつからない。誰かが椅子を引いても、足を止めずにわずかに避けるだけだった。
僕の机の前で、彼の足が止まった。
「まだそこで止まるのか」
声は大きくなかった。教室のざわめきに紛れてしまいそうな音量なのに、僕にははっきり届いた。
僕は進路調査票の上に手を置いた。白紙の欄を隠すように、指を広げる。
「……まだ」
「見れば分かる」
「じゃあ、聞かなくてもいいだろ」
思ったより早く言葉が出た。言ってから、喉の奥が狭くなった。普段なら、返事をする前に一拍置く。相手の顔を見る。口調を確かめる。言ったあとに残るものを想像する。
けれど、そのときはできなかった。
悠真は眉を少しだけ動かした。怒った様子ではない。ただ、僕の返事をどこへ分類すればいいのか考えているように見えた。
「聞かないと、お前はそのままにする」
「そのままじゃない。考えてる」
「考えてる時間と、止まってる時間は違う」
「何が違うの」
「考えてるなら、少しずつでも前に進む。お前は同じところを見て、同じところで手を止めてる」
悠真は僕の机の端に視線を落とした。僕の進路調査票は、何度も揃え直したせいで、紙の角だけが妙に硬くなっていた。悠真はそれを見て、指先で机の上の消しゴムのかすを一つ払った。
その仕草に、なぜか腹が立った。
「それの何が悪い」
「何が」
「同じところを見てること。止まってること。お前に関係ないだろ」
「関係ない」
悠真はすぐに答えた。
「お前が何を書こうが、俺の提出物が遅れるわけじゃない。お前が誰を親友だと思おうが、俺には関係ない」
「じゃあ、放っておけばいい」
「そうしてると、いつまでもお前はそこにいるだろ」
「それも僕の勝手だ」
「そうだな」
悠真は一度、提出物の束を机に置いた。束の端が、僕の机の線とぴたり重なるように置かれた。
「勝手だけど、見てると苛つく」
「僕が?」
「お前の止まり方が」
言葉が、机の上へ固いものとして落ちた。
悠真は言い過ぎたと思ったのか、少しだけ目を逸らした。けれど謝らなかった。謝らないことも、彼のやり方なのだと思う。余計な言葉を足して、相手に別の期待を持たせることを嫌う。
「黒木は、迷わないの」
「迷う」
「迷わないように見える」
「見えるだけだ」
「でも、名前は書いたんだろ」
「書いた」
「誰の名前?」
「書く必要あるか」
僕は答えを待った。悠真は待たせることを好まないくせに、そのときだけはすぐに言わなかった。彼の指が、封筒の端を二度叩いた。揃えられた紙の束の中に、何か一枚だけ収まりきらないものがあるみたいだった。
「名前を書いた。書いたほうが、後で面倒が少ないから」
「面倒?」
「誰が親友かなんて、考え始めたらきりがない。けど、書かないままにしておくと、書かなかったことのほうが残る。だったら、一番近いと思うやつを書く。それで終わりだ」
「一番近いって、どうやって決めるの」
「一緒にいる時間。困ったときに連絡するか。頼まれたら動くか。そういうので十分だろ」
「それで全部分かる?」
「全部なんて分かるわけない」
悠真はそこで初めて、僕の顔を見た。
「でも、分からないから決めないってやってると、何も選べない。選べないまま時間だけ過ぎる。俺はそれが嫌いだ」
彼の目は、いつもより少し冷たく見えた。窓から入る曇った光が、黒目の奥を薄くしている。
「選んだら、どうなるの」
僕は聞いた。
悠真はすぐに答えなかった。教室の後ろで、誰かが筆箱を落とした。金属のペンが床を転がり、机の脚に当たって止まる。拾い上げる音がして、また授業前のざわめきへ戻っていった。
「どうにもならない」
「どうにも?」
「書いたからって、その相手との関係が変わるわけじゃない。変わるなら、書かなかったとしても変わる」
「でも、名前をつけたら、意識するだろ」
「するだろうな」
「相手も意識するかもしれない」
「するかもしれない」
「それで、今まで通りじゃなくなるかもしれない」
「なるかもしれない」
悠真は、一つずつ僕の言葉を受け止めた。
「それでも書く。変わるかもしれないから書かない、っていうのは、変わらないことを選んでるように見えて、実際には何も選んでない。相手がどう思うかを先回りして、自分の手を止めてるだけだ」
胸の奥に、細い針を刺されたような感覚があった。
僕は進路調査票を押さえていた手を少しずらした。白い欄が、また見える。
「じゃあ、黒木は、何でも言えるんだ」
「何でもではない」
「言うべきことは言える?」
「言って後悔することはある」
「それでも言うの」
「言わないで後悔するよりは、ましだから」
悠真はそう言ったあと、封筒の中身を確認した。紙の端を揃え、封筒の口を閉じる。動作はいつも通り正確だったが、さっきより少しだけ遅かった。
「昔、言わないままにしたことがある」
彼は封筒を見たまま言った。
「たいしたことじゃない。遊ぶ約束をしていた相手がいた。俺はその日、別の予定を優先した。断ればよかったのに、面倒で何も言わなかった。相手は待って、来なかった。次の日に謝ったけど、もう前みたいにはならなかった」
「それは、言わなかったから?」
「たぶん」
「本当に?」
「分からない」
その言葉は、悠真の口から出るには不釣り合いだった。
彼も分からないことがある。決めることを急ぐ彼の中にも、答えにならないものが残っている。僕はその事実を、初めて近い距離で見た気がした。
「分からないのに、決めるの」
「分からないから決めるんだ」
悠真は言った。
「分かるまで待ってたら、何もできない。けど、決めたから正しいとも思ってない。間違えたら直す。失ったら、失ったままにしない。少なくとも、俺はそうするつもりでいる」
「直せないこともある」
「ある」
「失ったものが戻らないことも」
「ある」
「それでも?」
「それでもだ」
そこまで言って、悠真はようやく僕の進路調査票を指で示した。
「お前は、失うのが怖いから書けないんだろ」
心臓が一度だけ大きく鳴った。
窓の外で、低い雲が校舎の屋根を押している。ガラス越しの光は白く、机の上の紙も、悠真の顔も、輪郭の縁だけを残して薄くしていた。
「違う」
「何が」
「書いたら失うかもしれないから、書けないんじゃない」
自分の声が、どこから出ているのか分からなかった。
「書いたら、その人との時間を一つの言葉にしてしまうから嫌なんだ。弁当を分けたことも、忘れ物を貸してくれたことも、帰り道に何も話さず歩いたことも、全部ひとまとめにしてしまう。親友って書けば、そういう名前の関係だったことにできる。でも、僕が覚えているのは名前じゃなくて、そのときの空気とか、相手の歩く速さとか、何を言わなかったかとか、そういう……」
言葉が続かなくなった。
言ってしまった。
結衣のことを直接言ったわけではない。それでも、彼女と過ごした時間の形を、悠真の前に置いてしまった気がした。
悠真は黙っていた。
いつもなら、すぐに要点を切り出す。何が言いたい、結論は、と。けれど今回は、僕の言葉が途切れたあとも、何も挟まなかった。
沈黙の中で、廊下の足音が遠ざかっていく。誰かが教室へ駆け込み、椅子を引く。窓の隙間から湿った風が入り、進路調査票の端をわずかに持ち上げる。
僕は紙を押さえた。
「それでも、何も越えてない」
悠真が言った。
今度の声は、さっきより低かった。
「何も越えてないから、名前を書けないんだ。お前が覚えてるのは、相手と一緒にいた時間じゃない。失う前の時間だ。雨が降っていたとか、傘を寄せたとか、そういうところで止まってる」
僕は顔を上げた。
教室の空気が、少しだけ冷えた。
「小学校の頃の話、誰かにした?」
「してない」
「なら、どうして」
「顔を見れば分かる」
悠真は僕の顔から視線を外さなかった。
「お前がこの欄を見るとき、今いる相沢じゃなくて、別の誰かを見てる。名前を書くことが怖いんじゃない。名前を書いたあとに、またいなくなることが怖いんだろ」
机の下で、僕の手が固くなった。
古い折りたたみ傘の骨が、指の間に食い込む感触が蘇る。雨粒が傘の布を叩く音。濡れたアスファルトの匂い。隣を歩く相手の肩が、傘の端から何度もはみ出していた。
あの日、僕は何度も言おうとした。
一番の友だち。
その言葉を口にしたら、相手は笑うかもしれなかった。そんなの知ってる、と言うかもしれなかった。逆に、困った顔をするかもしれなかった。だから僕は、別れ際まで言えなかった。
言えなかったまま、相手は転校した。
それからずっと、僕は言葉を選ばなかったことが、別れを決めたのだと思っていた。
「言わなかったから、いなくなったんじゃない」
悠真が言った。
その声は、僕の記憶に入り込んできたように聞こえた。
「転校しただけだ。お前が名前を言ったとしても、言わなかったとしても、たぶん同じだった。なのに、お前は自分の沈黙に理由を押しつけてる。そうすれば、次に誰かを失うときも、言わなければいいと思えるから」
「そんなこと……」
「違うなら、今ここで書ける」
悠真の指が、白い欄の横で止まった。
「相沢の名前を書け。書いて、何も起きなかったら、お前の考えすぎだ。何か起きたら、そのとき考えればいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
「簡単に聞こえる」
「そう聞こえるなら、俺の言い方が悪い」
悠真は初めて、少しだけ視線を落とした。
「でも、俺は簡単だと思ってるわけじゃない。決めることは、怖い。間違えることもある。書いた名前が相手の負担になるかもしれない。そういうのを分かった上で、それでも自分の側から何かを置くんだ。何も置かずに、相手がどう受け取るかだけを待つのは、優しさじゃない」
胸の奥が痛んだ。
結衣が昼休みに言っていた。逃げる場所は必要だと。問い詰められないことが、僕にはありがたかった。けれど、そのありがたさを理由にして、自分から一歩も動かないままでいるのは、彼女に何も渡していないのと同じなのかもしれない。
「じゃあ、黒木は書いたことで、何か渡せたの」
「知らない」
「知らないのに、そう言うの」
「俺は、相手の受け取り方まで管理できない」
悠真の声が、わずかに掠れた。
「だから、できることだけする。書く。言う。約束したら行く。行けないなら先に連絡する。それでも壊れるときは壊れる。けど、壊れた理由を自分の中だけで作って、相手に確かめもしないまま終わらせるのは嫌だ」
長い言葉だった。
悠真がこれほど続けて話すのを、僕は初めて聞いた。彼の合理性は、感情を持たないためのものではなかった。感情に振り回されないよう、先に形を決めているだけだった。形を決めれば、崩れたときにどこが崩れたのか分かる。そう信じているように見えた。
「僕は、確かめたくない」
「相沢が何を思ってるか?」
「違う。僕が何を思ってるか」
言葉にした途端、白紙の欄が目の前で広がった。
結衣を親友だと思っているのか。そうでないのか。思っているとして、どのくらいなのか。誰か一人に決めることができるのか。答えは、どれも紙の上に置くには大きすぎた。
「自分の気持ちを見たら、名前をつけないといけなくなる気がする」
「つけなくていい」
悠真は言った。
「ただ、見ろ。見た上で書かないなら、それは逃げじゃない。今のお前は、見ないために欄を見てる」
僕は何も言えなかった。
白紙を見つめているのに、そこへ自分の気持ちを置かないようにしていた。結衣の名前を書けない理由を、名前の重さや関係の曖昧さのせいにしていた。けれど本当は、名前を書いたあとに相手の顔を見る自分が怖い。書いた一行に、自分の気持ちを見返されることが怖い。
チャイムが鳴った。
午後の授業を知らせる音が、教室の天井から落ちてくる。生徒たちが一斉に席へ戻り、机を引く音が重なった。
悠真は提出物の束を持ち上げた。角はまだ揃っていた。
「授業が終わったら、佐伯先生が回収に来る」
「分かってる」
「分かってるなら、決めろ」
「今すぐ?」
「締切は今すぐだ」
「黒木は、そういうところが嫌いだ」
初めて、はっきり言えた。
悠真は一瞬だけ目を見開いた。けれど、怒らなかった。むしろ、ほんの少し口元を緩めたように見えた。
「そうか。じゃあ、覚えておく」
「忘れていい」
「それは決めない」
悠真はそう言って、自分の席へ戻った。
僕は進路調査票を机の中へしまおうとした。けれど、白紙の欄が目に入ったまま、手が動かなかった。
窓の外は、まだ曇っている。
雨は降っていないのに、濡れた日の匂いがした。小学校最後の日の帰り道に似た、冷たい土とアスファルトの匂い。あのときの僕は、傘の内側で言葉を抱えたまま、隣を歩く相手の歩幅だけを覚えていた。
言わなかったから失ったのか。
失うのが怖かったから、言わなかったのか。
どちらとも決められないまま、僕は紙の端を揃えた。
悠真の言葉は、胸の重さを取り除いてはくれなかった。けれど、重さの置かれている場所を、前よりはっきりさせた。
僕はまだ、何も越えていない。
その事実だけが、白い欄の中で、誰かの名前より先に残っていた。
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