第9話 河川敷、二つの足音

翌日の夕方、三枝蓮から連絡が来た。

《河川敷、来られる?》

それだけだった。

いつもの蓮なら、最後に余計な一言をつける。走るぞ、とか、ゼリー買っといた、とか、来なかったら置いてく、とか。けれど、その日は短い文面のまま、しばらく画面が光っていた。

僕は返信を打ち、消した。

行く、と入力して、また消した。行ける、と書いて、違う気がした。結局、《分かった》とだけ送った。

送信したあと、机の上のストップウォッチを見た。

SEIKO TRACK MASTERは、昨日と同じように秒針を進めていた。雨宮先輩へ返すために、表面の埃は拭き取った。ボタンの固さも確認した。裏面の文字は薄くなっていたが、まだ読める。

返却先:雨宮先輩。

僕はその文字を指でなぞり、それから時計をポケットへ入れた。持っていく必要はなかった。蓮に会うだけなら、部室へ置いていけばいい。それでも、今は手放す気になれなかった。

河川敷までの道は、昨日より乾いていた。

校門を出ると、風が正面から吹いてきた。夏の熱を含んだままなのに、どこか薄い。昼間の陽射しが強かった場所ほど、夕方になると急に冷える。首筋を撫でられた瞬間、身体の中に残っていた汗が冷たくなった。

堤防の坂を下りると、蓮は階段の下に立っていた。

手には、コンビニの袋がある。袋の中身は見なくても分かった。冷たいゼリー飲料だ。蓮は僕を見つけると、一度だけ笑おうとした。けれど、その笑顔は途中で止まり、代わりに袋を持ち上げた。

「食べる?」

「走る前に?」

「走りながらでもいいし、終わってからでもいい。俺はもう一個ある」

「いつも二個買うの」

「今日は、たまたま」

「昨日も持ってた」

「昨日のは昨日の」

蓮はそう言いながら、袋から一本取り出した。冷気で濡れた容器が、夕方の光を細かく返している。

「はい」

「まだ走ってない」

「知ってる。だから渡した」

僕は受け取った。蓋の固さを親指で確かめる。いつもなら、蓮はそれを見て何か言う。几帳面だな、とか、そこ確認するところ、とか。今日は何も言わなかった。

僕たちは土手の上へ上がった。

河川敷には、犬を連れた人が何人かいた。自転車が一台、風を切って通り過ぎる。水際の草むらでは、見えない虫が絶えず鳴いていた。川面は夕陽を受けて細長く光り、その光が流れに押されて、崩れながら下流へ運ばれていく。

蓮はストレッチを始めた。肩を大きく回し、足首を確かめ、最後に首元へ指を当てる。走る前の癖だ。けれど今日は、何度も同じ場所をなぞっていた。

僕は靴ひもを結び直した。緩んでいるわけではなかった。結び目は十分に固い。それでも、指を動かしていないと、蓮の沈黙が身体の内側へ入り込んできた。

「ゆっくりでいいから」

蓮が言った。

「いつもゆっくりだろ」

「そういう意味じゃなくて」

「分かってる」

蓮は口を閉じた。

僕たちは周回路へ入った。最初の数十メートルは、足音が揃わなかった。蓮の歩幅が大きい。速度を落としているのに、地面へ伝わる力が違う。僕のスパイクは土を細かく削り、蓮のスパイクは一度に深く踏み込む。

その差を、僕は聞いていた。

右、左。右、左。

蓮は意識しているのか、少しずつ歩幅を狭めた。僕に合わせている。合わせられていることが、息苦しかった。

「普通に走っていい」

僕は言った。

「普通って?」

「蓮の普通」

「それ、たぶん今のおまえには速い」

「決めつけるなよ」

「決めつけてない。昨日から見てる」

反論しようとして、やめた。蓮は走りながら僕の顔を見ていない。前を向いたまま、呼吸の音だけで僕の具合を測っている。僕が誰かの呼吸を聞くように、蓮も僕の呼吸を聞いていた。

それが、少し悔しかった。

僕はいつも、見る側だった。測る側だった。誰かの崩れに気づいても、自分の崩れは隠していられた。けれど蓮は、僕が隠そうとしているものを、数字ではなく走る速さの差から拾ってしまう。

一周目の後半、蓮の呼吸が乱れた。

県大会の疲労がまだ残っているのかもしれない。決勝まで走った身体は、僕のように「走っていないから疲れていない」とは言えない。肩が上がり、吐く息が少し長くなる。

「止まる?」

僕が聞くと、蓮は首を振った。

「大丈夫」

「その言葉、信用できない」

「高瀬に言われると、なんか刺さるな」

「いつも言ってるだろ」

「いつもは俺が言う側だから」

蓮は笑った。しかし、笑ったあとで、すぐに顔を前へ戻した。

二周目に入ると、風が正面から強くなった。草が一斉に伏せ、川面の光が細かく震える。土の乾いた表面が風に削られ、靴の周りで小さな粒が跳ねた。

僕の左足が、わずかに沈んだ。

昨日の雨が残っている場所だった。泥は乾ききっておらず、表面だけが固くなっている。僕が足を抜く前に、蓮が腕を伸ばした。

「そこ、滑る」

「見えてる」

「見えてるなら、足を取られるなよ」

「蓮が急に止まるから」

「止まってない。おまえが遅れた」

「だから、合わせなくていいって言ってる」

声が思ったより強くなった。

蓮は足を止めた。僕も数歩進んでから止まる。二人の間に、風が通り抜けた。川の匂いと、乾いた草の匂いが混じっている。

「合わせてるんじゃない」

蓮が言った。

「じゃあ、何だよ」

「一緒に走ってる」

「同じだろ」

「違う」

蓮は首元を指でなぞった。緊張しているときの仕草だった。いつものように笑ってごまかそうとしたが、笑う前に口を閉じた。

「おまえは、俺が合わせてるって思うんだろ。俺が速いから、おまえに合わせてやってるって。そうじゃない。俺が一人で走るのが嫌だから、隣にいる」

「蓮は一人で走れるだろ」

「走れるよ」

「なら、なんで」

「走れることと、一人で走りたいことは違う」

風が蓮のシャツを膨らませた。県大会で何度も見た背中が、目の前では少しだけ小さく見えた。速い人間の身体にも、風は同じように当たる。疲れも、乾いた汗の冷たさも、走り終えたあとの脚の重さも、たぶん同じ場所に残る。

「俺、前に出るのが当たり前になってた」

蓮は川面を見たまま言った。

謝罪にも、自慢にも聞こえなかった。どちらにもなりきれない言葉が、風の中に置かれた。

僕は、すぐには返さなかった。

呼吸を整えながら、足元を見た。泥のついた靴先。乾いた土がスパイクの溝に入り込んでいる。僕の靴は、他の主力のものより減り方が遅い。走る距離が少ないからだ。練習で同じメニューをこなしても、最後の一本を任されることはほとんどなかった。

補欠でいることに、僕は慣れたふりをしていた。

速い人が走る。チームが勝つためには、それが正しい。僕より速い人がいるなら、その人が前へ出るべきだ。そう思っていた。そう思えば、悔しがることはわがままになる。出られないことを受け入れれば、役に立てる場所が残る。

けれど、当たり前という言葉は、毎日少しずつ人を削る。

蓮が前へ出ることが当たり前で、僕が後ろから測ることが当たり前だった。その当たり前の中で、僕は自分の悔しさを置く場所をなくしていた。

「俺、勝った側みたいに見えるだろ」

蓮が続けた。

「県大会で決勝まで行って、走って、タイムも残って。周りから見れば、俺は次へ行ける。でも、走ってる最中、何度もおまえのこと考えた。おまえがいるところを見ようとして、見ないようにしてた。見たら、俺が前へ出てることを意識するから」

「走ってるときに、そんなこと考えるなよ」

「考えるなって言われても、考えるだろ。俺は速い側にいる。それは変えられない。でも、その速さで誰かを置いていくなら、何も感じない人間にはなりたくない」

「感じたからって、僕が走れるわけじゃない」

「分かってる」

「分かってないだろ」

言葉が、とうとう追いついてきた。

「蓮が何を考えてたかなんて、僕には関係ない。走ったのは蓮で、走れなかったのは僕だ。蓮が罪悪感を持ったからって、僕の補欠の時間が軽くなるわけじゃない。謝られたからって、スタートラインに立てなかったことが、立てたことになるわけでもない」

蓮は、黙って聞いていた。

「僕は、蓮を責めたいわけじゃない。速いことが悪いとも思ってない。むしろ、蓮が速いから、俺は何度もタイムを取りたくなった。速い人間の走りは、見ていて気持ちがいい。音が違う。最後まで足が落ちない。そこに混ざれないのが、悔しかっただけだ」

喉が熱くなった。声を荒げたわけではないのに、胸の奥が擦れて痛む。

「それを、僕は自分で隠した。補欠だから仕方がないって。計測できるからいいって。誰かの役に立てるなら、それでいいって。そうやって自分を納得させてた。でも、本当は違う。走りたかった。蓮の隣じゃなくてもよかった。自分の足音が、ちゃんと聞こえる場所に立ちたかった」

蓮は、しばらく川面を見ていた。

水は流れ続けている。夕陽の光が砕け、蓮の顔の横で明滅していた。風が止むと、草の葉が少しずつ起き上がる。

「言ってくれて、よかった」

蓮が言った。

「何が」

「走りたかったって」

「言っただけだろ」

「言えなかったじゃん、今まで」

「言ったところで、速くなるわけじゃない」

「でも、言わないままなら、俺はずっと勘違いしてた。おまえは計測が好きで、俺たちの走りを見てるのが楽しくて、補欠でも平気なんだと思ってた」

「平気なわけないだろ」

「うん。今は分かる」

「今さらだな」

「今さらだよ」

蓮は素直に認めた。そこで言い訳を足さなかった。

「でも、今さら分かったなら、分からないままよりはいいだろ」

「……そうかもしれない」

それ以上は続かなかった。

蓮が、コンビニの袋を開けた。中からゼリー飲料を取り出し、僕へ差し出す。今度は蓋を開けていない。

「飲む?」

「走ってる途中に?」

「もう一周、行く前に」

「蓮は」

「俺はあとでいい」

「また二個買ったのか」

「だから、たまたま」

「昨日もたまたま」

「毎日、たまたまなんだよ」

くだらないやり取りなのに、胸の奥に張っていたものが少し緩んだ。僕はゼリー飲料を受け取り、蓋の固さを確かめた。きちんと閉まっている。容器は冷たく、手のひらの熱をすぐに奪っていく。

「おまえさ」

蓮が言った。

「何」

「計測ノートに、よく変なこと書くよな」

僕の指が止まった。

「変なことって」

「風が戻るまで待て、とか。ラストで息が揃う、とか。俺の記録の横にも、たまにある。『最初の三歩、重い』とか、『今日は音がばらばら』とか」

「見たのか」

「見えるだろ。ノート、部の共有物だし」

「勝手に読むなよ」

「読んでない。蓮のページを探してたら、たまたま目に入った」

「それを読むって言うんだよ」

「じゃあ、読む」

「開き直るな」

蓮は笑った。今度の笑いは、場を明るくするためではなく、僕の言葉を受け取ったあとの呼吸みたいだった。

「でもさ、そのメモ、俺は好きだよ」

笑いが消えたあと、蓮は続けた。

「タイムだけなら、速いか遅いかしか分からない。でも、おまえのメモがあると、その日の走りが少し戻ってくる。風が強かったとか、俺が焦ってたとか、最後に誰かの足音が追いついてきたとか。俺、自分の走りを数字でしか覚えてないと思ってたけど、実際はおまえの書いた一言で思い出すことがある」

「僕のメモで?」

「そう。だから、俺にとっては必要だった」

必要という言葉に、僕は反射的に身構えた。

「代わりはいくらでもいる」

「そういう話じゃない」

「僕じゃなくても、誰かが測る」

「そうかもしれない。でも、誰かが測ることと、おまえが測ったことは同じじゃない」

「それは、雨宮先輩にも言われた」

「澪先輩に?」

「昨日、話した」

「時計、返せた?」

僕はゼリー飲料の蓋を見た。

「まだ」

「そっか」

「受け取ってもらえなかった」

「なんで?」

「分からない。先輩が、まだ受け取る時間じゃないって」

「澪先輩らしいな」

蓮は、川面へ視線を戻した。

「俺、あの人のこと、ずっと強いと思ってた。故障しても平気な顔して、部活に来て、後輩に指示して。引退してからも、何も変わってないように見えた」

「変わってないように見せてたんだと思う」

「そうだな。俺たちが不安になるから」

「でも、先輩も走れないことが悔しかったって」

「言ってた?」

「うん」

「そっか」

蓮は、それ以上質問しなかった。人の痛みを聞いたあと、すぐに自分の言葉を重ねない。いつの間にか、少しだけ変わっていた。以前なら、何か感想を言って、空気を動かそうとしたはずだった。

僕たちは並んで土手の斜面へ座った。

走ったあとの土は、膝の裏へ熱を返してきた。シャツの背中は汗で濡れ、風が当たるたびに薄く冷える。脚は重い。僕の脚にも、蓮の脚にも、それぞれ違う疲労が残っている。速さが違えば疲れ方も違う。けれど、走り終えたあとに身体が自分の重さを取り戻す感覚だけは、同じだった。

蓮が、僕のバッグへ手を伸ばした。

「持つ?」

「いい」

「そっか」

蓮はすぐに手を引いた。

昨日までなら、その手の動きを見て、僕は少し苛立っていた。持てるのに。自分でできるのに。そう思って、差し出された気遣いそのものを拒んでいた。

今日は、断る理由が少し違った。

「……でも」

「ん?」

「帰り、半分持って」

蓮は、目を瞬かせた。

「半分?」

「僕のバッグを、途中まで」

「全部じゃなくて?」

「全部だと、また気を遣われてるみたいだから」

「半分ならいいの?」

「知らない」

蓮は、笑った。

「それ、高瀬の中の基準が細かすぎるだろ」

「測るものがないと困る」

「じゃあ、今日は測らなくていい」

「それは無理」

「無理なのかよ」

「無理だ」

蓮の笑い声が、河川敷の風に混じった。大きくはない。けれど、昨日までより遠くへ届いた気がした。

僕はゼリー飲料の蓋を開けた。薄い甘さが舌に広がり、冷たさが喉を落ちていく。走り終えた身体が、遅れてそれを受け入れた。

川の流れは、夕陽を細く引き延ばしながら進んでいた。

僕はふと、計測ノートの一文を思い出した。

今日は音がそろっていた。

あれを書いた日の走りが、どんなものだったのか、まだ全部は思い出せない。ただ、誰かの足音を聞いていた。呼吸の間隔を聞き、風の向きを感じ、走り終えた身体が地面へ戻っていく音を聞いていた。

僕は走る側の人間を見ているつもりだった。

けれど本当は、走る人間と同じ場所で、同じ時間に耳を澄ませていた。

蓮が立ち上がった。

「もう一周、行く?」

僕は川面を見た。空の青が薄くなり、代わりに灰色が広がり始めている。風は少し冷えていた。土手の草が揺れ、その揺れが下流へ向かって走っていく。

「ゆっくりなら」

「分かってる」

「合わせるなよ」

「合わせない。一緒に走る」

蓮はそう言って、僕の返事を待った。

僕はゼリー飲料の空袋を畳み、ポケットへ入れた。蓮が持とうとした僕のバッグを、今度は素直に半分だけ渡す。蓮は何も言わず、片方の肩へ掛けた。

歩き出す。

最初の足音は、まだ揃っていなかった。

右、左。右、左。

けれど、どちらかがどちらかを追いかけるのではなく、二つの音がそれぞれの速さで土を踏んでいた。川の水音がその間を埋め、遠くで車のタイヤが乾いた道路を擦る。

僕は秒数を数えなかった。

代わりに、呼吸の深さを確かめた。足裏の接地を確かめた。風が背中へ回り、汗の冷えたシャツをわずかに押した。

走ることは、前へ出ることだけではない。

誰かの隣で、同じ方向へ身体を運ぶこともある。立ち止まって、相手の呼吸が戻るのを待つこともある。走れない時間を抱えたまま、それでも土の上へ足を置くこともある。

それを、僕はまだ自分の言葉では言えなかった。

ただ、蓮の足音が隣にあった。

速すぎず、遅すぎず、完全には揃わないまま、二つの音が夕暮れの河川敷を進んでいく。

ポケットの中で、ストップウォッチの秒針が動いていた。

僕はそれを取り出さなかった。

見なくても、時間が進んでいることは分かった。

← 横にスクロールして読み進められます

河川敷、二つの足音 - 測る夏 - 誰でも作家life