第10話 まだ、の続き

翌朝、脚の内側に薄い痛みが残っていた。
布団から起き上がると、ふくらはぎが遅れて引きつる。昨日、河川敷を二周しただけなのに、身体は練習の翌日みたいだった。蓮と走った距離を、僕は測っていない。何分かかったのかも、途中で何度立ち止まったのかも覚えていなかった。
それでも、足音だけは残っている。
右、左。右、左。
朝食の味噌汁を飲んでいると、母が向かいの椅子へ腰を下ろした。夜勤明けらしく、髪を後ろで束ねたまま、まだエプロンを外していない。
「昨日、走ったの」
「少し」
「少しの人は、そんな歩き方しない」
箸で焼き魚をつつきながら、母は僕の足元を見た。
「痛いなら、今日は休みなさい」
「休めない」
「部活、もう終わったんじゃないの」
「片づけがある」
「片づけなら、歩ける範囲でやればいいでしょう」
僕は返事をしなかった。母は追及しない。代わりに、冷蔵庫から小さな紙パックの牛乳を出して、僕の茶碗の横へ置いた。
「何か返すものでもあるの」
手が止まった。
「どうして」
「昨日から、ポケットを何度も確認してるから」
ストップウォッチは、机の上に置いてきた。けれど、母の言うとおり、何も入っていないポケットへ指を入れる癖がついていた。
「借りてたものを返すだけ」
「返すだけなら、そんな顔しない」
「どんな顔」
「食べてるのに、食べてない顔」
母は味噌汁を一口飲んだ。
「返したら、帰ってきなさい。返したもののことを、家まで持って帰らないように」
「……難しいこと言うなよ」
「難しいから言ってるの」
母はそれだけ言って立ち上がった。流しへ茶碗を運ぶ背中を見ながら、僕は牛乳の紙パックを開けた。冷たさが喉を通り、身体の奥へ落ちていく。
学校へ着くと、部室の前に蓮がいた。
肩には昨日の僕のバッグが掛かっている。半分だけ持つと言ったのに、帰り道の途中で僕が黙っているあいだに、いつの間にか全部持っていた。
「それ、返して」
「おはよう」
「返して」
「朝一番の会話がそれ?」
「僕のだから」
蓮はバッグを下ろし、僕へ渡した。けれど、手を離す前に一度だけ重さを確かめるように持ち上げた。
「筋肉痛、ひどい?」
「少し」
「昨日の『少し』は信用できなかったけど、今日のは?」
「同じ」
「じゃあ、信用しない」
蓮は笑った。僕は鍵を取り出し、部室の錠へ差し込んだ。
中には、県大会から戻った荷物がまだ積まれていた。ゼッケン、バトンケース、使いかけのテーピング、折り畳まれたテント。夏の終わりが、段ボールと汗の匂いになって床へ置かれている。
小野寺先生は、窓際で計測ノートを並べていた。
「来たか」
「はい」
「箱、三つ。残す、廃棄、確認待ち」
先生は顎で壁際を示した。
「雨宮の分は、確認待ちに入れるな」
「分かりました」
「本人に返せ」
僕は無意識にポケットへ手を入れた。何もない布地が指に触れた。
蓮が、僕の横で小さく息を吐いた。
「先生、俺たちの記録用紙は?」
「ファイルへ。決勝の分は別にする」
「別に?」
「次の代に見せる」
「負けたやつも?」
先生はファイルの角を揃えた。
「負けた記録を捨てる部は、勝った記録も長くは残らん」
それ以上は言わず、先生は部室を出ていった。
僕たちは二人で作業を始めた。蓮は段ボールを運び、僕は中身を一つずつ確認した。名前のないタオル、片方だけの手袋、電池の切れたタイマー。誰かが置き忘れたものを見つけるたび、蓮が「これ、誰のだ」と聞き、僕が答える。
棚の奥から、古い計測ノートが一冊出てきた。
表紙の端が擦れて、紙の繊維が毛羽立っている。開くと、雨宮先輩の字があった。
八百メートル、二周目で向かい風。
次のページには、僕の字が残っている。
ラスト一周、足音が三つ。最後までばらけなかった。
その下に、澪先輩の赤いペンで短く書かれていた。
見ている人も、走っている。
僕は指でその文字をなぞった。
「それ、澪先輩の?」
蓮が箱を抱えたまま覗き込んだ。
「たぶん」
「たぶんって」
「自分の字じゃないから」
「そういう意味じゃなくて」
蓮は箱を床へ置いた。
「昨日の話、考えてた」
「何を」
「俺たち、走ってる人だけが部員みたいな顔をしてたなって」
僕はノートを閉じた。
「蓮だけじゃない。僕もそう思ってた」
「でも、次の代には、そう思わせたくない」
「どうするの」
「知らない」
蓮は困ったように頭を掻いた。
「知らないけど、知らないままにするのも違う気がする。記録係とか補欠とか、走ってない人の名前も、ちゃんと残せるようにしたい」
「名前なら、今も書いてある」
「名前だけじゃなくてさ」
蓮はノートの表紙を指で叩いた。
「誰が何を見てたか。誰がどのラップを取ったか。誰が風を覚えてたか。そういうの」
「記録が増えすぎる」
「いいじゃん。部室、狭くなるくらいで」
蓮らしいと思った。勝つために前へ出る人間が、記録を増やすことを考えている。その不器用さが、昨日より近く感じられた。
僕はノートをファイルへ戻した。
「蓮」
「ん?」
「明日、澪先輩に時計を返す」
「決めた?」
「決めた」
「受け取ってもらえるかな」
「分からない」
「また受け取ってもらえなかったら?」
僕は棚の中に残った埃を布で拭いた。何度も同じ場所を擦る。木の表面が少しずつ明るくなっていく。
「また持っていく」
蓮は何も言わなかった。
やがて窓の外から、下級生の足音が聞こえた。グラウンドへ向かう声、スパイクの底が廊下を擦る音。新しい練習が始まろうとしている。
僕は計測ノートの最後のページを開いた。
数字を書く場所は、まだ空いている。
その下へ、ペンを置いた。
返す。
一度書いてから、少し考えた。母の言葉を思い出す。返したものを、家まで持って帰らないように。
僕はその下へ、もう一行を書き足した。
返したあとも、忘れない。
数字ではなかった。けれど、昨日の足音のように、それは消えずに残った。
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