第8話 返しそびれた秒針

澪先輩は、ストップウォッチを受け取る前に、わざと話を急がなかった。

僕が時計を机の上へ置いてから、もう何分経ったのか分からない。秒針は動いている。細い針が文字盤の上を一周し、また同じ場所へ戻る。そのたびに、時計の内部からかすかな音がした。

僕は膝の上で指を組み直した。親指の爪が、反対の指の節へ食い込む。何かを言わなければと思うのに、言葉は喉の奥で形にならなかった。

澪先輩はそんな僕を見ていた。

見ているのに、急かさない。問いかけるでもなく、助け舟を出すでもなく、ただ相手が自分の言葉を見つけるまで待つ。その待ち方が、僕には時々、走ることより厳しかった。

先輩の指が、時計の裏蓋へ伸びた。

返却先:雨宮先輩。

薄くなった油性ペンの文字を、紙の状態を確かめるように、指先でゆっくりとなぞる。指が「雨宮」の二文字の上で止まり、それから少し離れた。

「まだ、残ってたんだね」

「はい」

「字、薄くなった」

「拭いたら、少し読めるようになりました」

「高瀬らしい」

「何がですか」

「汚れを落とすところ」

先輩は時計を持ち上げた。掌に乗せる仕草が丁寧だった。まるで、壊れたものではなく、壊れないように長く使われてきたものを扱っているようだった。

「動く?」

「確認しました。秒針は動きます。スタートとストップも、少し固いですけど使えます」

「そう」

「返すなら、使える状態にしておくべきだと思って」

「返すなら、ね」

その言い方に、僕は顔を上げた。

澪先輩は時計の文字盤を見ていた。白い蛍光灯が、銀色の縁に細く反射している。時計は先輩の手に収まると、僕が持っていたときより小さく見えた。持ち主のところへ戻るべきものが、一時的に帰る場所を見つけたようにも見えた。

「返さなくてもいい、とは言ってない」

「でも、受け取らないんですか」

「今日は」

「どうしてですか」

先輩はすぐには答えなかった。時計の裏面をもう一度見て、親指で古い傷を撫でる。

「高瀬が、返して終わりにしたい顔をしてるから」

「終わりにしたいんです」

「何を」

「分かりません」

「分からないのに?」

「だからです」

声が少しだけ強くなった。自分でも、先輩に対してこんな言い方をしたことはほとんどなかった。

「県大会が終わって、部活も終わって、先輩の時計も返せば、それで区切りがつくと思ったんです。僕は補欠のまま終わった。先輩はもう引退している。蓮も、次の場所へ行く。だったら、ここに残っているものを全部、きちんと戻せばいい。そうすれば、僕も次へ行けると思った」

「次は、どこ?」

「分かりません」

「大学?」

「それも」

「陸上?」

「……それもです」

先輩は時計を机へ戻した。

「じゃあ、時計だけ先に返しても、置いていかれるものが増えるね」

その言葉が、胸の奥に引っかかった。

「僕は、何かを置いていくのが嫌なんです」

「うん」

「試合で走れなかったことも、補欠だったことも、タイムを取っていたことも、全部、終わったことにしたかった。でも、終わったことにしようとすると、なかったことにしないといけない気がして」

口にした途端、部屋の中の空気が変わった。

窓の隙間から入ってきた風が、机の上の計測ノートの端を揺らした。紙が一枚めくれ、見慣れた僕の字が現れる。

向かい風。

肩が上がる。

ラストで息が揃う。

数字の横に並んだ短い言葉が、暗い水の底から浮かび上がってくるようだった。

「先輩は、僕に時計を預けたとき、何を返してほしかったんですか」

澪先輩は計測ノートを開いたまま、しばらく黙っていた。

「時計」

「それだけですか」

「最初は」

「最初は?」

「自分が使っていたものを、引退するときに返してもらう。それだけのつもりだった」

先輩はページの余白を指で押さえた。

「でも、引退が近づいて、走れなくなって、部から離れていく時間が増えてくると、時計を返してもらうことが、少し怖くなった」

「怖い?」

「返ってきたら、私がもう走らない人になる気がした」

先輩は、窓の外へ目を向けた。

夜のグラウンドは暗く、照明の届かない場所に何があるのか分からない。風が芝生の表面を撫で、黒い波のように動かしている。

「時計を預けたときは、走っていた。練習が終われば、次の練習があった。大会が終わっても、次の記録会があった。故障してからは、そういう次が急に消えた。歩くことはできる。軽く走ることもできる。でも、前みたいに走れない。主将として指示を出しても、自分が同じ場所に立てない」

「それでも、部には来てましたよね」

「来ていた。来ないと、いろいろなものが終わってしまいそうだったから」

「先輩でも、そう思うんですか」

「先輩でも、というより、先輩だったからかな」

澪先輩は、少しだけ笑った。

「主将は、終わりを見せない役目だと思っていた。後輩が不安そうなら大丈夫と言う。誰かが遅れれば待つ。故障した自分のことも、たいしたことがないように扱う。でも、そうしているうちに、自分が何を感じているのか分からなくなった」

「走れないことが、悔しかったんですか」

「悔しかった」

答えは早かった。

その一言だけで、部屋の温度が少し下がったように感じた。先輩がそんなふうに、迷わず感情を言い切るのを、僕は初めて聞いた。

「悔しかったし、怖かったし、腹も立った。走れる人が悪いわけじゃないのに、走っている人を見るだけで、置いていかれた気がした。自分が主将だった頃に、走れない後輩へ『無理しなくていい』と言ったことも思い出した。あの言葉が、どれほど軽く聞こえたか、あとになって分かった」

僕は黙って聞いていた。

「だから、高瀬に時計を預けた。高瀬は、走れない人間を簡単に切り捨てなかったから」

「僕は、ただ計測していただけです」

「ただ、ではないよ」

「でも、僕は自分が走れないことを、ずっと気にしていました。先輩の走りを見ながら、羨ましいと思っていたし、故障してからも先輩がトラックの外側を歩いているのを見ると、僕だけじゃないと思って、少し安心していた。そんなの、支えることじゃないです」

「支えることに、きれいな動機だけが必要?」

「……分かりません」

「私は、必要じゃないと思う。羨ましくても、悔しくても、その人のラップを測れる。自分が出られなくても、呼吸の乱れに気づける。そういうことは、感情がきれいだからできるんじゃない」

澪先輩の指が、ノートの余白をなぞった。

「高瀬は、自分の悔しさを抱えたまま、誰かの時間を雑にしなかった。それは、簡単なことじゃない」

僕は返事をしなかった。

褒められたくなかったわけではない。むしろ、ずっと褒められたかった。けれど、計測の正確さや片づけの丁寧さではなく、もっと奥の、自分でも見ないようにしていた部分を見つけられたことが怖かった。

「僕は、速くなれなかった」

気づけば、そんな言葉が出ていた。

「練習はしました。朝も走ったし、メニューも手を抜かなかった。でも、蓮みたいにはなれなかった。先輩みたいに、走りながら自分の身体を信じることもできなかった。スタートの前になると、足が重くなる。周りの音が大きくなって、自分の呼吸だけ分からなくなる。だから、計測係を任されたとき、ここなら間違えないと思ったんです。走らなくても、数字なら正確に取れる。役に立てる。そう思って、走りたい気持ちを、測ることの下へ隠しました」

「隠しきれてはいなかったけど」

「そうですか」

「ノートに残ってる」

先輩は、ページの端を軽く叩いた。

「『最後に伸びた』って書いた日の高瀬は、計測が終わってから、誰もいないトラックを一周してた」

僕は息を止めた。

「覚えてないです」

「私は見てた」

「先輩が?」

「故障して、外側を歩いていたから。高瀬は、スパイクを脱がずに、一人で走った。速くはなかったけど、途中で止まらなかった」

喉の奥が乾いた。

その日のことを、僕はほとんど覚えていない。練習の最後に、蓮たちが流しをしていたこと。誰かの記録をノートへ書いたこと。部室へ戻る前に、グラウンドへ忘れ物がないか確認したこと。その程度だ。

けれど、身体は覚えている気がした。

土の柔らかさ。スパイクの底から伝わる小石の感触。走り終えたあと、息を整えながら空を見上げたこと。誰にも見られていないと思っていた。

「僕は、走ってたんですか」

「走ってた」

「どれくらい」

「測ってない」

「どうして」

「そのときの高瀬が、測られたくなさそうだったから」

僕は下を向いた。指が膝の上で固く組まれている。

「先輩は、僕の時間を測らなかった」

「測らなくても、残る時間はある」

その言葉を聞いたとき、僕の中で、何かが静かに崩れた。

これまで僕は、測られたものだけが記録になると思っていた。秒数にならない時間は、誰にも証明できない。だから、走らなかった時間は、走った時間より薄い。補欠だった自分の夏には、数字が少ない。そう考えていた。

けれど、先輩は測らなかった。測らずに、見ていた。

僕が誰もいないトラックを走ったことを、先輩は記録していた。数字ではなく、記憶の中に。

「時計を返します」

僕は言った。

「うん」

「でも、先輩が受け取らないなら、どうすればいいですか」

「明日、また持ってきて」

「同じことをしても、また受け取ってもらえないかもしれない」

「そのときは、また話す」

「何度も?」

「何度でも」

澪先輩は時計を僕の方へ押し戻した。

「約束は、一回で片づくとは限らないから」

僕は時計を受け取った。さっきまで先輩の掌にあったせいか、金属は少し温かかった。自分の体温だけではない、誰かの時間が触れた温度のように感じられた。

「先輩は、これを返してもらったら、何をするんですか」

「進路の話?」

「はい」

「まだ決めてない」

「先輩でも?」

「先輩でも」

澪先輩は、机の上の故障前のスパイクを見た。

「大学では、陸上部に入らないつもり。少なくとも、競技としては続けない。でも、走ることをやめるかは決めていない」

「走らないのに?」

「走らない日があることと、走ることをやめることは、同じじゃない」

「僕には、違いが分かりません」

「今すぐ分からなくていい。走れない時間も、走った時間を消すわけじゃない。それだけ覚えていれば、いつか分かる」

「先輩は、ずっとそうやって待つんですか」

「待つというより、身体が教えるまで、勝手に決めない」

澪先輩はゆっくり立ち上がった。右足をかばうような動きだったが、僕の方へ手を伸ばすことはなかった。机の端に置かれた弁当の容器を重ね、蓋の向きを揃える。話を終える前に、部屋の中を片づけていく。

僕も立ち上がり、空いたグラスを手に取った。

「僕が洗います」

「いい」

「でも」

「返すものを持っている人に、皿まで持たせない」

先輩はそう言ったが、僕の手からグラスを取り上げることはしなかった。二人で流し台へ向かう。狭い部屋の中では、肩が触れそうになるたび、互いに半歩ずつ避けた。

蛇口をひねると、水の冷たさが指を刺した。麦茶の薄い匂いがグラスの内側に残っている。僕はスポンジで底を擦り、何度も水を流した。先輩は隣で弁当の容器を洗っている。水音が重なり、会話のない時間が、今度は重苦しくなかった。

「高瀬」

「はい」

「返すとき、謝らなくていい」

僕はスポンジを止めた。

「でも、忘れていました」

「忘れたことは、なくならない」

「だったら」

「なくならないから、謝って済ませない方がいい」

先輩は容器の水を切り、布巾の上へ置いた。

「返したあとも、自分が測った時間を覚えていればいい。私のために、というより、高瀬自身のために」

「自分のために?」

「高瀬は、誰かのためにしたことを、自分の時間から外しすぎるから」

僕は蛇口を閉めた。水滴が、シンクの底で一つずつ弾けた。

「それは、悪いことですか」

「悪いとは言ってない。でも、外したものは、いつか自分のところへ戻ってくる」

先輩は机の上の時計を見た。

「そのとき、受け取れるようにしておいた方がいい」

部屋を出る前、僕はもう一度、ストップウォッチの裏面を見た。返却先の文字は薄い。何度も擦れば消えてしまいそうなのに、まだ読める。

「明日、来ます」

「うん」

「今度は、受け取ってください」

「考えておく」

「先輩」

「なに」

「受け取らないなら、理由を言ってください」

澪先輩は、少しだけ目を細めた。

「高瀬も、分からないことを分からないままにしないで」

「努力します」

「努力じゃなくて、聞けばいい」

それは、先輩にしては珍しく、まっすぐな言い方だった。

僕は小さく頭を下げた。

「ありがとうございました」

「こちらこそ」

廊下へ出ると、部屋の中より風が強かった。湿った空気が、汗の残った首筋を撫でていく。階段の窓から見えるグラウンドは、暗い水面のように静まり返っていた。

ポケットの中で、時計が太ももに触れた。

今度は、その重さから逃げなかった。

返せなかった。けれど、返さなかったままでもない。僕は今日、時計を持って先輩の前に座り、忘れていた約束を言葉にした。先輩の時間を聞き、自分の時間を少しだけ差し出した。

それが返すということの途中なのかもしれない。

校舎を出ると、夜風が河川敷の方から流れてきた。草の葉が一斉に倒れ、暗い地面の上を細い波が走る。風は見えないのに、通り過ぎた場所だけが分かる。

僕は立ち止まり、時計のボタンを指でなぞった。

測ることはできる。

けれど、測らなければ残らないわけではない。

そのことを、僕はまだうまく信じられなかった。ただ、信じられないままでも、明日またここへ来ることは決められた。

寮の明かりが背中で消えた。

僕はポケットの中の秒針を確かめず、部室へ向かって歩き出した。時計は見えない場所で、細い音を立てながら、僕の知らない次の秒へ進んでいた。

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