第7話 夜風の寮部屋

合宿寮へ向かう廊下は、昼間より長く感じられた。
校舎とクラブハウスの間を抜けると、湿った夜風が頬に触れた。グラウンドの土はまだ昼の熱を抱えていて、靴底から上がってくる空気に、乾いた草と汗の匂いが混じっている。遠くの道路を車が走り、その音が校舎の壁に薄く反射して、また暗がりへ戻っていった。
ポケットの中で、ストップウォッチが太ももに当たる。
歩くたび、硬い角が同じ場所へ触れた。
僕はそのたびに、手をポケットへ入れかけては、やめた。握って確かめれば落ち着く気がするのに、今は触れるほど、返さずに持っていることがはっきりした。
二階の廊下には、白い蛍光灯が一本だけ点いていた。合宿寮は大会や合宿の時期以外、ほとんど使われない。壁紙の端は少し浮き、窓枠には細い砂が溜まっている。廊下の奥から、弁当の容器を重ねる音が聞こえた。
雨宮先輩だ。
僕は部屋の前で立ち止まり、靴ひもを結び直した。ほどけているわけではない。結び目はさっきから何度も確認している。それでも、手を動かしていないと、ポケットの中の重さに意識を持っていかれる。
扉を二度、軽く叩いた。
「どうぞ」
声は、記憶の中と同じだった。大きくない。けれど、廊下の静けさの中ではよく通った。
「高瀬です」
「分かってる」
扉を開ける。
部屋の中央には小さな机があり、その上に、蓋を閉じた弁当の容器が二つ並んでいた。コンビニで買ったものらしい。片方はまだ手をつけていない。窓が少し開いていて、カーテンが夜風に膨らんでは戻っている。
雨宮先輩は、机の脇の椅子に座っていた。
髪は以前より短くなっていた。部活にいた頃は、走るとき邪魔にならないよう後ろでひとつに結んでいたが、今は肩に触れるくらいで揃えられている。右足を少し伸ばしている。故障した方の脚なのかどうか、僕には確かめられなかった。ただ、立ち上がるときだけ、左手が机の端を探った。
「座って」
澪先輩は、向かいの椅子を示した。
「夕飯、まだなら」
「食べました」
「そう」
先輩はそれ以上聞かなかった。僕が嘘をついているかどうか、確かめようともしない。ただ、机の上の麦茶を二つのグラスへ注いだ。氷は入っていない。透明な液体がグラスの底へ落ちる音が、部屋の中でやけに大きく響いた。
「先生から鍵を預かった」
「聞いてる。小野寺先生、鍵当番を間違えたんだって」
「はい」
「先生が自分で間違えたとは言わなかった?」
「僕たちの当番が間違えた、と」
澪先輩の口元が、ほんの少しだけ動いた。
「先生らしい」
僕は椅子に座った。背もたれに身体を預けると、疲れが一度に背中へ集まってきた。走っていないのに、県大会の後から身体が重い。肩、首、ふくらはぎ。使っていない場所まで、走り終えたように痛んでいる。
先輩は、僕の顔を見てから、一拍置いた。
「食べてない顔」
「食べました」
「そう」
「母に、食べろと言われたので」
「それなら、食べてるね」
先輩は麦茶のグラスを僕の前へ押し出した。
「飲んで」
「ありがとうございます」
口をつけると、冷えすぎていない麦茶の味がした。喉を通った液体が、乾いていた身体の奥へ静かに沈んでいく。大会のあとに飲んだスポーツドリンクとは違う味だった。あちらは身体を動かすための水で、こちらは、動かさない身体を夜まで持たせるための水のようだった。
先輩は、窓の外へ目を向けた。
「県大会、終わったね」
「はい」
「どうだった」
短い問いだった。
僕はグラスを両手で持ったまま、答えを探した。勝ったとも、負けたとも言える。青葉台高校のリレーは決勝まで進んだが、上位には届かなかった。蓮は走り切った。僕は補欠のまま、一度もトラックへ入らなかった。
「蓮は、決勝まで走りました」
「うん」
「僕は、走ってません」
「うん」
澪先輩は、評価も慰めも加えなかった。ただ、僕の言葉をそのまま受け取った。
それが、少し怖かった。
「それだけです」
自分で言ってから、声が乾いていることに気づいた。
「それだけ?」
「はい。僕は走ってない。蓮は走った。チームは決勝まで行った。でも、勝てなかった。だから、終わりました」
「高瀬は、それで終われる?」
僕は答えなかった。
先輩は、急かさなかった。窓から入った風が机の上の紙をめくり、白い裏面を見せる。紙の端を、先輩が指で押さえた。何かを言う前に、まず散らかったものを整える。昔から変わらない癖だった。
「先輩は、終われたんですか」
やっと僕が尋ねると、澪先輩は紙から手を離した。
「何が」
「陸上です」
先輩はすぐには答えなかった。視線を落とし、伸ばしていた右脚を少し引く。その動きは遅く、慎重だった。痛みを見せないようにしているというより、痛みのある動きを自分で選んでいるように見えた。
「終わったと思った日もある」
「でも、今も走ってますよね」
「少しだけ。走るというより、確かめてる」
「何をですか」
「まだ動くか。痛みがどこまでなら許せるか。風を受けたとき、身体がどちらへ傾くか」
澪先輩はグラスを持ち上げた。
「走れなくなったあとも、身体はなくならないから。使えないところが増えて、できることが減って、それでも残る感覚がある。私は、それを捨てたくなかった」
「それは、続けてるってことじゃないんですか」
「そうかもしれないね」
「引退したのに?」
「引退は、競技の場から離れることであって、走った時間まで消すことじゃない」
その言葉を聞いて、胸の奥に冷たいものが触れた。
僕は、補欠だった三年間を、記録表の端へ押し込んでいた。走らなかった大会。呼ばれなかった名前。応援席で畳んだタオル。どれも、結果の欄には残らない。だから、自分の中でも、なかったことに近づけようとしていた。
「僕は、走った時間が少ないです」
「少ない?」
「主力の人たちより。試合にも出てないし、記録も遅い。僕が陸上をやっていたって言っても、走った人から見れば、たいした時間じゃない」
「誰が決めるの」
「記録です」
「また数字?」
先輩の声には、わずかな笑いが混じった。ただし、からかうような笑いではなかった。
「数字は必要だよ。私も、数字がなかったら練習の組み立てができなかったし、身体の変化も分からなかった。でも、数字に出ないものを、数字が否定するわけじゃない」
「でも、数字に出ないものは、証明できません」
「証明しなくていいものもある」
澪先輩はそう言って、机の端に置かれた古いスパイクへ手を伸ばした。
黒い靴の表面には、白く乾いた土が残っている。紐は外され、踵の内側が擦り切れていた。先輩はそれを持ち上げると、靴底を確認し、指先で小さな石を取り除いた。
「これ、まだ捨ててないんですね」
「捨てる理由がないから」
「もう履けないのに」
「履けないから、捨てるの?」
僕は黙った。
先輩は靴を机へ戻した。
「走れないものを、役に立たないものと同じにしない方がいい。履けなくなった靴にも、走った形は残る。踵の減り方とか、紐の結び目とか。そういうものを見れば、その人がどう走っていたか、少し分かる」
「でも、靴は走りません」
「そうだね」
「だったら、僕も同じじゃないですか。走れないなら、ただ見ているだけで」
「高瀬」
先輩が名前を呼んだ。
それだけで、僕の背筋が少し伸びた。
「見ているだけの人は、ラップタイムの横に『風が戻るまで待て』なんて書かない」
机の上に置かれた計測ノートを、先輩が引き寄せた。
表紙は薄い青色だった。角が擦れ、何度も開かれた跡がある。先輩はページをめくり、真ん中あたりで止めた。そこには、いくつかの数字と、僕の字で書かれた短いメモが残っている。
雨宮、上がりすぎ。
風が戻るまで待て。
ラストで息が揃う。
自分が書いたものなのに、どれも他人の字のように見えた。
「これ、僕が?」
「高瀬の字」
「覚えてないです」
「覚えていなくても、書いたことは消えない」
先輩はページを指で撫でた。
「この日の私は、向かい風に負けて、二周目でペースを上げすぎた。高瀬は、私が焦っているのを見ていた」
「僕は、ただ計測していただけです」
「違う。計測していたから分かったんじゃない。見ていたから分かった」
先輩の指が、メモの端で止まった。
「数字を取るだけなら、風の戻るタイミングなんて書かない。息が揃ったことも書かない。高瀬は、走った人の時間を受け取っていた。自分では、ただ数字を並べているつもりだったかもしれないけど」
僕はノートから目を離せなかった。
雨宮先輩のラップ。僕の字。風。呼吸。足音。
それらが、ばらばらの記憶ではなく、ひとつの時間として紙の上に残っている。
「この時計も、そういうものですか」
僕はポケットから、SEIKO TRACK MASTERを取り出した。
机の上へ置くと、金属が木に触れて小さく鳴った。澪先輩の目が、時計へ移る。彼女はすぐに手を伸ばさなかった。裏面を確かめるように、視線だけを落とした。
僕は時計を裏返した。
返却先:雨宮先輩。
油性ペンの文字は、蛍光灯の下で黒く沈んでいた。
澪先輩は、指先でその文字をなぞった。
ほんの少しだけ、動きが止まる。
「まだ、これが残ってたんだ」

「忘れていました」
「私も」
「先輩も?」
「返してもらうことを、急がなかった」
先輩は、時計から指を離さない。
「引退したら返して、と言ったのは覚えてる。でも、引退したあと、私の方から取りに行かなかった。高瀬が持っていることを思い出しても、急いで返してとは言わなかった」
「どうしてですか」
「分からない」
先輩は少し考えてから、続けた。
「たぶん、時計を返してもらったら、本当に一つ終わる気がしたから。私は、終わることが怖かった。走れなくなったことも、主将を降りたことも、引退したことも、全部、終わったと言われるのが嫌だった」
「でも、僕は返す約束を忘れてました」
「忘れたことと、捨てたことは違う」
「同じです。見つけなかった。返さなかった。先輩の時間を、そのまま部室の奥に置いた」
「私も取りに来なかった」
「先輩は、取りに来る側でしょう」
「約束は、片方だけが守るものじゃないよ」
その言葉は、思っていたより重かった。
僕は時計へ手を伸ばしかけたが、やめた。返すために持ってきたのに、澪先輩はまだ受け取ろうとしない。二人の間に時計が置かれ、その周りだけ時間が濃くなっていた。
「じゃあ、返さなくてもいいんですか」
自分でも、変な聞き方だと思った。
先輩は首を横に振った。
「返して」
「はい」
「ただし、今日じゃなくてもいい」
「でも、もう十分遅い」
「遅いから、急ぐの?」
「……分かりません」
「分からないなら、急がない方がいい」
先輩は麦茶を一口飲んだ。喉が動き、白い蛍光灯がグラスの縁で細く光る。
「返すっていうのは、謝って終わることじゃない。物を渡して、自分だけ軽くなることでもない。返したあと、その時間をどう持つかまで含めて返すことだと思う」
「僕には、持てません」
「持てないと思っているから、時計を持ち続けたんじゃない?」
僕は顔を上げた。
先輩の表情は静かだった。責めているわけではない。ただ、僕が避けてきた場所を、そこにあるものとして示している。
「返したら、僕は何もなくなります」
言葉が出た。
「時計もなくなる。計測係としての役目もなくなる。県大会も終わった。僕は走っていない。先輩はもう引退している。蓮は次の場所へ行く。そうなったら、僕がここにいた理由が分からなくなる」
言い終えたあと、部屋がひどく静かになった。
廊下の向こうで、誰かが扉を閉めた。カーテンが風を受け、窓枠に触れている。澪先輩はすぐには返事をしなかった。
「高瀬」
「はい」
「理由は、あとからついてくることがある」
「でも、今は何も」
「何もない人は、そんなふうに時計を拭いて持ってこない」
僕は自分の手を見た。
指先には、銀色の細かな汚れがついていた。部室で時計を拭いたとき、布地についた黒い埃が、爪の際に残っている。僕はそれを親指で擦った。
「僕は、返すために来ただけです」
「うん」
「それ以上のことは、分かりません」
「分からなくていい」
「先輩は、いつもそう言いますね」
「急いで分かったことにすると、あとで困るから」
先輩は、少しだけ笑った。
その笑いは、蓮のように場を明るくするものではなかった。むしろ、部屋の静けさをそのまま受け入れるための笑いだった。
澪先輩は時計を僕の方へ押し戻した。
「今日は預かれない」
「どうして」
「まだ高瀬の手の中にあるものだから」
「返しに来たのに」
「持って帰れとは言わない。部室へ戻してもいい。明日、また考えて」
「それでは、また忘れるかもしれません」
「忘れないように、ノートへ書けばいい」
先輩は机の上の計測ノートを開いた。余白に、僕へペンを差し出す。
「何をですか」
「今日、ここへ来たこと。時計を返そうとしたこと。返せなかったこと」
「返せなかったことを書くんですか」
「返したことだけが記録じゃないから」
僕はペンを受け取った。
先輩のペン先が、紙の上で鈍く鳴る。僕は日付を書き、その下に短い一文を置いた。
雨宮先輩に返しに来た。まだ、返せなかった。
書いたあと、いつものように一拍置いた。
その一拍のあいだに、窓から風が入ってきた。湿っていた空気が少しずつ乾き、紙の匂いが濃くなる。先輩の古いスパイクの土が、机の隅で細かく崩れた。
「それでいい」
澪先輩が言った。
「何がですか」
「今日の記録」
僕はペンを置いた。
「先輩は、僕に何を返してほしかったんですか」
聞いた瞬間、先輩の指が止まった。
長い沈黙だった。
僕は、答えを急かさないようにした。蓮が黙って隣にいたように、母が食事を整えながら待ったように、今度は僕が待つ番なのだと思った。
やがて、澪先輩は窓の外を見た。
「時計を返してほしかった」
それだけ言ってから、少し間を置いた。
「でも、それだけじゃなかったのかもしれない」
先輩は、窓の向こうの暗いグラウンドを見ている。夜風がカーテンを揺らし、白い光が床の上で細く震えていた。
「私が走っていた時間を、誰かに持っていてほしかった。自分が走れなくなっても、あのときの呼吸や足音が、どこかに残っていてほしかった。高瀬なら、数字だけを残さないと思ったから」
「どうして、僕なんですか」
「高瀬は、走っている人を見ていたから」
「僕は、先輩みたいに速くない」
「速さの話をしてない」
「でも、僕は……」
「走れないことを、そんなに急いで自分の全体にしないで」
先輩の声は静かだった。
「故障したからって、私は走れなかった人間になったわけじゃない。高瀬も、補欠だったからって、走っていない人間になったわけじゃない。走った人の時間を測って、呼吸を聞いて、風を見ていた。その時間は、高瀬の身体にも残ってる」
僕は返事をしなかった。
返事をすれば、何かを認めることになる気がした。自分が走れなかったことも、支えることだけでは足りなかったことも、誰かの走りに確かに触れていたことも、全部。
澪先輩は、時計をもう一度僕の手元へ押した。
「明日、また持ってきて」
「また返せなかったら」
「そのときは、また記録する」
僕は時計を握った。
金属は、部屋へ来たときより温かくなっていた。僕の体温が移っただけなのに、まるで中に残っていた時間が、手のひらへ戻ってきたようだった。
「先輩」
「なに」
「僕は、まだ走る側ですか」
先輩はすぐに答えなかった。
窓の外で風が向きを変えた。カーテンが一度、部屋の内側へ膨らみ、それから静かに落ちる。僕はその動きを見ていた。風は見えないのに、布の揺れ方で、どちらから来たかが分かる。
「走る側か、支える側か、決めなくていい」
先輩は言った。
「その二つは、思っているほど離れてないから」
僕は、手の中のストップウォッチを見た。
銀色の秒針が、細く進んでいる。
止めるボタンを押せば、止まる。けれど、止めたからといって、時間そのものが消えるわけではない。僕はそれを知っている。知っていたはずなのに、ずっと忘れていた。
部屋を出る前、澪先輩が僕の背中へ声をかけた。
「高瀬」
「はい」
「明日は、ちゃんと食べてから来て」
「……母さんと同じことを言いますね」
「お母さんが正しいから」
僕は少しだけ笑った。
先輩も、ほんのわずかに口元を緩めた。
廊下へ出ると、部屋の中より風が強かった。窓の隙間から入り込んだ空気が、汗の残った首筋を冷やす。階段を下りるたび、ストップウォッチの角が太ももへ触れた。
今度は、その重さから逃げなかった。
返せなかったものを、返せないまま持っている。その事実を、僕は初めて、隠さずに抱えていた。
寮の外へ出ると、校舎の向こうに河川敷へ続く道が見えた。風が草を倒し、暗い地面の上を一本の波のように走っていく。僕は立ち止まり、その波がこちらへ近づき、足元を通り過ぎるのを見た。
夏の熱は、まだ土の底に残っている。
その上を、夜の風が何度も通り過ぎていく。
僕はポケットの中で、銀色の時計を握り直した。手のひらに残る冷たさは、もう後ろめたさだけではなかった。誰かの時間を預かった証拠であり、まだ返していない約束の形だった。
校舎の時計が、遠くで一度だけ鳴った。
僕はその音を聞いてから、部室へ戻る道を歩き出した。
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