第6話 食卓の端で、進路は待たない

その夜の食卓は、湯気で曇っていた。
玄関を開けたとき、家の中には味噌汁の匂いがあった。煮干しの出汁と、焼いた魚の皮の焦げた匂い。部室や河川敷で嗅いだ汗と土の匂いとは違う、身体を外側からではなく、内側へ戻していくような匂いだった。
靴を脱ぐ前に、台所から母の声がした。
「手、洗って。先に水飲みな」
「うん」
「返事だけは早いね」
僕は洗面所へ向かった。蛇口をひねると、冷たい水が指の間を流れた。手のひらには、まだ計測ノートの紙の感触が残っている気がした。雨宮先輩の字。自分の字。数字の横に残された短い言葉。
水を止めても、指先はしばらく濡れたままだった。
食卓へ戻ると、母は焼き魚を皿へ移していた。エプロンの裾には薄い水跡が残っている。洗い物の途中だったらしい。流し台には、伏せられたコップと、明日の弁当用の保存容器が並んでいた。
「食べな」
母はそれだけ言った。
僕は椅子に座った。卓上には白いご飯、焼き魚、味噌汁、きゅうりの浅漬け。それから、朝持たされた弁当箱が置かれていた。蓋は閉じてあるが、重さで中身がほとんど残っていることが分かる。
母は僕の顔を見てから、弁当箱を軽く指で叩いた。
「これだけ残ってるときは、走れてないか、疲れすぎてるか、どっちかだね」
「……両方かも」
「どっちでもいいよ。食べなきゃ同じだから」
責める色はなかった。だからこそ、逃げ道もなかった。
僕は箸を持った。ご飯をひと口取ろうとしたが、箸の先が茶碗の表面で止まった。県大会の夜から、食べ物を口へ運ぶまでに、妙な時間がかかる。空腹ではある。けれど、身体のどこかがまだ競技場に置き去りになっていて、食べることまで戻ってこられない。
テレビの音が小さく流れていた。生活情報番組の司会者が、秋物の衣類について話している。画面の中では、まだ夏の終わりを惜しむような明るい色の服を着た人が笑っていた。
母は味噌汁の椀を僕の前へ置いた。
「熱いから、急がなくていい」
「うん」
「でも、冷める前には食べて」
僕は味噌汁をひと口飲んだ。熱さが舌に残り、喉を通る。身体の内側へ、ようやく温度が戻ってくるようだった。
母は向かいに座らず、流し台の前でコップを洗い始めた。蛇口から落ちる水の音が、テレビの声を薄く隠している。僕が魚の身をほぐしているあいだ、母は何も聞かなかった。
こういうとき、母は急かさない。放っているわけでもない。ただ、聞く前に食事を整える。顔色を見て、箸の進み方を見て、弁当箱の残り具合を見て、それから必要なことだけを聞く。
「それで」
洗ったばかりのコップを布巾の上へ置き、母が言った。
「進路、どうするの」
箸先から、魚の身がひとつ落ちた。
「まだ」
「まだ、何」
「決めてない」
「部活、終わるんでしょ」
「……たぶん」
「たぶん、じゃないでしょ」
母はため息をひとつついた。怒っているときのため息ではない。仕事から帰ってきたあと、家計簿の数字が合わないときや、冷蔵庫の中に使いかけの野菜が増えすぎたときにも出る、考えるための息だった。
「大会が終わったから、部活が終わる。そこまでは分かる。で、そのあとどうするの」
「大学、考えてる」
「何をする大学?」
「まだ、決めてない」
「また、たぶん?」
僕は魚の骨を箸の先で避けた。
「陸上を続けるかどうかも、分からない」
「続けたいの」
聞かれて、僕はすぐに答えられなかった。
河川敷を走ったときの、土を切るスパイクの音が蘇った。蓮の呼吸が途中で乱れ、やがて戻っていったこと。夕陽が川面で細かく割れていたこと。僕はあのとき、蓮の隣を走りながら、走ることから離れたくないと思った。
けれど、それが大学でも競技を続けたいという意味なのかは分からない。速い人間の中に混ざり、また補欠になり、数字の端に自分の名前を置くことになるかもしれない。そう考えると、胸の奥が硬くなった。
「分からない」
「それは、やりたいけど怖いってこと?」
「違う」
「じゃあ、やりたくないけど、やめるのが怖い?」
僕は黙った。
母は冷蔵庫を開け、麦茶の容器を取り出した。グラスへ注ぐ音が、一定の速さで続く。氷は入れない。僕が冷たいものを一気に飲むと、あとで腹を冷やすことを母は知っている。
「お母さんは、陸上のことはよく分からないよ」
母は麦茶のグラスを僕の右手側へ置いた。箸を持つ手の邪魔にならない場所だった。
「百メートルが何秒なら速いのかも、リレーでどこが大事なのかも、正直よく分からない。大会で何位だったかだって、家に帰ってきてから聞かないと忘れる。でも、帰ってきたときの顔は分かる。今日は、走った人の顔じゃない」
「走ってないから」
「そういう意味じゃない」
母は椅子を引き、ようやく僕の向かいへ座った。
「走ってないから疲れてない、って顔じゃない。走れなかったことを、ずっと身体に持ったまま帰ってきた顔。肩が下がってる。歩き方も重い。弁当は残ってる。そういうのは、競技を知らなくても分かる」
僕はグラスの水滴を指で拭った。
「別に、普通だよ」
「普通って言うときは、だいたい普通じゃないね」
「母さんは、何でもそうやって決めつける」
「決めつけてない。見てるだけ」
母の声は大きくならなかった。僕の前で言葉を押しつけるのではなく、食卓の上へ置くように話す。その置かれた言葉を、僕は避けることができなかった。
「僕は、走る側じゃないから」
「それ、誰が決めたの」
「記録が」
「記録が何」
「速い人が走る。僕より速い人がいるなら、その人が出るべきだろ」
「それは分かるよ。速い人が走った方が、勝つ確率は上がるんでしょ」
「そう」
「でも、勝つ確率が上がることと、高瀬が走る側じゃないことは、同じじゃないよね」
僕は顔を上げた。
母は焼き魚の骨を皿の端へ寄せながら続けた。
「働くのだって、前に出る人だけで回ってるわけじゃない。レジに立つ人もいるし、品物を並べる人もいるし、冷蔵庫の温度を見る人もいる。誰かが全部をやるわけじゃない。でも、あなたはそれを聞くと、たぶん『じゃあ自分は並べる人でいい』って思うんだろうね」
「違う」
「違わないでしょ」
母の指が、箸置きの位置を少し直した。
「あなたは、役に立てるなら何でもいいと思ってる。でも、本当は何でもよくない。走りたいのに、走りたいって言わないで、測ることができるから測ってる。片づけができるから片づけてる。できることを増やして、できないことを見ないようにしてる」
味噌汁の湯気が、目の前で細くほどけていく。
母の言葉は、競技場で聞くどんな指示よりも乱暴だった。フォームの崩れやラップの遅れを指摘するのとは違う。僕が隠してきたものの名前を、順番もなく並べてくる。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
声が少しだけ荒れた。
「走ればいいっていうのか。速くないのに。今さら、補欠だった三年間をなかったことにして、大学で頑張ればいいって? そんな簡単じゃないだろ」

「簡単だなんて言ってない」
「母さんは陸上のこと、分からないって言ったじゃないか」
「分からないよ。でも、分からないから言えることもある」
母は、箸を置いた。
「やるかやらないかを、今日決めろとは言ってない。大学で続けるなら、続ければいい。やめるなら、やめてもいい。ただ、やめる理由を『走れなかったから』だけにするな。続ける理由を『誰かに必要とされるから』だけにするな。どっちも、あなたの身体が決めることでしょ」
僕は黙った。
母は少し視線を落とした。机の上の魚の骨、空になりかけた味噌汁、僕がまだ半分しか食べていないご飯。生活の小さなものを確かめるように見ている。
「競技を続けるにしても、やめるにしても、身体を壊すまで考えなくていい」
「でも、ちゃんと決めないと」
「進路の紙は、待ってくれないかもしれない。でも、あなたの気持ちは、紙の日付に合わせて整理されないよ」
その言葉が、意外なところへ落ちた。
僕はずっと、時間には順番があると思っていた。大会が終われば引退が来る。引退が来れば進路を決める。返すべきものはその日に返し、記録はその場で書き、次の練習へ進む。そうやって、ひとつずつ片づけていけば、取り残されずに済むと思っていた。
けれど、計測ノートの中には、何年も前の言葉が残っていた。返すのは、走り終えてから。走り終えたはずなのに、僕はまだ返していない。終わったものが、終わった順番どおりに消えてくれるわけではない。
「部活の物で、まだ返してないものがある」
僕は言った。
母は驚かなかった。ただ、麦茶のグラスを持ち上げ、ひと口飲んだ。
「誰かに借りたの?」
「先輩に預かったもの」
「それは返しなさい」
「忘れてた」
「忘れてたなら、なおさら返しなさい」
「でも、今さらなんだ」
「今さらでも、返すものは返すんでしょ」
母はグラスを置いた。
「あなた、家の中のことでもそうじゃない。借りたものを返さないまま、ずっと気にしてる。返せば終わるのに、気まずいから先延ばしにして、先延ばしにしたことがまた気まずくなって、最後には自分だけが重くなる」
図星だった。
僕は箸の先で、魚の身を細かく崩した。
「返したら、終わる」
「終わるんじゃなくて、片づくんでしょ」
「同じじゃないのか」
「違うよ。終わったことと、片づいたことは違う。終わったからって、何も残らないわけじゃない。片づけたら、残ったものを次の場所へ置ける」
母の言い方は、部室の棚を揃える小野寺先生に少し似ていた。物を捨てるのではなく、置く場所を変える。見えなくするのではなく、見える形に戻す。
「陸上も、そうなのかな」
言ってから、母に聞くことではないような気がした。
母はすぐには答えなかった。台所の時計を見る。秒針が、白い文字盤の上を進んでいる。僕はその音を聞こうとしたが、冷蔵庫の低い唸りに紛れて、はっきりとは聞こえなかった。
「それは、私には分からない」
母は言った。
「でも、三年間やってきたものを、順位だけで捨てるのは違うと思う。あなたが何をもらったのかは知らないけど、疲れて帰ってきても次の日に起きて、また学校へ行ってた。その時間まで、全部無駄だったとは思わないよ」
「勝てなかった」
「勝つことだけが、やったことの証拠なの?」
母の声には、初めて少しだけ強さが混じった。
「家事だって、毎日やったからって表彰されない。洗濯物を干して、食事を作って、仕事へ行って、帰ってきて、また次の日の用意をする。何か記録が残るわけじゃない。でも、やらなかったら生活が崩れる。あなたの部活も、たぶん似たようなものなんじゃないの」
「でも、僕がいなくても、誰かが測るだろ」
「そうかもしれないね」
「じゃあ、僕じゃなくてもいい」
「それと、あなたがいなかったことは違う」
母は、僕の弁当箱を見た。
「代わりがいることと、あなたが必要じゃなかったことは、同じじゃないよ」
その言葉は、蓮の謝罪よりも、小野寺先生の指示よりも、なぜか深く残った。
必要とされることを、僕はいつも、代わりがいないことだと思っていた。自分にしかできない仕事があるなら、そこにいていい。誰かに代われるなら、いなくてもいい。そんなふうに、自分の価値を狭い場所へ押し込めていた。
けれど、計測ノートには僕の字が残っている。蓮の足音を聞いた日も、雨宮先輩の呼吸を測った日も、僕がいた時間として記録されている。代わりがいたかどうかではなく、その時間に誰がいたかということが、あとから消せない形で残る。
僕は魚の身を口へ運んだ。
塩味が、やけに素直だった。身は少し冷めていたが、噛むほどに脂が広がる。空っぽだった身体が、遅れて食事を受け入れ始める。胃の奥へ落ちたものが、そこでようやく重さになる。
母は何も言わず、僕のご飯が減っていくのを見ていた。
「続けるか、やめるかは、すぐ決めなくていい」
母は、空になった味噌汁の椀を見ながら言った。
「でも、食べることと寝ることは、今日決めなさい。明日の朝、起きることも」
「それは進路と関係ないだろ」
「関係あるよ。身体を使うことを決めるなら、身体を粗末にしないことから始めないと」
「陸上をやめても?」
「やめても。走らなくても、身体は残るから」
その言い方に、雨宮先輩の姿が一瞬浮かんだ。故障しても、走ることを完全には手放していない人。走れない時間を、競技の外へ捨てない人。
僕はまだ、そこまで考えられなかった。
ただ、食卓の上の湯気が消えていくのを見ながら、走ることを続けるかやめるかより先に、これまで走ってきた時間をどう扱うかを考えなければならない気がした。
母が立ち上がり、僕の茶碗へご飯を少し足した。
「もう少し」
「まだ食べるの」
「食べる。明日、部室へ行くんでしょ」
「行くけど」
「なら、食べておきな。返すものがあるなら、なおさら」
僕は茶碗を見た。
白いご飯の表面に、台所の明かりが小さく映っている。そこへ箸を入れ、口へ運ぶ。母はそれ以上、何も言わなかった。流し台へ戻り、洗い物を始める。水の音が、今度はうるさく感じなかった。
食べ終えるころには、湯気はほとんど消えていた。
食卓の上には、空になった皿と、少しだけ残った浅漬けがある。母はそれを片づけながら、明日の朝の弁当について話し始めた。卵を焼くか、冷蔵庫に残っている鶏肉を使うか。僕はどちらでもいいと答えたが、母は「どちらでもいいは、食べる人が言うことじゃない」と言って、勝手に決めた。
そのやりとりが、少しだけ可笑しかった。
笑うほどではない。ただ、胸の中に張りつめていたものが、ほんのわずかに緩んだ。
自室へ戻る前、僕は廊下の壁時計を見た。秒針は、音もなく進んでいる。何時かを確認してから、もう一度だけ見た。表示された数字は、さっきから数分しか変わっていない。
それでも、僕の中では、何かが少しだけ動いた気がした。
机の上には、明日の進路希望調査の紙が置いてある。第一志望、第二志望、将来の希望。空欄がいくつも残っていた。僕は椅子に座り、シャープペンシルを持った。
すぐには書けなかった。
代わりに、紙の端へ、今日のことを一言だけ記した。
食べた。まだ決めていない。
書いたあと、僕はいつものように一拍置いた。それから、紙を閉じた。
机の脇には、明日返すために拭いた銀色のストップウォッチが置かれている。文字盤の秒針は、細く、迷いなく進んでいた。
僕は布団へ入る前に、もう一度だけその音を聞こうとした。
聞こえなかった。
けれど、聞こえないままでも、時間が進んでいることだけは分かった。
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