第5話 河川敷、二人ぶんの沈黙

計測ノートを閉じてからも、僕の指先にはまだ紙の匂いが残っていた。

部室を出ると、昼間の熱はもう峠を越えていて、代わりに湿った風が校舎の角を曲がって吹いてきた。河川敷まで歩く道のりの途中、自分の足音を聞きながら、僕はさっき読んだ一文をまだ反芻していた。返すのは、走り終えてから。誰の走り終えてから、なのか。答えの出ない問いを、靴底で土を踏むたびに、また同じところへ連れ戻される気がした。

堤防の坂を下りると、夕方の河川敷は昼の熱をまだ草の根元に溜め込んでいた。アスファルトから伝わってくる熱気とは違う、もっと湿った、植物そのものの匂いのする熱だった。水際からは、流れが石を洗う音が絶え間なく聞こえている。片道二キロの周回路は、僕にとって県大会のトラックよりもずっと馴染み深い場所だった。ラップを取ることもなければ、スタートラインに立つ必要もない。ただ、誰かの隣を歩き、誰かの呼吸の変化を数えるだけでよかった。

蓮は、いつものように先に来ていた。

堤防の階段の下で、自販機で買ったらしい冷たいゼリー飲料の袋を片手にぶら下げたまま、川の方を見ていた。僕の足音に気づくと、振り返りかけて、何かを言おうとした口の形のまま、止まった。おつかれ、と言うには軽すぎる。今日はどうだった、と聞くには、聞く意味がない日だった。蓮はその両方を一度口の中で転がしてから、結局どちらも飲み込んで、黙って隣に立った。

その沈黙が、今日はありがたかった。

僕たちは何も言わないまま、周回路を流すように走り出した。スパイクの裏が土を切る音は、二人ぶん重なって、ひとつのリズムになる。けれど完全に揃うことはなかった。蓮の足音は僕よりわずかに速く、わずかに重い。走る人間の足音と、走らない人間の足音の差を、僕はいつも無意識に聞き分けてしまう。

途中、蓮の呼吸が何度か乱れた。県大会の決勝まで走った身体は、まだ完全には戻っていないのだろう。僕はそれを聞き取りながら、ペースを落とすことも、声をかけることもしなかった。乱れた呼吸が整っていく過程を、ただ黙って聞いているだけだった。それが、僕にできる唯一のことだった気がした。

水面には、夕陽が薄く割れて浮かんでいた。流れが揺れるたびに、光の破片がいくつもの方向へ散っていく。その光景を横目に見ながら、僕たちはもう一周、同じ道を辿った。

「なあ」

蓮がようやく口を開いたのは、かなりの距離を走ったあとだった。声には、走ったことによる息切れ以上の、何か別のつかえがあった。

「昨日さ、言おうとしたんだけど」

「うん」

「……言葉、選びすぎるの、よくないよな」

僕はすぐには答えなかった。蓮の声は、いつもより低い。普段の彼なら、こういう話を切り出すとき、もっと軽い調子で、冗談の皮を一枚かぶせてから本題に入る。今日はその皮がなかった。薄い紙切れのようなものが、いつもの明るさの下に貼りついているのが分かった。

「別に」

僕は、ようやくそれだけ言った。

「気にしないで、とは言わない」

「そういうのじゃなくてさ」

蓮は笑おうとして、笑いきれなかった。口の端だけが上がって、すぐに元に戻った。

「俺、走れる側だから。何か言うたびに、外してる気がするんだよ。おまえが黙るの、たぶん俺のせいでもある」

その言い方に、僕は少しだけ苛立ちを覚えた。苛立ちの理由は、蓮の言葉が間違っているからではなく、むしろ正しすぎるからだった。正しい分析をされると、僕の中にある感情の置き場所がなくなる。悔しさも、劣等感も、数字のように扱われては困るものなのに、蓮はそれを丁寧に測ろうとしてしまう。きっと、僕がいつもしていることと同じやり方で。

「外す、っていうか」

言葉が出るまで、ひと呼吸あった。靴先が土の粒をひとつはねる。

「外されたほうは、覚えてるだけだと思う。外した方は、たぶんそのうち忘れる。でも俺は、たぶん一生覚えてる。スタートリストの補欠欄に自分の名前があったことも、応援席でタオルを畳んでたことも。蓮が走ってるのを見ながら、靴ひもを結び直してたことも」

言いながら、自分でも驚いていた。こんなに長く喋るつもりはなかった。けれど一度口が動き出すと、止められなかった。計測ノートの中で読んだ、自分でも覚えていない字のことが、まだ胸の奥で小さく疼いていた。

「俺は、別にそれを責めてるんじゃない。蓮が速いのは事実だし、蓮が決勝まで行ったのも事実だし、それを羨ましいと思うのも事実だけど、それとこれとは別の話なんだよ。俺がタイムを取ってたのは、蓮のためだけじゃなかった。ただ、俺にできることがそれしかなかったから、やってただけだ。でもそれを、誰かに『当たり前』にされると、なんていうか——自分がそこにいたことまで、消えていくみたいな感じがする」

蓮は、そこで初めて黙った。

川の水音だけが、二人の間に残った。堤防の斜面に生えた草が、風に撫でられて小さく鳴る。遠くで、自転車のベルが一度だけ響いて消えた。

蓮は何か言おうとして、口を開きかけ、また閉じた。いつもの彼なら、ここで何か明るい言葉を探して、場の空気を軽くしようとするはずだった。けれど今日は、それをしなかった。代わりに、首元を指でなぞる癖を見せた。緊張しているときの蓮の仕草だった。

「……ごめん」

ようやく出た言葉は、短かった。

「別に、謝ってほしいわけじゃない」

「分かってる。でも、謝りたかった」

それ以上、蓮は何も言わなかった。僕も、それ以上何かを求めなかった。謝罪の言葉が、今の僕たちの間にある全部を埋めるとは思わなかったけれど、埋まらないままでも、そこに置かれたことには意味がある気がした。

二人はそのまま、もう一周を流した。今度は、さっきよりも足音が揃っていた。蓮が僕のペースに、無意識に合わせてきているのが分かった。

自販機の前まで戻ると、蓮はペットボトルの蓋を先に開けて、僕へ差し出した。水滴が指先に触れ、ひんやりとした感触が掌へ広がる。受け取ると、蓮は僕のバッグへ手を伸ばしかけたが、僕は片手を上げてそれを断った。蓮は引き下がり、自分の荷物だけを肩にかけ直した。

その距離の取り方は、まだどこかぎこちなかった。けれど、無理に詰めようとしないことが、今の僕たちには合っている気がした。

ペットボトルの水を一口飲むと、冷たさが喉を通って、胸の奥まで落ちていった。走っていないのに、走り終えたときのような疲労が、ふくらはぎの奥に残っている。悔しさと、どこか静かな安堵が、同じ場所に同居していた。

河川敷の水面では、夕陽がまだ細かく割れ続けていた。流れは止まらない。僕たちの足音も、いつかは止む。それでも、今この瞬間、隣に誰かがいて、冷たい水を分け合っている事実だけは、確かに手の中に残っていた。

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河川敷、二人ぶんの沈黙 - 測る夏 - 誰でも作家life