第4話 ノートの底で、まだ息をするもの

県大会から一夜明けた部室は、窓を開けても埃っぽかった。
朝の光が、斜めに差し込んでいる。黄ばんだ大会プログラムの端を白く浮かせ、棚の奥に積まれた計測ノートの背表紙だけが、やけに整然と並んで見えた。昨日まであれほど熱を持っていた空気が、一晩でこんなに静かになるものかと、僕は少し驚いた。
鍵を開けて中に入る前、僕はいつものように、備品棚の位置を目でなぞった。テープの箱、安全ピンの小箱、計測用具の棚。どれも昨日、自分で揃えた場所にある。確認してから、ようやく扉を押し開けた。
誰もいない部室に、僕の足音だけが響いた。
手のひらには、まだ昨夜からの感触が残っている。ポケットの中で角が太ももに当たっていた、あの金属の冷たさ。合宿寮から部室に戻してから一晩が経つのに、まだ指先がそれを覚えているような気がした。
机の引き出しを開けると、SEIKO TRACK MASTERはそこにあった。昨日、小野寺先生と一緒にしまった場所から、一ミリも動いていない。当たり前のことなのに、僕はなぜかほっとした。
しばらくして、小野寺先生が入ってきた。
手には、昨日返却されたゼッケンの束を持っている。先生はそれを机の上に置き、無言で順番を揃え始めた。皺の寄った布の端を伸ばし、番号順に並べ直していく。僕が何か言う前に、先生は顎で部屋の隅を示した。
そこには、古い木箱がひとつ置かれていた。
「それ、読んどけ」
それだけだった。説明はない。僕は箱を見て、それから先生を見た。
「計測ノートですか」
「見りゃわかるだろ」
先生はそう言ったきり、ゼッケンの整理に戻った。僕は箱の前にしゃがみ込み、蓋を持ち上げた。
中には、何冊ものノートが詰まっていた。表紙の色あせ方がそれぞれ違う。新しいものは青い表紙のまま、古いものは茶色く焼けて、角が丸く擦り切れている。何年分もの時間が、この木箱の中に重なって眠っていた。
「全部読めってことですか」
「全部は言ってない」
「じゃあ、どれを」
「それは、おまえが見ればわかる」
先生はゼッケンを揃える手を止めずに言った。
「読んでわからないなら、まだ読み足りないってことだ」
僕はその言い方に、少しだけ苛立ちを覚えた。けれど、言い返す言葉を探している間に、先生はもう次の作業に移っていた。苛立ちは、宙に浮いたまま行き場をなくした。
一冊目を手に取る。表紙はもう何年も前のものらしく、紙の匂いがいつもより濃かった。開くと、数字の並びが整然と記されている。百メートルのラップ、二百メートルの分割タイム。どのページも几帳面に書かれていて、数字そのものは僕が普段つけているものと大差なかった。
けれど、欄の端に、小さな一言が添えられていることに気づいた。
「向かい風」
「肩が上がる」
「最後に伸びた」
「今日は音がそろっていた」
数字だけでは伝わらない何かが、その余白に残されている。風の強さ、フォームの崩れ、ラストスパートの伸び、そして——音。足音のことだろうか。僕はページをめくる手を止めて、その一言をもう一度読んだ。
「今日は音がそろっていた」
誰が書いたのか、名前は記されていない。けれど、字の癖には見覚えがあった。細く、几帳面で、けれど最後の払いだけがわずかに柔らかい。
雨宮先輩の字だ。
僕は箱の中から、もう何冊か取り出した。背表紙に貼られた日付のシールを見比べながら、先輩が主将だった頃のものを探す。見つけたノートの一冊を開くと、そこには彼女自身の記録が並んでいた。
八百メートルのラップタイム。四百メートルごとの通過。自分の記録を自分で測ることはできないから、誰かに計測を頼んだはずだった。その「誰か」が、ページの端に短い言葉を残している。
「向かい風、きつそう」
「ラストで息が揃う」
「上がりすぎ、注意」
字は、僕のものだった。
自分の字だとわかった瞬間、妙な感覚が胸を這い上がってきた。覚えていないのだ。こんな言葉を書いた記憶が、僕にはない。ラップタイムを測ったことは覚えている。先輩の走りを見ていたことも覚えている。けれど、その横に何かを書き添えようと思った瞬間のことは、どこにも残っていない。
なのに、字は確かに僕のものだった。

無意識に、僕はいつも数字の横に何かを書いていたのかもしれない。走っている人の呼吸を聞きながら、足音の間合いを数えながら、頭のどこかで感じたことを、指先が勝手に書き留めていたのかもしれない。
「それ、見つけたか」
気づけば、小野寺先生がすぐ後ろに立っていた。ゼッケンの整理はもう終わっていたらしい。
「これ……僕が書いたんですか」
「おまえの字だろう」
「覚えてないです」
「覚えてなくても、書いたものは残る」
先生はそう言って、僕の手元のノートを覗き込んだ。
「数字だけ見てたら、こんなもの書かない。音が揃ってる、なんてことは、数字には出ない」
「でも、意味がわからないです。僕はただ、計測係として……」
「計測係ってのは、数字を取る係じゃない」
先生の声は、いつもよりほんの少しだけ低くなった気がした。
「時間を預かる係だ。誰かが走った時間を、ちゃんと受け取って、残す係だ。受け取るときに、何も感じないやつにはできない」
僕は何も言えなかった。先生の言葉が、胸の奥で何かを押している感覚があった。言葉にできないまま、僕はもう一度ページに目を落とした。
「上がりすぎ、注意」
この一言を書いたとき、僕は確かに雨宮先輩の走りを見ていた。中盤でペースが上がりすぎていることに気づいて、何か伝えたいと思ったのかもしれない。けれど、伝える言葉は持っていなかった。だから、ノートの端にだけ、それを書き残した。
誰にも見せるつもりのない、独り言のような一言。
それが、何年も経って、こんな形で僕の手に戻ってくるとは思わなかった。
ページをさらに繰っていくと、ある一冊の、ある一日の記録に目が止まった。先輩自身の筆跡で、タイムの横に、他よりも丁寧な字で、ただ一言だけが記されていた。
「返すのは、走り終えてから」
僕の指が、そこで止まった。
何を返すのか、書かれていない。けれど、読んだ瞬間、僕の中で何かがかちりと音を立てた気がした。これは、ストップウォッチのことだ。間違いない。
返すのは、走り終えてから。
先輩は、いつ走り終えるつもりだったのだろう。その日、その言葉を書いたとき、彼女はまだ故障していなかった。引退のことも、きっとまだ遠い話だったはずだ。それなのに、彼女はもう、いつか返してもらうことを、どこかで決めていた。
僕は、その日、先輩に何か聞き返しただろうか。思い出そうとしても、記憶の中には何も出てこない。おそらく僕は、何も聞かずに、ただうなずいただけだったのだろう。
「返すのは、走り終えてから」という言葉の意味を、僕はずっと分かったつもりでいた。けれど、今ここで読み返すと、その「走り終える」が誰のことを指しているのか、急に分からなくなった。
先輩が走り終えたら、ということだったのか。
それとも——僕が、走り終えたら、ということだったのか。
ページを閉じることができないまま、僕はそのまま机に突っ伏すようにして、紙の匂いを吸い込んだ。インクの匂いと、乾ききらないゴムの匂いが、鼻の奥で混じり合っている。古い紙の匂いは、どこか雨上がりの土の匂いにも似ていた。
「わかったか」
先生の声が、頭の上から降ってきた。
僕はすぐには答えなかった。わかった、と言うには、まだ何かが足りない気がした。わからない、と言うには、もう何かが見えすぎていた。
「……少しだけ」
それだけ答えると、先生は短く鼻を鳴らした。満足したのか、呆れたのか、僕にはわからなかった。
「少しでいい。全部わかるやつなんて、どうせいない」
先生はそう言って、箱の蓋を僕の手から取り上げ、静かに閉じた。パタン、という乾いた音が、部室の中に短く響いた。その音が消えたあとも、僕の中では、まだ何かが鳴り続けていた。
数字の裏に、これほどのものが眠っていたとは思わなかった。
誰かの呼吸、誰かの迷い、誰かの約束。ラップタイムの行間に、そういうものが積もっていた。僕は今まで、ただ正確に数字を取ることだけを、自分の仕事だと思っていた。けれど、このノートの中にいる僕は、もっと別のことをしていたらしい。
机の上に置かれたストップウォッチを、僕はもう一度手に取った。
冷たさは、昨日と同じだった。けれど、その重さの意味が、少しだけ違って感じられた。
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